第10話 ドラゴン


「サイアク!」


 高等部一階の廊下に、悲痛な色を孕んだ声が響き渡る。


「どうしたの、真珠しずくちゃん?」


 声の主と並んで歩いていた望月もちづき良子よしこが気遣わしげに声を掛け、その隣から日川ひかわ一号いちごうも何事か、と視線を送る。

 江崎えざき真珠は眉を「ハ」の字に傾けながら、鞄に付けた小さなぬいぐるみを二人に見せた。


「ここ……穴開いちゃってる」


 見ると、黒い兎の頭頂部に人差し指の爪ほどの大きさの穴が開き、白い綿が覗いてしまっている。


「どっかで引っ掛けたのかな……あぁ、ホント最悪……」

「大切なぬいぐるみなのですか」


 江崎は頷き、鼻をすすった。


「大丈夫? カラオケ行く前に、どこか直せる所で診てもらう?」

「や……いや、大丈夫。待たせちゃうし。ごめん、急に大声出して。行こ」


 口ではそう言いつつ、江崎の目は赤みを帯び、うっすらと涙の膜が浮いている。

 望月と日川が困ったように顔を見合わせた時、後ろから別の一団の足音が近付いてきた。


「何しとん、君ら」

「『サイアク』って聞こえたぜ?」

「ちょっと、真珠ちゃんのぬいぐるみがね……あっ」


 山森やまもり池園いけぞのに声を掛けられ振り返った望月が、二人と共にやって来た陽午ひうまじんの姿を認めて声を上げた。


「ひまじん! ナイスタイミングだよぉ!」

「私?」

「ほら、見て!」


 呆けた顔をした陽午の腕をぐい、と引き、望月は江崎のぬいぐるみを彼に見せた。


「ちょっと……良子? こいつに何が出来るっての?」


 顔見知りとはいえ、何とはなしに信用ならないと思っている男子に割り込まれた江崎の声には棘。

 しかし陽午はぬいぐるみのを見て納得したように一言「あぁ」と呟いた。


「悪い、少し遅れる」

「うぃ」


 池園と山森を先に行かせ、陽午は来た道を引き返して教室前の個人用ロッカーに向かう。


「……?」


 いぶかしむ江崎と不思議そうに見守る日川の前に、陽午が戻ってくる。

 その手には、雄々しい龍のイラストが刻印された小さな鞄が握られていた。




 ★




「こうして……こう」


 あまり手元を注視されると、やり辛いのだが。

 それだけこいつは江崎にとって大事なぬいぐるみなのだろう。気を入れてゆっくりと針を動かす。とは言っても、大した作業ではない。


「コの字に縫って、玉止めをして……最後に、引く」

「わ……」


 兎の頭に開いていた亀裂がぴたりと閉じる。ハサミで余剰分をちょい、と切ってやると、黒い糸は黒い生地に溶け込んで見えなくなった。


 針と糸を机の上の裁縫箱にしまい、持ち主にぬいぐるみを返す。

 江崎は縫い目をそぉっと何度か撫でた後、上から横から患部を確認し、やがてぽつりと口を開いた。


「すご……」

「あくまで、ずぶの素人の応急処置だ。糸が緩んで傷口が開く前に、専用のクリーニング屋に預けた方がいい。大事な物なら」


「流石だねぇ、ひまじん」と望月が拍手をし、日川さんからも感心したような眼差しが送られる。悪い気はしないが、教われば本当に幼児でも出来る手順を踏んだだけなので微妙にむず痒い。


 しばらくぬいぐるみの顔を見つめていた江崎が、思い出したように顔を上げた。


「あ……あり、がと。ひまじん、こういうの得意だったんだ」

「得意というより、昔取った杵柄だな」

「きね……どゆこと?」

「小学校に上がった頃から、妹が漫画やアニメのぬいぐるみを集めるようになって。そいつらを激しく戦わせて遊ぶものだから、時々穴が開いたり千切れたりした。それを私が直してやっていたんだ」


「妹いたんだ……」と江崎がこぼす。私はどうも兄らしくない頼りなさを身に纏っているようで、妹がいると言うと驚かれるのは毎度のことだ。


 まぁ、何にせよ、私の役目は終わった。とうにやらなくなった裁縫がこんな形で役に立つとは。

 立ち上がりかけ、私はふと、江崎が大事そうに捧げ持つぬいぐるみを指差した。


「それ……大事にしているんだな」

「えっ?」

「それも、何年も前から。中の綿はへたっているけど、きちんと定期的に洗ってある」


 別に何の意図もない世間話の延長のつもりだったが、江崎は恥をかかされたような顔をした。


「な、何だよ。悪い? いい年こいてぬいぐるみなんか大事にして」

「いや、別に、おかしくはない」


 私は慌てて手を前に出し、続けた。


「物を大事にするのはいい事だ。物を大事にする人間は、他人も大事にできる」

「……何それ」


 ふい、と江崎がそっぽを向く。

 スベったなぁ、と思いながら、私は今度こそ席を立った。




 その晩、日川さんと通話していて、自然その話題になった。


『江崎さんは何度も陽午さんを褒めていましたよ。誤解していた、もっと陰気で偏屈で不器用な奴だと思っていた……と』

「そ、そうですか。それもまぁ、間違いではありませんが。役に立てたならよかったです。日川さんも縫って欲しいものなどあれば、遠慮なく言ってくださいね。この頃、私の方ばかり日川さんに何かしてもらっていますから」


 外は相変わらずの小雨。互いに声を抑えて話しているから、向こうの雨音もよく聞こえる。


『……私は、安心しました』

「安心?」

『陽午さんは、物にも、人にも、優しい方なのですね。……今でも』


 今でも、というのは、どういう意味だろう。

 聞き返そうとして、その声はにわかに強まった雨足にかき消された。稲光がほとばしり、どどぉん、と何処かに雷が落ちた。


「急に嵐になりましたね」

『はい……そういえば、お尋ねしたい事が』

「何ですか?」

『あの裁縫セットの意匠は、陽午さんがお選びになったのですか?』

「う」


 脳内でドラゴンが稲妻を背に猛々しく吠える。一切触れないで逃げおおせるつもりだったが、そうは問屋がおろさなかったか。


『私は素敵だと思ったのですが、江崎さんが……あれだけはない、と……』

「えぇとですね、あれは、そう、若気の至りというか……男子にはあるのですよ、黒無地やスポーティーな柄よりも、龍の覇気に惹かれてしまう年頃が……」


 遠くでまた雷が落ち、咆哮のような音が響いた。

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