第2話 ポツンと空いた穴
———
二十歳の時に結婚した幼馴染の妻。
彼女さえいれば何もいらない。そう思えるほど私の人生は充実していて、何不自由ない人生だった。
「子供は出来にくい身体のようですね。奥さん側は子宮内膜が原因なのか着床が難しいですし、何よりも旦那さんの精子が極端に少ないです。自然妊娠はまず無理だと思って頂いた方がいいでしょう」
結婚して五年目の時だった。
自分に子種がないと診断された時は、頭が真っ白になって申し訳ない気持ちに苛まれた。
だが、妻の沙都子は違った。
彼女は母になることを選ばない人間だった。
「それなら仕方ないわね。
不満なんて何一つなかった。
趣味も話も、食事の好みの知り尽くした私達は、自他共に認めるおしどり夫婦だったに違いない。
——だが、それが私だけの錯覚だと気付かされたのは、彼女の余命が半年だと宣言された時のことだった。
「傑さん、ごめんなさい……。あなたを嫌いになったわけじゃないのだけれど」
会社の健康診断で判明した彼女の癌。
その病名と共に告げられたのが、彼女の上司との不倫だった。
「三年ほどのお付き合いになるかしら……。ほら、私と傑さんもそういう関係はご無沙汰だったじゃない……? モヤモヤしても、今更あなたに求めるわけにもいかないし、私もあなたにはそういう感情も湧かなかったし……。そんな時に上司の
何不自由ない人生だと思っていた。
子供は好きだったから、出来なかったことは悲しかったけれど、それでも仲のいい妻と仲睦まじく生きていたと自信があった。
だけど、それも、私だけの勝手な思い込みだったと知らされた。
「もちろんあなたに貯金もマンションも全部差し上げます。だけど、ごめんなさい。最期の時は彼と……武山さんと過ごさせて下さい。後生です……お願い致します」
病気の妻に頭を下げられて、拒める人間がどこにいるだろう?
結局私の元には多額の貯蓄と、彼女の生命保険。そして相手の男からのお詫びの慰謝料が振り込まれた。
「私達の意向を汲んで頂いた貴方に感謝します。さすが沙都子と長年連れ添ってきた方だ。人間の出来たお人だと尊敬します」
ザワっとした感情が肩のあたりを撫でたけれども、私は誤魔化すように笑ってその場をやり過ごした。
だって、妻から駄男としての烙印を落とされた上に、他に愛する男性がいると告げられたのだ。
そんな私に何と言わせたかったのだろう?
結局、全てが嫌になった私は長年住んでいたマンションを売り払い、仕事も辞めて何の
「——とはいえ、やはりこの年からの一人暮らしは堪えるな」
家電どころか調理道具も殆ど処分してしまった。正に真っさらな状況というのが相応しいだろう。
家電量販店で一人暮らしキャンペーンのパックを購入し、スーツとお気に入りの服を詰めた段ボールを持って、私は新しいマンションへと引っ越してきたのだった。
そして、そんな私を待っていたのは、西村という若者との出会いだった。
一回りは違うだろう年齢の好青年。
おそらく三十路前後だろう。
清潔感のある身なりに、短く切られた髪はワックスでツンツンに仕上げられていた。
どこか遠慮がちな視線に興味が惹かれ、気付けば初対面にも関わらず挨拶を交わしていた。
いくら引っ越してきたからと言って一介の住人に挨拶をするなんて、昔の私からは想像もできない行動だった。
年を取ってしまったせいか、はたまた妻との出来事のせいで、ポッカリ空いた穴を埋めたくなったのか。
そう、きっと私は人とのコミュニケーションを欲していたのだ。
「暮野……傑さん? 名は体を表すと言ったように貴方に相応しい素敵な名前ですね。俺は三階に住む西村と申します。よろしくお願い致します」
「あぁ、よろしく頼むよ」
人当たりのいい、端正な顔をした若者だった。
きっと女性にもモテるに違いない。こんなくたびれたオッサンを相手にしている時間なんてないだろうと思っていたのだが、予想外に彼は私に時間を費やしてくれて、気付けば年の離れた友人となっていた。
全ての家電を処分した私の為に、色々と調べてお店にも出向いて買い揃えてくれた。料理が苦手な私に教えてくれたり、手料理を振る舞ってくれたり、一緒に飲みに出かけることなんて週に一、二回はあったかもしれない。
最初のうちは彼の好意が有り難かったが、次第に心苦しく思えてきた。
(私なんかが彼の貴重な時間を奪っていいのだろうか?)
もちろん、私からでなく彼から誘ってくれることも多い。だが、妻に浮気をされた挙句に死に別れたオッサンと違い、彼は将来有望な好青年なのだ。
きっと西村くんを放っておく女性も少なくないはずだ。
お付き合いしている女性は本当にいないのだろうか?
妻に先立たれ、哀れになった私に同情しているだけではないのだろうか?
私は——……
「暮野さん……? どうしました? ビール注ぎましょうか?」
気付けば、西村くんという一人の人間のことが気になって仕方なくなっていた。
今まで妻一筋で生きてきた私にとって、落雷を受けたような衝撃だった。
絶対に彼には知られたくない。
こんな中年のオッサンが、好青年である彼にこんな想いを抱いているだなんて、絶対に悟られたくなかった。
「今度、俺が好きな地ビールの立ち飲み屋に行きませんか? 骨付き肉が旨いんです。ぜひ暮野さんにも食べてもらいたいな」
「あ、あぁ。楽しみにしているよ」
気持ちを自覚したからこそ、彼の時間をこれ以上奪ってはいけない。そう思っていても手放したくなかった。
41歳を過ぎてから初めて知った、私の初恋だった。
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