Gravity Well グラヴィティ・ウェル - 重力転生 -

戌亥縁

第1話 落下

 





 少年の体は、地面に向かって落下していた。






「重力」に決して逆らうことなく、ただただ真っ直ぐと。


 落ちていく少年の身体を、風が激しく撫でる。地面という名の巨大な怪物が、静かに大きな口を開けて少年の体を捕食するように、少年は地面に吸い寄せられていた。


 一度落ちれば、いかなる抵抗も無意味だった。あとほんの数秒で、少年の身体はコンクリートの地面に激しく叩きつけられ、身体から内臓を撒き散らし、多量の血を垂れ流して、「18年」という短い生涯を終えるだろう。


 少年は、決して自ら死を選んだわけではない。多くはないが、高校のクラスに友人と呼べる存在は何人かいたし、誰かからイジメを受けているわけでもなかった。


 その日。


 アイザワ・ユウトは高校の屋上でいつものように一人の時間を過ごしていた。平日の放課後、家に帰る前に屋上でぼうっとするのが彼の日課だった。






 3年前に父が亡くなった。






 消防士として、火災現場での救助業務の際に、逃げ遅れた人々を助けるため火の海に身を投じ、そのまま帰らぬ人となった。母は父を亡くした後、まるで抜け殻のようになってしまった。


 しかし、ユウトを養うために毎日夜遅くまで近所のスーパーマーケットで懸命に働いた。父が生きていた頃よりも白髪の量が目立つようになった。


 ユウトも母を支えた。


 中学に入って始めたボクシング部の練習も、高校に入ってからはすっぱりと辞めてしまった。早朝に新聞配達のアルバイトをして、家計のために身を粉にして働く母の負担を少しでも減らすためだった。


 母は「ユウト」のため、ユウトは「母」のため、懸命に生きた。その母も、過労が原因で肺の病気を患い、3ヶ月前にこの世を去ってしまった。


 ユウトは悲しみに暮れた。どれほど泣いても、どれほど叫んでも、残酷な現実を変えることができない自分の非力さを憎んだ。


 しかし、悲しみや喪失感が彼という器を満たしても、「明日」は必ずやってくる。気持ちの整理は少しも出来ていないのに、時間だけは几帳面に過ぎていく。


 母が亡くなって少し休みはしたが、日が経つと、ユウトは再び学校に通うになった。周囲の人間は、ユウトの不幸を気の毒に思った。


 担任の教師や同級生、みんながユウトに気を遣い、いつまでも「彼の理解者」であるように演じた。ユウトにはそれが嬉しくもあり、同時に辛くもあった。それ以降、ユウトは放課後に屋上で一人物思いに耽るようになった。


 とにかく一人になる時間が欲しかった。


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 その日。いつものように屋上での一人の時間を終え、階段へと繋がる扉に向かって歩き出した際、ふと屋上の隅に目をやると、1人の女性の後ろ姿が見えた。


 少し距離があったので、「長髪の女性」ということしか分からなかった。


(うちの制服、じゃ、ないな……?誰だろう。保護者の人かな)


 その女性は、屋上の柵の近くに立っていた。柵の向こう側は所謂「空中」であり、その下にはグラウンドが広がっている。ユウトが通う高校は、去年から改築工事が進んでおり、屋上には転落防止のための3mほどの高さのフェンスが設置されていた。


 しかし、その女性が立っている場所は、まだ改築作業の手が入っていない部分だったため、腰の高さくらいの柵があるだけだった。つまり、その柵を乗り越えれば、屋上から地面へと落ちてしまうことが簡単に予想された。


(あの人、あんなところで何してるんだ……)


 ユウトがそう思った次の瞬間、最悪の「想像」が「現実」になるのを見た。







 女性が柵を乗り越え、そのまま空中に自らの身を委ねようとしたのだ。







「お、おいッ!嘘だろ……!」


 ユウトは女性に向かって走り出していた。ただがむしゃらに。女性の身体がゆらりと傾く。全身から力を抜いて、ベッドに倒れ込むかのように、柵の向こうの世界にその身を預けようとしている。グラウンドで練習している学生達はまだ誰も気づいていない。


 ユウトは走った。そして、柵を飛び越えて女性に近づくと、「向こう側」にまさに落ちようとする女性の腕を渾身の力で引っ張り上げた。


 そして不幸にも、「全力で走った彼」の勢いが引っ張り上げる力によって相殺されることはなかった。







 ユウトの身体はそのまま空に投げ出された。







(やっ……やべ……!)


 なぜそうしたのかは彼にもわからない。昔から他人のために自分を犠牲にしがちではあったが、「自分の命を賭してまで、見ず知らずの女性を助ける」ほど、彼はお人好しではなかった。


「そうしなければいけない」と、本能が彼の身体を強制的に動かしたと言うしかなかった。あるいは、両親を亡くし、これ以上自分の身の回りで誰かが死ぬことには耐えられなかった彼の優しいエゴが、彼を動かしたのかもしれない。


 空中に身を投げ出されたユウトには、全てがスローモーションのように思えた。グルンと視界が躍動し、これから地面に向かって落ちていく「自分」と、それをどこか遠くから俯瞰しながら見ている自分がいた。







(死ぬ……?)







 身体が落ちる際、女性の顔を見ようとしたが、頭上にある太陽が放つ眩しい光せいで視界が眩み、見ることはできなかった。


 父は生前、いつも言っていた。







「常に自分の気持ちに正直でありなさい。もし、その結果が間違っていても、自分の気持ちに誠実に従った自分を心から誇りなさい」






 女性を助けたいと思った気持ちに嘘偽りはない。その気持ちに一点の濁りもないからこそ、ユウトは即座に動き、女性の命を救ったのだ。しかし、その結果として、代わりに自分が命を落とそうとしている。


(父さん……)


 死ぬ瞬間、人間の頭には「走馬灯」が流れるという。しかし、ユウトの頭の中にはそれとは異なる「2つの感情」が溢れた。


 まず、純粋な「死への恐怖」だった。あと数秒で自分は死ぬ。間違いない。9階建ての建物から地面に落下して助かる人間は、まずいない。「100%の確率で自分は死ぬ」という事実が、少年の脳内に一生消すことができない焼印を押すように、ただただ鎮座していた。


 そして、もう一つの感情は「安堵」だった。ユウトは確かに安堵していた。「安堵」が、これから死ぬはずの人間に最もそぐわない感情であることは本人が一番理解していた。


(これで、父さんと母さんに会えるのかな……)


 ユウトはゆっくりと目を閉じた。







 少年の身体は地面に向かって落下した。







「重力」に決して逆らうことなく、ただただ真っ直ぐと。落ちていく少年の身体を、風が激しく撫でる。


 彼が「地面」に到達するまで、あと1秒。


 静かに、ただ悠然と少年を待ち構えていた「地面」が、真っ逆さまに落ちてきた彼の髪の毛の先端に触れるほんの少し前、














「死」を受け入れた少年は、目を閉じた。









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