第2話


その探偵事務所は住宅地の中にある。

どこにでもある昭和に建てられた、こじんまりした二階建ての表札に、苗字ではなく、


メル探偵事務所


とあった。


ここが探偵事務所だと認識している者は、ほとんどいない。


客は近所の年寄りばかりで、買い物の代行やら部屋の掃除の手伝い、電球の交換など、ていのいい何でも屋と言ったところだ。

メルは、この探偵事務所と言う平凡な家に、

独りで住んでいる。

メル探偵事務所は、メルが物心つく頃にはあって、父はメルのシャーロックホームズだった。

父は浮気調査や人探しを生業としているようには見えず、作業服を汗まみれにして現場仕事を

こなし、頼られれば金になるかわからないような頼み事も、嫌な顔一つせずに引き受けるような人だった。

だから、決して生活に余裕があった訳ではない。

それでも、メルを男手一つで大学まで行かせた。


メルに母は無い。

記憶も無い。

家には母の痕跡すら無い。

母はメルを産んですぐ、家族でなくなったらしい。

幼い頃からメルに母はいらない。

無条件に優しく、何にでも答えてくれる父がいるだけで、充分だった。

そんな父を感謝と敬意を表して、メルはホームズと呼ぶ。

メルの大事なホームズも、病気には勝てず、一昨年亡くなった。


メルはこの辺りで、かなり大きな企業に勤めていたが、ホームズの死を期に、自分の名を冠した探偵事務所で何でも屋(探偵業)を始める事にしたのだ。

やってる事は雑用ばかりの何でも屋でも、

メルは自分を名探偵だと信じて疑わない。

ホームズが残した、書棚いっぱいの推理小説が、メルの思い込みを支えている。

メルが探偵(何でも屋)になったのは、人のいいホームズの仕事に惹かれた訳ではない。

そもそも、探偵と言いながら、ホームズが自分とメルの生活を支えていたのは、汗まみれの日雇い仕事なのだ。

それでも、この仕事を選んだのは、避けられない女の賞味期限からだろう。

会社での仕事は、やり甲斐があったのだが、

歳を重ね同僚の女達が家庭を持って片付いて行くたびに、メルを取り巻く視線が特異な者を見ているように変わって行くのを感じ、

30を半ばを過ぎて、この先独りでやって行こうと決めた時、会社での人との関わりがわずらわしく思えたからだ。


メルの容姿は中の上、上の下。

美人とは言いがたいが、可愛らしく、とても30半ば過ぎとは思えない。

どんな男でもほっとかないレベルではあるのだが、こんな歳まで浮いた話がまったく無かったのには、それなりの理由がある。

メルは何かにつけ、人の考えや行動を推理と

称して、詮索する癖があった。

ゆえに人が寄り付かない。

要は面倒臭い女なのだ。


探偵事務所の電話は、もう何ヶ月も鳴っていない。

もっとも、ここの番号を何人が知っているだろう。

名探偵を必要としているのはみな近所だから、用があれば、直接やって来るはずだ。


依頼が無いからと言って、日がな好きな推理小説を読みふけっているのでは、生きていけない。

メルもまたホームズと同じよう、生活の為、

他の仕事も兼業する事を余儀なくされた。

だからと言って、ホームズのように日雇いをやる訳にもいかない。

女にありがちな、水商売で生計を立てている。

10歳もサバ読んで、キャバクラに潜り込んだと言うのに、メルはかなりの人気嬢になっていた。

この点だけは母に感謝しなければならない。

人気なのは、年齢不詳の可愛らしさに加えて、人に敬遠されがちな詮索癖が、皮肉にも客に好意を持っていると錯覚させるようだ。

当の本人が意に介さないのに、わざわざ金を支払って、メルの言葉や表情に客がヤキモキする様は笑える。

メルは携帯に入った客のラインとメールを面倒臭そうに目を通すと、適当にハートを数個打ち込んで送信した。




「犬を探して欲しいのですが…。」


久しぶりの依頼人が訪れた時、メルは完全に油断していた。

連日の暑さにエアコンを点けず裸同然でいたのは、電気代をケチった訳ではない。

もう11月になろうと言うのに、冷房のスイッチを入れる事に、なんとなく納得できなかったからだ。

玄関先で声がした時、どうせ近所の婆さんだろうと、鷹をくくって、汗だく剥き出しの身体で出て行った。

近所の婆さん相手に、恥じらう身体など持ち合わせていない。


「こちらなら、どんな依頼でも聞いてくださると聞いたものですから…。」


玄関に立っていたのは、女だったら誰でも羨む、美しさの条件をすべて備えているような、見知らぬ女だった。


「…は… はぁ…。」


メルはため息のような生返事の後、我に返ってひとまず奥に引っ込む。

依頼人を招く姿ではない。

とりあえず、依頼人を待たせぬよう、ジャージに着替えるのが精一杯だった。


エアコンは入れたものの、家の中は不快な湿気で澱んでいる。

快適な空気を取り戻すには、まだまだ時間がかかるだろう。

メルは立ち話もなんだからと、家の奥へ促したが、依頼人は入るのを拒んだ。


「何年も前、どこからか紛れ込んだ犬なんです。

最初、飼い主が現れればお渡ししようと保護していたのですが、現れずじまいのまま首輪も

無いし、そのまま飼う事にしたんです。

それが最近いなくなって…。

今さら飼い主が現れて、無断で連れ去ったとも考えられませんし…。」


恵まれた容姿であるにも関わらず、自信なさげにうつむきながら、女は目を合わせない。

見た目を裏切る僅かに低い声が気になるが、

女の存在は、神様が不公平だと言う証明に変わりはない。


「闇雲に犬を探せと言われましても…。

写真とか、何か特定できる物はお持ちじゃないですか?」


メルの問いに、女はうつむいたまま首を横に振った。


人探しなら、無いに等しい情報から希望の人物に辿り着ける手立てはある。

しかし、何の手掛かりもないまま犬を探せとは無茶な話だ。


以前、野良猫を餌付けしていた近所の婆さんが、猫が居なくなったと大騒ぎして泣きつかれ、断り切れずに引き受けてえらい目にあったのを思い出す。

もともと野良なのだから、婆さんの手を離れて当然なのだが、どうにも見つからず万策尽きて会った時の、恨めしそうな婆さんの目は、今でも寝苦しい夜の闇に浮かぶ。


だいたい、探偵の仕事じゃない。

近所から何でも屋と思われるのは仕方がないが、見ず知らずの人物から、何でも屋と思われるのは、無いに等しいプライドが傷つく。


「黒いんです。

全身、真っ黒。

ずいぶん飼っているのですが、少しも大きくならなくて…。

猫より小さいかも…。」


女は手元の空気で愛犬の大きさを練り上げ差し出した。

相変わらず女は目を合わせない。

得た情報がこの程度では、どうにもやりようがない。

せっかくだが、受けられない。


「うちではご期待に添えかねます。

ペット専門の業者に、ご依頼なさったらいかがでしょう。」


女は、メルのやる気のなさを感じて下唇を噛む。

絶対的に美しい女の困り顔は、メルの女としての敗北感を嬉々と刺激した。


「探していただけませんか?」


女が食い下がる。


それにしてもこの女、神がかりな美しさに加えて、奇妙な事に汗をかかない。

汗だくのメルとは対照的だ。

薄手の長袖ワンピースを、上品に着こなしている。

まるで、人形が命を与えられたようだ。


「名探偵と、お聞きしたのですが…。」


名探偵。

なんて心地良い響きだろう。

この女、目も合わさずに、僅かな会話をしただけで、相手の急所を探り当てる嗅覚を持っているようだ。

心地良い響きに、迷探偵の断る意思が揺らぐ。


「とりあえず、一度来ていただけないでしょうか?

来ていただければ、私どもでは気づかなかった手掛かりが、見つかるかも知れませんし…。」


女はメルの意思の揺らぎを見逃さない。


「正直、まったく自信がないのですが、かまいませんか?」


メルが、しぶしぶ口を開く。


「かまいません。」


キッパリと女が答える。


「納得できない結果になったとしても、探偵としての報酬はいただく事になりますが、かまいませんか?」


探偵としての報酬。

ここが一番大事だ。

犬探しなんて、何でも屋の仕事だが、近所の頼み事とは違う。


「かまいません。」


女の答えに、メルは探偵の仕事として明確に線引きできたとして、気分が高揚して行く。

数分前まで気乗りせず、まったくヤル気のなかった自分はいない。

犬だろうが、人だろうが、猫だろうが構うものか、探偵の仕事だ。


「…あなたが…探す…事に…意味があるのだから…」


女がつぶやく。


メルはそれを聞き逃さない。

まるで見つからないのが前提のような言い方だ。


「どう言う意味でしょう?」


メルが聞き返す。


「あ、いえ、よろしくお願いします。

申し遅れました。

私、橘ミサキと申します。」


女は慌ててメルに封筒を押し付ける。

封筒には女の住所と携帯番号が書かれていた。

中身は現金だろう。


「なるべく早く、いらっしゃる日、ご連絡ください。」


この時、女の長袖がタイミングよくめくれ、

奇妙な傷が目に入る。

右手首のちょっと上、メルの黄ばんだ肌とは対照的な白い肌に、くっきりと紫色に変色した傷。

まだ新しい。

噛み傷だ。


女は狼狽えながら右手を背中に隠した。

瞬間、メルと初めて目が合う。


「飼い犬に噛まれましたの。」


そう言い残して、女は帰って行った。


封筒の中身は、犬探しの手付としては破格の現金が入っていた。

こんなに金離れがいいのなら、犬1匹探す業者など選び放題だと思うのだが、あの女、探偵としての実績などないに等しく、わかりにくいメルの所に、わざわざ依頼しに来たのはなぜだろう。

加えて、おかしな右手の傷だ。

犬に噛まれたなんて言っていたが、あれはそんな傷じゃない。


橘ミサキ。


いったい、どんな女だ。


あの傷は犬がやったものじゃない。

あれは紛れもなく、人の噛み跡だ。


まんまと乗せられて受けてしまったが、封筒に書かれた女の住所を見つめながら、メルはなんとも言えない気分で女の帰った後も、しばらく玄関から動けないでいた。

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