交信

空殻

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 隣に立っていた人が発狂した。


 電車の中で吊り革に掴まって揺られていた時のことだった。同じように隣で立っていた女性が突如として奇声を上げたのだった。

 甲高い声で、何かを叫び続けている。

 当然周囲の人が何事があったのかと視線を向ける。一斉に彼女に突き刺さる視線は、隣に立つ私にまでも向いているように感じられて、私は何故か気恥ずかしいような感覚を覚える。

 しかし私よりももっといたたまれないのは、奇声をあげる彼女の向こうに立つ友人らしき女性だ。先ほどまで二人で楽しそうに会話をしているのが聞こえていた。

 今は、突如として発狂した友人を目の当たりにして、ひどく狼狽している。無理もない。友人が豹変して、耳をつんざくような高音でわけのわからない言葉を唱え続けているのだから。

 乗客の中でも節操のない人間が、スマートフォンを構え始めた。カメラで録画して、SNSにアップするのだろう。その動画には私の姿も映るかもしれない。本当にやめてほしいが、どうしようもないことだ。


 そしてさらにどうしようもなく私の心に伸し掛かるのは、罪悪感のようなやましい気持ち。

 なぜなら、私はこの発狂の理由を知っている。


***

 両親は早逝し、私は祖父に育てられた。

 祖父は良くも悪くも昔ながらの人で、神も仏も妖も悪魔も、そういったものをきちんと信じていた。

 そんな祖父は私に対してもそういったことをよく語り聞かせたものだ。私は怖がったり信じなかったり、その時によって様々な反応をしたが、その中でも一つ、明瞭に覚えている話がある。

 ある時、古ぼけた紙に祖父は見慣れない文字列を書き、私に言った。

「これは決して口にしてはいけない言葉だ」

 祖父が書いた文字列は●●●●●●●●●。思わずそれを読みかけた私に、祖父は半ば掴みかかるように手を伸ばし、私の口を塞いだ。

 鬼のような形相で祖父は言った。

「絶対に口にしてはいけない。言葉に出せば、『それ』に気付かれてしまうのだから」


 祖父がそれから真剣に語り聞かせた話は、子どもの私には難しいものだったが、今なら少しはうまく解釈できる。

 ●●●●●●●●●は、異世界の神あるいは悪魔である『それ』に関連する言葉。無線の周波数のような、あるいはWi-Fiのパスワードのようなもので、唱えれば『それ』とチャンネルが合ってしまう。

 そしてチャンネルが合った人間は、精神が一瞬で侵され、二度と元に戻ることはないのだという。

 なぜ祖父がそんなことを知っているのかは分からない。そのことを教えないまま、三年前に祖父は逝った。

 ただ、この●●●●●●●●●について語り聞かせた時に祖父は言った。

「お前の両親も、これを唱えてしまったことで狂い、そして亡くなった」


***

 電車の彼女は、友人との会話の中でたまたま●●●●●●●●●を唱えてしまった。

 もちろん意識して口にしたわけではない。ただ、流行りのコンテンツの固有名詞と、ある副詞と、ある形容詞の組み合わせが、●●●●●●●●●となってしまうのだ。

 

 電車が駅に着き、私は降車する。

 社内には狂った彼女が残されたまま。祖父の言っていたことが正しいのならば、もう戻ることは無いのだろう。

 そしてさらに深刻な問題は、そのコンテンツと副詞と形容詞の組み合わせも、それほど特殊なものではないと言うことだ。コンテンツが流行れば流行るほど、意図せず禁句を唱える人は増えるのだろう。


 ほら、また今日もどこかで、『それ』とチャンネルの合ってしまった叫びが聞こえる。

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交信 空殻 @eipelppa

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