運命の黄色いハンカチ

@MiyamaSatoshi

第1話

 富山中部高校といえば、地元で名立たる名門校である。立山を仰ぎ、神通川のほとりに佇む学舎は、古くから県下の中学生たちの憧れとして君臨してきた。

 私は幸運にもその校門をくぐる権利を得、新たなる朋友との出逢いや、この学舎で得られる学識への期待を胸に、一年三組の教室の扉を開けた。

 さて、私の席は窓側の後ろの席。なるべくなら前よりの席が良かったが、まあ仕方がない。次の席替えの機会を待つことにしよう。周りの生徒はどんな人たちだろうかーーそう思って教室の中を見渡すと、すぐ隣の女生徒と目があった。彼女は朗らかに挨拶した。

「おはよ」

「お、おはよう」

 思わずどもってしまったのは、彼女の目鼻筋が整っていて、それでいて声は可愛くて、そんな女の子に話しかけられたのが夢か現かの思いだったからだ。彼女はそんな私の様子を気にすることなく、魅力的な微笑みを浮かべて自己紹介をした。

「私、橘香織。キミの名前は?」

「時告宿里……」

「時告くん……、時告くんね、覚えた!」

 橘さんはニコニコして言った。それから彼女はいろんなことを話してくれたが、私は女子に話しかけられるという初めての経験に脳がついていけず名前以外は覚えられなかった。受け答えさえきちんとできていたか不安だ。これが私と橘さんの出会いだった。


     *     *     *


 橘さんとは毎日顔を合わせ、会話を重ねた。当然だ、彼女は隣の席のクラスメイトなのだから。そうしているうちに橘さんとも打ち解けてきた。彼女の趣味、目標、得意科目……、そういったことが次第に分かるようになった。

 今日も私は、先に来ている橘さんに声をかける。

「おはよう、橘さん」

「あ、時告くんおはよ! 今週の『動物のお医者さん』観た?」

 彼女は読んでいた生物基礎の教科書から顔を上げ、私に太陽のような笑顔を向けてくれた。だから私もとびきりの笑顔で答えるのだ。

「観た観た。ハムテルの冷静だけど人の良いところ、共感しちゃうなぁ」

「だよねー! 私はね、……」

 彼女の目標、それは獣医だ。彼女自身も猫を二匹飼っているらしい。そのうちの一匹が以前胆管炎に罹ったのを治してもらったのがきっかけだということだ。そういうことから、『動物のお医者さん』は面白いだけでなく良い刺激になると語っていた。

 私自身には獣医になるという夢はないが、学生生活をイメージするのに『動物のお医者さん』は手軽だった。

 そして『動物のお医者さん』の話をする時、橘さんは目をキラキラと輝かせるのだ。その輝きが好きで、だから私は毎週金曜の朝のこの時間がたまらなく好きだったのだ。


     *     *     *


 時は進み、もうすぐ最初の中間テストという頃。放課後になり、いつものように帰り支度をしていると、ふいに橘さんは声をかけてきた。

「時告くん!」

「どうした?」

 そう答えて振り向くと、そこには古典の教科書を手にした橘さんが立っていた。

「勉強、教えっこしない?」

 彼女は私の得意科目を覚えてくれていた。それがすごく嬉しかった。だから私も、彼女が得意としていてかつ私が苦手としている数学の教科書を取り出した。

「ああ、一緒に頑張ろう!」

 こうして放課後の二人きりの勉強会が始まった。


     *     *     *


 中間テストが終わり、採点されたものが返ってくる。二人きりの勉強会で、橘さんは提案した。

「時告くん、テスト、見せ合いっこしない?」

「いいよ。じゃあせーので見せ合おうか」

 私はテスト用紙を裏返して机の上に置く。

「いくよ、せーの!」

 お互いのテストの点数が晒される。なんとお互い八十点台という高得点だった。

「え!? ねぇ、私たち凄くない!?」

「ああ! お互いの指導と努力の成果だな!」

「それじゃあお疲れ様会をしたいなぁ」

 橘さんは上目遣いでねだった。その顔にドキッとした。日はちょうど六月一日、天気は晴れ。高校からそう遠くない場所に日枝神社という大きなお宮があり、そこで山王祭りをやっている。絶好のチャンスだと思った。

「橘さん、山王祭りに行きませんか?」

「はい、喜んで!」

 そうして私たちは校門を抜け、バスに乗り、祭りの会場へと辿り着いた。会場には圧倒されるほど屋台が軒を連ね、芋の子を洗ったような人出だった。

「はぐれたら大変だから、手、繋ごっか」

「うん、エスコートよろしく」

 我ながら上手い言い訳だったと思う。橘さんの温もりが私の左手に伝わった。その温もりを離さないように、優しく、でもしっかりと私は握った。

 神社の拝殿で二人並び願い事をする。私の願いは、これから先もずっと橘さんといられることだ。橘さんは何を願ったのだろう。まあ、それを聞くのも野暮か。

「時告くん! おみくじあるよ! 引いてかない?」

 橘さんは興奮気味におみくじの箱を指差す。その様子が微笑ましくて、私は笑いながら彼女の元へと駆け寄った。

「じゃあ引いて、セーので見せ合うか」

「うん!」

 元気よく答えた橘さんは張り切っておみくじを引く。私はそれに連なっておみくじを引いた。

「さ、見せ合おうか」

 そう声をかけてしまってから、橘さんの様子がおかしいことに気がついた。顔が引き攣り、手が震えてる。

「……橘さん?」

 そう声をかけ肩を叩く。橘さんはぴくりと反応し、泣きそうな目でこちらを見た。それでも彼女は言うのだ。

「大丈夫、私は、大丈夫……。じゃあ見せ合おうか」

「せーの!」

 私が関心あるのは専ら恋愛運である。私のおみくじにはこうあった。「告白は早い方が吉」。そして橘さんのおみくじにはというと、「別れ近し」。ああ、だからさっきはショックを受けていたのか……。しかし私自身、まだ彼女のことを人として好きなのか、異性として好きなのか、判別できないでいた。そんな中途半端な状態で付き合って、橘さんを悲しませるようなことがあったらよくない。

 それから橘さんは少し積極的になった。お化け屋敷に一緒に入ろうと言ったり、たこ焼きや唐揚げ、ベビーカステラなどを分けようと言ったりした。それはおみくじの結果を自ら跳ね返そうとしているようにも思われ、少しほっとしたのだ。


     *     *     *


 学校でも橘さんはその積極性を崩さなかった。四限が終わり学食で昼食を摂ろうと立ち上がると、橘さんは声をかけてきた。

「時告くん!」

「どうした?」

 彼女の方に振り向くと、彼女は弁当の包みを両手に持って立っていた。

「時告くんの分も作ってきたの! よかったら一緒に食べない?」

 その誘いを断れる男がいるだろうか。もちろん二つ返事で答えた。橘さんは嬉しそうな笑顔を見せる。

「せっかくだから中庭で食べない? 結構穴場だよ?」

「じゃあそうしようか」

 そうして私たちは連れ立ち、教室を後にした。

 中庭には神通川からの涼しい風が吹き込んでいた。いくつか置かれたベンチの一つで、橘さんは弁当の包みを手渡した。

「はい、これが時告くんの分」

「ありがとう」

 そう答えて私は弁当の包みを受け取る。そして早速包みを解き、弁当箱を開けてみた。そこには彩と栄養バランスが考えられた弁当があった。一段目には梅干しの載った白米、二段目には私の好物であるハンバーグと付け合わせのにんじん、じゃがいも、ブロッコリーが詰められていた。

「おお、美味しそうだな!」

「でしょでしょ! さ、食べて食べて!」

 促されるがまま私は早速ハンバーグに箸を伸ばし、口に運んだ。弁当だというのに噛むたびに肉汁が溢れて、これは……!

「美味しい、美味しいよ橘さん!」

「よかった〜! 作った甲斐があったってもんだよ」

 橘さんは嬉しそうに笑った。野菜やご飯も口にしてみるがどれも美味い。作り手の優しさが伝わってきて、だから私はついつい口走ってしまった。

「うん、これなら毎日でも食べたいな」

「毎日……、毎日か〜、えへへ〜」

 彼女の照れる様子を見て私はハッとする。そして慌ててこう付け加えた。

「も、もちろん、橘さんが嫌じゃなければだけど!」

「ううん、嫌じゃないよ。分かった、毎日作ってくるね!」

 私たちは笑い合う。会話を楽しみながら橘さんの手料理に舌鼓を打っていると、時間はあっという間に過ぎ去った。


     *     *     *


 朝は橘さんとドラマの話で盛り上がり、昼休みは二人で中庭で橘さんお手製の弁当を食べ、放課後は二人きりの勉強会をするーーそれが日課となっていた。だが、それが当たり前の幸せではないことを思い知る時が近づいていた。

 期末テストを終え、山王祭りのおみくじの結果もすっかり忘れた頃、今日も日課の勉強会を終える。最近この一日の終わりが寂しく感じられるようになった。

「今日もありがとうね、時告くん」

「こちらこそありがとう、橘さん」

「じゃあ、また明日」

「ああ、また明日」

 橘さんは笑顔で手を振って、鞄を持ち、教室の扉を開けた。その時、彼女はハンカチを落とした。目に鮮やかなカナリーイエローのハンカチだ。彼女はそのまま去っていこうとした。私は呼び止めた。

「橘さん!」

「はい」

 彼女は立ち止まり、振り向く。私はハンカチを差し出した。

「これ、落としましたよ」

「ありがとう」

 橘さんはぎこちなく笑って受け取った。その瞳は何故か悲しげだった。その理由を尋ねることができないまま、彼女が去っていくのを見送ることしかできなかった。


     *     *     *


 その翌日の放課後、橘さんからいつもと変わった誘いを受けた。

「ねえ時告くん、今日は対岸の堤防に行きたいな」

「いいけど、どうしたの?」

「うん、ちょっとね」

 橘さんは言葉を濁す。私は怪訝に思いながらも、彼女と連れ立って富山大橋を渡り、校舎の対岸へとやってきた。

 天は晴れ渡り汗ばむ陽気だった。手前には神通川が流れ、堤防越しに校舎が覗き、奥に立山連峰を望む。とても富山らしい、そして富山中部高校らしい景色だと思う。その景色を眺めながら、橘さんは両手を広げ、全身に川風を受けて立っていた。そして彼女はぽつりと漏らした。

「見ておけるうちにこの景色を見ておこうと思ってね」

「それってどういう……」

 彼女の言葉が引っかかり尋ねると、衝撃的な知らせを告げられた。

「時告くん、私、今学期限りで転校するの」

「転校!? どこに?」

「東京の学校……」

 それを聞いて、私は山王祭りのおみくじの結果を思い出した。自分の気持ちは自覚していた。だが橘さんの気持ちはどうか。そして遠距離恋愛という形で彼女を縛ってしまうことが、はたして彼女のためになるのだろうか。それを思うと、とても自分の気持ちを口にはできなかった。

 でも、少しでも伝わるようにと願いを込めて、言葉を紡いだ。

「じゃあ、一緒に思い出を作っていこう。転校するその日まで」

「うん!」

 橘さんは手を下ろしてとびきりの笑顔を向けた。そして鞄を持って言った。

「帰ろうか。停留場まで送ってもらえる?」

「もちろん」

 私たちはたわいもない会話を楽しみながら、新富山停留場への道を歩いた。


     *     *     *


 それから終業式までの間、橘さんとの時間を今まで以上に大切に過ごすようにした。今まで以上に橘さんと過ごせるように、朝は安野屋停留場まで迎えに行き、放課後はその停留場まで送り、道中も会話を楽しんだ。

 でも、時間はどれだけあっても足りなくて、確実に刻一刻と過ぎて行き、日常の終焉が近づくことに対する焦りと何もできないもどかしさが、日ごとに大きくなっていった。

 そして迎えた終業式の日。放課後彼女は言った。

「ありがとう。時告くんのおかげで楽しかった」

「うん、私も。元気でな」

 私が返すと、橘さんは寂しそうな顔をした。それでも彼女は笑顔を作る。

「高校生のうちはお互い忙しいだろうしお金もないだろうけどさ、大学生になったら、会えたら会おうよ。はい、約束」

 橘さんは小指を差し出した。ガラケーがまだ高価だったころの話である。まだお互いに連絡手段なんてない。それでも私は橘さんと指切りを交わした。一縷の望みをかけて。

「それじゃあね! お互い大学受験頑張ろう!」

 彼女は拳を高くつき上げ、去っていった。それが彼女の姿を見た最後だった。

 女性が男性の目の前でハンカチを落とす意味を知ったのは、夏休みに入ってからのことだった。心に杭が打たれたのは、その日からのことだった。

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