野花の香

どもです。

野花の香

 

 期待、と呼ぶのだろうか。

 僅かに傾斜のついた坂道をビー玉が転がってゆく。そんな風に未来という名の沼へと身を落とした。暖かな絶望と冷たい無力感に手を引かれ、しかし私は生きることをやめない。


 諦めていると言われたならそうだろう。限界を知っている。それが人より低いことも分かっている。抗議も猜疑も等しく無駄に終わるのだから実行に移すはずがない。

 諦念は私たちの期待に背いた。引き上げてはくれなかった。肩まで泥濘に浸かって息苦しい。足先が底に触れる。未来は私を殺してさえくれない。


 人生というものの全貌が見えていた。



 朝起きて、顔を洗って、水を飲んで、前日に買った惣菜パンを食べながら化粧台の前に座る。10年の間に不要な動作はすべて擦り切れていった。

 最低限、及第点。栄養ドリンクを飲み干し、イマイチな顔を引っ提げて家を出る。必要なものはカバンに詰まっている。道中でコンビニに寄って煙草を補充し、やがて勤務先に着けば業務が始まる。


 同じことの繰り返しではない。しかし、どこからどこまで切り取っても合計は同じになるような、一切平均値の変わらない仕事だった。

 合間に煙草を咥える。冷めた目で見られるたび、まるで時代に抑圧されるような感覚を覚える。何も楽しいことはない。物が焼ける様子を眺めているだけだ。


 何一つスキルアップしないままに慣れてしまった仕事をこなしていく。新人の女の子がサボっているのを見て、溜息すら喉奥に消えた。


 楽しいことだけを追い求めるうちに楽しくないことだらけの未来が形作られていく。

 先輩風を拭かせて助言した所で響くはずがないのだから、いつもそれに見ないフリをする。そのたびに少しの後悔と、無責任でいられる安堵とを胸に抱く。それは深夜の息抜きに飲む暖かいコーヒーの味と似ていた。


 『好き』が『嫌い』に侵食される感覚。


 人の脳みそはきっと私たちが考えるよりずっと容量が少ないんだ。だから『好き』と『嫌い』が結びつく。そして尊敬する人の小さな欠点が目立ってしまうことのように、いつだって『好き』が負けるんだ。

 思考に区切りを作ることが成長と呼ばれ、その区切りを年月が奪ってしまう。八十年は長すぎるんだ。私たちはそのほとんどを上手く生きられない。


 だから私は上手く生きることを放棄した。

 その代わり、失敗しないように。


 私はそれだけで十分だ。



 帰り道。風一つない夜道で咳をする。

 小石がアスファルトを転がって、初めて蹴飛ばしたことを自覚した。

 行方を目で追えば視界に光が入ってくる。


 眩しさの中に羽虫のシルエットが見えた。

 行きつけのコンビニ。気だるい足先がそちらに向いた。


 店に入ると耳障りな音楽が流れた。

 ネタを見たこともない芸人が店内のラジオ放送で茶らけている。


 ふぅ、と息を吐く。

 普段と変わらないだけの疲労を肩に乗せ、普段と変わらない店員の声を耳に入れて、普段と変わらない品物を――――。


「東さん?」


 そこに待っていたのは仕事場で別れたはずの後輩。寸前で気づいた私は踵を返そうとしていたのに、まさか声をかけられるとは。


「お疲れさまです、水田さん」


 言葉を吐いた。本当は溜息を吐きたかった。

 こういう場所ではお互い見なかったことにするのがマナーではないのだろうか、と心の中で呟いてみる。ただの八つ当たりだ。勝手に期待してしまった私が悪いと言うのに。


「東さんもコンビニとか来るんですね」


「はい。意外ですか?」


「なんかそんな感じしてないので」


 分からない感想ではないがハッキリ言うものだ。大抵の人間は利用しているだろうに。

 会話が終わることを期待して生返事で答える。


「ああ、そうですか」


 しかしどうやら効果がなかったらしい。

 好奇の目が私をのぞき込む。


「何買うんですか?」


「明日の朝餉です」


「あ、そういえば煙草吸ってますよね。それもです?」


「はい」


 パンの棚に目を走らせる。

 20%引きのものが幾つか目に留まる。

 そのどれもが甘そうな菓子パンだった。


 きんぴらごぼうパンは売り切れらしい。ついていないこともあるものだ。甘くないパンの中で一番安いものを手に取った。132円。


「これどうですか、東さん。新発売のチョコミント生クリームブレッド! もう食べました?」


「いいえ」


「めっちゃ美味しかったのでおススメですよ」


 チョコミントは嫌いだ。昔、確かに好きだったからこそ、食べるたび苦い思い出が胸を刺す。口にしたところで「嫌い」の味しか得られない。


「要りません」


 132円のパンをカゴに放り込んで歩き出す。

 缶ビール、カルパス、栄養ドリンク。

 どれもが今日明日で使うものだ。


 ふと横を見れば底を覆うほどに菓子や飲料を買っていた。

 思うことは何もない。

 彼女と私は全く違うのだと、再認識しただけで。



 灰を落とす。電灯の陰、駐車場の隅で煙を吸う。

 コンビニに置かれている灰皿のスタンドは撤去されつつある、とどこかで耳に挟んだ。

 残念だとは思わない。どうせそう遠くないうちに私は煙草を嫌いになり、そして、他の何かを探すことになる。終わりが早まったところでどうということでもない。


 私にとって1日は長すぎる。吐いた煙なんてただのまやかしで、正体は24時間を少しでも減らすための暇潰しだ。その程度のモノに愛着も何もない。


 毎日楽しく生きられている連中の頭を割って見てみたいものだ。

 たとえば、今目の前にいる彼女のような。


「面白いですか?」


 駅まで並んで歩きたくなかった私は煙草を理由に留まった。水田はそれを見てみたいと言った。私は結局溜息を吐くことができないまま、買ったばかりの箱から一本取りだした。


「面白いですよ、結構。私煙草吸う人見たことなかったんです」


 へえ、と返した。

 理解できないだけだった。


 水田は菓子を一つレジ袋から取り出して、口に放った。

 お一つどうですかと差し出されたが断った。


 駅の方から若者が数人、話しながら駐車場に入ってくる。

 車が一台出て行った。


 それをただ眺めていた。



 時間が静かに過ぎてゆく。

 ふと、水田が空を見上げた。


「今日は月が綺麗ですね」


 水田は空を見ていた。

 叢雲がかかって霞んでいる。


「……そうですね」


 月に叢雲、花に風。ぼやけた月を美しいと思える価値観は子供の頃に失った。代わりに、それを黙っていられるようになった。黙って頷くのが正解だと知ってしまった。

 灰皿に押し付け、火の消えた煙草を穴に落とす。


「帰ります。さようなら」


「あ、はい。また明日です」


 水田はあっけらかんとそう言った。

 煙草に付き合った理由が好奇心というのはどうやら本当らしい。

 今は月に視線を向けて何かを頬張っている。


 彼女はきっと幸せなのだろう。



 闇が深くなった道を歩く。

 振り返れば看板が見えなかった。


 彼女のことを思い出す。偶然出会って、少しテンションが高かった様子。煙草を見て興味津々な姿。月に目尻を下げた表情。そのどれもに同意できなかった。


 私はそれに安心していた。彼女のことが理解できないままでいたかった。期待して、満足して、幸せそうに生きている彼女を羨ましく思わない自分に心の底からほっとした。

 私が彼女のように生きたなら、きっとすぐに深く傷つくことだろう。ほんの小さな段差に躓いて手に入れた幸せを落としてしまう。


 それならこのままでいい。

 傷付かないことが一番いい。


 理性は悲鳴を上げて耳を塞いだというのに、感情が未だに手を引いてしまう。醜い自己愛が自分を信じてやってくれと懇願する。そのたびに私は首を振る。不幸せになりたくないからだ。



 憂鬱な明日に身を投げる。

 酩酊感に任せて情動を誤魔化し、搔き消した不安の下に目を閉じる。


 ああ、私は決して幸せではない。

 だが不幸せでもない。


 それだけでいい。

 私は、それだけを求めて。



 それ以外を諦めたんだ。



 

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