第2話 目覚め

『——愛してる』

「…………ん…………」


 どこか悲しげな女性の声が聞こえたような気がするのと同時に意識が覚醒する。

 ふと気が付くと、深い闇に抱かれていた。辺りには何も見えない。目を開けているのか、閉じているのか、それすら分からないほど深い闇。自分がどうしてこんな場所にいるのか、記憶の端にもかからない。


 ただ、姿さえ見えないものの、周りには確かにの気配があった。おそらく、これは人の気配。どうして人だと思ったのかは自分自身にも分からない。思考が鈍化しているのか、考える気にもならなかった。


 やがて周りにいる人の気配が動いている事に気付き、特に考えることもなく、周りの流れに合わせてゆっくりと歩き出す。前後左右を、気配だけ感じる人の群れに挟まれながら歩く。歩き続ける。どこへ向かっているのか分からない。だから、いつまでも歩き続けた。


 ——そうして夢心地のまましばらく暗闇を歩いていると、目の端にあわく光り輝くが映る。


 その光に、どうしてか不思議と心惹かれていた。あの場所へ行って、そこに何があるのか確かめてみたかった。


 足を止めてみる。周囲に変化は無い。ただ異物を避けるようにして、は動き続けていた。


 そうして列から外れ、光のある場所へ向かって一歩、また一歩と歩みを進める。

 少しずつ近付いているのだろうが、よほど遠くにその光があったのか、うまく遠近感が掴めない。


 もしかしたら、一生あの場所に辿り着けないのではないだろうかという焦燥感に駆られ始めていたが、それでもどうしても〝そこ〟へ行かなくてはならない。そんな使命感にも似た強い意思がいつの間にか胸中に芽生え、身体を突き動かしていた。


 数秒か、数分か、はたまた数時間か。時間感覚はすでにあべこべだったが、気が付くと光の下へと辿り着いていた。

 そうして、その光り輝く〝何か〟を見る。


 ——闇の中で光っていたものは、花の中から更に小さい花が咲く、赤紫色をした一輪の綺麗な花だった。どうしてこんなものが闇の中で咲いているのか、疑問を感じるも答えは見つからない。けれど、その花を見ているとなぜか心が安らいでいる自分がいた。


 安らぎに身を任せ、少しの間その温かさを感じていると、ふと視界の隅に先ほどと同じように光るものを感じて顔を向ける。


 またしても光。けれど、今度はあれがなんであるか分かっていた。ここからでは姿形がハッキリ見えなくとも、すでに


 歩みを進めた先には、先ほどと同じ花が三輪咲いていた。ついさっき見たものと同じ花だったが、この何もない暗闇に咲く花は涙がでるほど綺麗で、美しく——そうして、これまで自分は寂しかったのだと気付いた。


 その後も光は続いた。道標のように、誘うかのように。四輪、八輪、九輪と、淡く輝く光を辿る度に、暗闇に咲いた花の数は不規則に増えていく。


 ……九七……九八……九九。すべて数え終わったところで、奇妙な感覚に苛まれていることに気付いた。花を見る度、胸に湧き上がってくる甘く切ない、愛おしいと想う感情。どうしてこんな気持ちになるのか分からず、混乱する心を誤魔化すように次の光を探す。


 ……だが、もうどこにも光は見当たらない。辺りに広がるのは深い闇だけ。

 急に不安になって足元に咲いていた花に視線を落とすも、光を帯びていた花はいつの間にか弱々しくなっていて、まさに風前の灯火といった様相をていしている。


 その予想が的中したのか、花は線香花火の散り際を思わせるほど鮮烈な光を最後に一瞬だけ放ち——そうして再び闇が世界を支配した。


 目元を手で触れようと動かす。あまりに深い闇に、知らず知らずの内にまぶたを閉じてしまったのではないか。そう思っての行動だったが、気付くと指先に何か温かいものが触れていた。


 ——涙。どうやら自分は涙を流していたらしい。濡れた指先からそんなどうでもいい答えに辿り着き、同時にその理由も理解する。この涙は暗闇を恐れて流れ出たものではなく、あの心地良い温もりをうしなってしまった事に対する悲しみの証なのだと。


 それを理解した瞬間、薄ぼやけていた思考が急速に動き出すのを感じ、忘れていた記憶が断片的に蘇る。


 ——〝俺〟はを愛していた。それが誰かは思い出せない。けど、その分からない〝誰か〟のことを愛していた。この闇よりも深く、強く。


 そうして、ようやく自分が何者であるか思い出した。

 俺の名前、そうそれは——。


「柊……志樹……」


 自身の名を口に出した瞬間、闇の奥から目も眩むような強烈な閃光が現れ、瞬く間に世界を包み込んでいった。

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