泥濘

紫陽_凛

 昔の話だ。



「知ってますか、


 吐く息は、白。覚えている。真っ白だった。


 図書館に籠城していた僕を待っていたのだろう。彼女の頭の上にはしっかり雪が積もっていた。真っ赤な鼻をこすり、やはり真っ赤な指先を温めながら、僕の顔も見ずに、彼女は長い睫毛を伏せる。

先輩SENPAIって、海外では『私の思いに気づいてくれない人』って意味らしいですよ」

「……それで?」

「もう。先輩てばそればっかりですね。それで? それで。 どうやって話を進めろって言うんですか。少しは投げたボール投げ返してくださいよ」

「いや、……それ、僕に言って、どうしたいのかなって」


 僕はこと人間関係に関して器用なまねはできなかった。だから妻にも、苦労を掛けたろうと、今になって思う。僕は少し、いやかなり、変わった男だった自覚があった。他者とのずれ、疎外感、如実に示すそれらが、僕を「変わった男」だと認定してくる。自他共に認める変わり者――そして彼女は、そんな変わり者についてくる数少ない人間のひとりだった。


 彼女はぷいとそっぽを向いた。

「言いたくありません」

「人の気持ちを察するのは苦手なんだ」

「待ってたんです、この寒い中」

「……帰ればよかったじゃないか。用事ならメッセがあるし、あとから見たのに」

 メッセの連絡先を明け渡すのは、当時の僕にとって「最上級の友愛の印」だったのだが、彼女はそれだけでは物足りなかったらしい。

「そうじゃなくて、待ってたんです! 先輩を!」


 僕の妻かのじょが最もいじらしかったのはこのときだった。


「会いたかったから待ってたんです……! お兄ちゃんの鬼電無視して、友達の誘いも断って、この、この時間まで、――!」

 何事かを言いかけた妻はそこで口をつぐみ、ゆっくりと顔を背けた。

「……いいです。忘れてください、門倉かどくら先輩」

 僕はずかずかとブーツで雪道を歩き出そうとする妻の――彼女の手をつかんだ。


「わかった。なら、もう僕のことを先輩と呼ばないでくれ。それ以外なら好きに呼べば良いさ」

「――は、い?」

 かみついたのは彼女の方だったのに、きょとんとして。高嶺の花と呼ばれてやまない愛らしい顔に、驚愕を浮かべて。それはそうだろう。僕だって驚いた。そんなキザったらしい返しが、変わり者の門倉の口から出てきたことに。しかもそこで終わりではなかった。

「先輩ってのは、思いに気づいてくれない人のことを言うんだろう。ならそうしよう。そういうことにしよう、」

 僕は彼女の冷えきった手を握った。次の言葉は、さすがの変わり者の僕も照れた。


「恋人になろう、杏奈あんな


 

 昔の、話だ。

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