泥濘
紫陽_凛
1
昔の話だ。
「知ってますか、先輩」
吐く息は、白。覚えている。真っ白だった。
図書館に籠城していた僕を待っていたのだろう。彼女の頭の上にはしっかり雪が積もっていた。真っ赤な鼻をこすり、やはり真っ赤な指先を温めながら、僕の顔も見ずに、彼女は長い睫毛を伏せる。
「
「……それで?」
「もう。先輩てばそればっかりですね。それで? それで。 それでどうやって話を進めろって言うんですか。少しは投げたボール投げ返してくださいよ」
「いや、……それ、僕に言って、どうしたいのかなって」
僕はこと人間関係に関して器用なまねはできなかった。だから妻にも、苦労を掛けたろうと、今になって思う。僕は少し、いやかなり、変わった男だった自覚があった。他者とのずれ、疎外感、如実に示すそれらが、僕を「変わった男」だと認定してくる。自他共に認める変わり者――そして彼女は、そんな変わり者についてくる数少ない人間のひとりだった。
彼女はぷいとそっぽを向いた。
「言いたくありません」
「人の気持ちを察するのは苦手なんだ」
「待ってたんです、この寒い中」
「……帰ればよかったじゃないか。用事ならメッセがあるし、あとから見たのに」
メッセの連絡先を明け渡すのは、当時の僕にとって「最上級の友愛の印」だったのだが、彼女はそれだけでは物足りなかったらしい。
「そうじゃなくて、待ってたんです! 先輩を!」
「会いたかったから待ってたんです……! お兄ちゃんの鬼電無視して、友達の誘いも断って、この、この時間まで、――!」
何事かを言いかけた妻はそこで口をつぐみ、ゆっくりと顔を背けた。
「……いいです。忘れてください、
僕はずかずかとブーツで雪道を歩き出そうとする妻の――彼女の手をつかんだ。
「わかった。なら、もう僕のことを先輩と呼ばないでくれ。それ以外なら好きに呼べば良いさ」
「――は、い?」
かみついたのは彼女の方だったのに、きょとんとして。高嶺の花と呼ばれてやまない愛らしい顔に、驚愕を浮かべて。それはそうだろう。僕だって驚いた。そんなキザったらしい返しが、変わり者の門倉の口から出てきたことに。しかもそこで終わりではなかった。
「先輩ってのは、思いに気づいてくれない人のことを言うんだろう。ならそうしよう。そういうことにしよう、」
僕は彼女の冷えきった手を握った。次の言葉は、さすがの変わり者の僕も照れた。
「恋人になろう、
昔の、話だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます