正体見たり、灰の雪 5
気がつくと、私は灰色の世界に立っていた。遠くでは天辺を怒らせた灰振山が黒々とした噴煙を吐き出し続けている。
何気なく足元を見ると裸足だった。くたびれた両足は使い終わった炭のように黒くひび割れ、歩くたびに赤黒い何かが足から削げ落ちていった。
何かを呟こうとしても、喉の奥からはひゅうひゅうと乾いた音が漏れ出るだけで、一向に声が発せない。途端に私は息苦しさを覚え、喘ぐように宙を掴んだ。
時折ひぃぃぃぃと金切り声にも似た風が吹き遊び、地面に沈んだ灰を掻き回す。舞い上がる灰は霧のように辺りを覆い隠し、先に進むにつれて視界は悪くなっていった。
周囲に目を向けると、そこかしこに黒い塊が転がっている。ある者は懸命に手を伸ばして虚空を掴み、あるものは誰かを守るように覆い被さって、またある者は骨と化して寂しげに灰に埋もれていた。
ふと、静寂の中で、ぽんっ、と間の抜けた音が聞こえて顔を上げると、道の先で誰かがこちらに手を振っている。
さっきの男だ——。
上半身を風にはためく一反の木綿のようにくねくねと揺らし、おいでおいでとこちらを手招いている。
私が思わず手を振りかえすと、その瞬間に男を模ったものがとろぉりと溶け出して、実にゆったりとした見ている私の動きで男はのうみそまでとけだして私はお前もいきたいしねあつい寒いあついあついあつい。
ぱんっ。
井道さんの柏手で我に返るとそこはひどく殺風景な部屋だった。気分がやけに高揚して、視線だけがしばらく辺りを彷徨った。
「おい、おい」
井道さんに肩を揺すられて初めて、私は自分の置かれた状況を理解して恥ずかしさから顔を覆う。
「……あ。あああっ」
あろうことか、調査の最中に居眠りする大失態を犯してしまったようだ。私の口元から濁った液体がつうっと垂れてフローリングに露をつくった。
「あははははは」
慌てて涎を拭う私を見て、初島さんは実に楽しそうにころころと笑った。
「失礼しましたっ!」
「いいよいいよぉ。綺麗だったからねぇ」
「ったく、早速取り込まれんなよ。もう絶対窓の外を見んなよ」
「わ、わかりました……」
そう話す井道さんの額には大粒の汗が滲んでいて、唇から微かに鉄の匂いがした。右手につけられた純白の数珠はいつの間にか禍々しい黒に染まっている。
「ええと……これまでに保護歴はありますか」
「昔、出稼ぎに来た時に
「あれ、そうなんですね」
山辺注町は雨納芦市の左隣にある縦長の町で、山辺注古潭や山辺注そばが有名な自然豊かで穏やかな所だ。
「忘れられなくてねぇ」
だんっ。
背後の窓ガラスに何かが張り付いた音がする。
「見るなよ」
井道さんが壁にもたれたまま荒い息で私に釘を指す。
「何が忘れられないんですか?」
「焼きついて離れないんだ」
ばんっ。
初島さんは切長の目を糸のように細めると、うっとりと窓の外を見つめている。
そこからの初島さんは何を聞いても生返事で、一つとしてまともな答えが返ってこなかった。恍惚の表情を浮かべた初島さんは、目を離せばその場で蕩けてなくなりそうだった。
仕方なく私たちは断りを入れて部屋の中を簡単にチェックすると、訪問調査を切り上げてアパートを後にした。
外に出るともう灰雪は止んでいて、厚い雲の切れ間から微かに光が漏れていた。
公用車に戻ると、井道さんは当然のように助手席のシートを倒して横になった。
あれだけ大粒の雪が降ったはずなのに、車にはかけらも雪が積もっていなかった。その代わり、数年に一度の寒波でも起きたかのように全ての窓ガラスがガチガチに凍っていた。
「資産となるものは特に何もなかったですね」
ごおおおおおお。
暖房が唸り声を上げ、フロントガラスに広がった氷の領土をゆっくりと侵食している。この調子ではしばらく車を動かすことができないだろう。
「資産どころか、何もなかっただろ」
天井をぼんやりと眺めている井道さんは、もう既に瞼が落ちかけている。
さっと部屋全体を見て回ったが、居間にあったテーブルとハンガーラック以外にただの一つも家財道具がなく、生活感がまるでなかった。
「心配ですよね……。早く開始してあげないと」
天気予報ではこれからしばらく厳しい寒さが続くことになっていた。
「まあ、あの調子なら、すぐに居なくなるだろ。◼️◼️◼️◼️◼️に呼ばれりゃな」
「え?」
井道さんの言葉は発すると同時に暖房の音にかき消され、聞き返そうとした時にはもう鼾をかいて寝てしまっていた。
「まったく……」
私は迫り来る氷の軍勢をワイパーで強引に薙ぎ払うと、凍てつく世界に向かってアクセルを強く踏み込んだ。
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