誰かの何か

小狸

短編

 *


 これはどこにも記録されていない、どころか記録される必要のない、何の他愛もなければ物語性もない、ただの二人の大学生の会話である。


「あーあ、何か最近アレだわ。アレ」


「どれ?」


「ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲、作品番号26番」


「……憂鬱ゆううつなセレナード。憂鬱なの?」


「そう。それ」


「いちいち迂遠うえんにする意味あった? それ」


「あったあった。ほら、昔の人は婉曲えんきょくな表現を好むって言うじゃない。私らの音楽知識がばっちしなことも確認できたし、一石二鳥とはこのことよ」


「絶対違うと思う……で、何で憂鬱なの?」


「え、えーっとね」


「よくぞ聞いてくれましたみたいな顔をして、どうして言い淀むのよ。以心伝心はばっちしじゃないのね、私達」


「ちょ――ちょっと待ってよ、そんなこと言わないで寂しい」


「押しには強いけど引きには弱いのね」


「もう、私のことおもちゃにしないでよー、分かりやすいからって。それで――話を戻すんだけど」


「戻すんだ。このテンションから」


「うん。いつどのテンションでも話を戻せるのが私の随一の長所といっていい」


「唯一じゃなくて?」


「もっと才能に溢れてるからね、私は」


「自信過剰で良いこと」


「良いじゃん。自己肯定感マシマシで。謙虚になる時にはいつだってなれるんだから、逆になったって神様は罰を与えないでしょ」


「話を戻せる才能はどこ?」


「話を戻すとね」


「無理矢理戻した」


「最近彼氏とうまくいってない」


「……そうなの?」


「あれ。てっきりいつもの雪ちゃんの毒舌含めたツッコミで、『大学生に入って、産まれて初めて彼氏と付き合えたことにあんなに満足していたのにもう飽きたの? いくら世の中に幾千の男性がいると言っても、あなたに振り向いてくれる人はかなり限られているのよ』くらい言われるかと思ってたわ」


「私もそこまで人間捨ててないよ。あなたには一応幸せになって欲しいと思っているし、そういう人間関係の相談を無碍にして、トラブルになっても仕方ないじゃない」


「『幸せになって欲しい』って、ひゅー、雪ちゃんツンデレ~」


「殴るよ?」


「ごめんって。でも、正直うまくいってないっていうのは本当。いや、どうすれば良いんだろうねって思って」


「この前デートしたって言ってたわよね。そこでもうまくいかなかったの?」


「そう、なーんかぎこちないっていうか、お互いがお互いに気を遣っちゃってどうしようもないっていうか。向こうも向こうで考えてることあるんだろうけど、それを素直に打ち明ける雰囲気でもないしさ。それにそういうのって、男の人から伝えて欲しいって思っちゃってさ。まあ、令和の今の時代に甘えなのは分かってるよ? でも――なんだろうな。私にとって彼が特別なように、彼にとっても私は特別なのかな、とか考えちゃうわけ」


「ふうん……」


「雪ちゃん、今日は毒舌ないね。どっか置いてきたの」


「だから、プライベートな話題だから切り替えたの。私のこと毒舌キャラか何かと思ってる?」


「思ってた……」


「素直に言われると返答に困るわよ」


「参考までに、雪ちゃんとこの彼氏とは、今うまくいってる?」


「うん。普通かな。普通に定期連絡してる。向こうは他県の大学だからねー」


「そっか。一応遠距離だもんね。じゃあ、思うことはある?」


「思うって、何を?」


「その、相手にとって特別な人間じゃなくなったらどうしよう、とか」


「私は思ったことはないわね」


「ほほう」


「これは私の考え方だから、あんまり人に強要するものじゃないんだけどね。私は特別な人間なんていないと考えているの」


「特別な人間なんていない?」


「そう。特別な人間がいる。勿論もちろん良い事よね。でもそれは、その言葉の悪い側面を見ない振りをしているだけに過ぎない、と私は思っていてね。。それって結構辛いことだと思うのよ。――っていうと彼氏とその他を比較しているように聞こえるかもしれないけれど――。私達がやってる音楽、オーケストラだってそう。まだ知らない素敵な曲がたくさん溢れていて、次に弾かれるのを今か今かと待っている。この前一緒に行ったプロオケ、あなた感動したって言ってたでしょ?」


「うん、感動した。とっても。あの拍手のない、最後の沈黙の空気を今でも覚えているくらい。ブラームスの交響曲第3番」


「そうなのよね。そういう色とりどりの世界を、特別な人間という第三者を介入させることで、視野狭窄に陥ってしまうのじゃないか――と思ってね。まあ、私は怖がりなの。自分の世界が他人に崩されることがね」


「怖がり……」


「だから、私は特別な人間なんていない――と思う。それでも、今付き合っている彼氏を蔑ろにしたりはしない。普通に手の届く、普通の幸せ。そう思って付き合ってるわ。まあ結婚なり何なりしてくるとまた変わって来るんでしょうけど、あれは契約みたいなものだからね」


「そっか、まあ、そうだよね」


「だから私が言いたいのは、別に特別じゃなくても、その彼氏が誰かの何かでなくとも、あなたが好きだと思えるなら、一緒にいたいと思える存在なら、それで良いんじゃない、ってこと。そう思えば、心の中の齟齬やズレを話すハードルもきっと下がるんじゃないかしら。だって、その彼氏は普通の彼氏なんだから。普通にあなたのことが大好きで、あなたのことをちゃんと思ってくれている、素敵で普通な、彼氏なんだから」


「……良く、私の彼氏情報を知ってるね。ちょっと妬くんだけど」


「だって同じオケ所属だもの。一緒に音楽やってれば、大体のことは分かるわよ」


「さっすが雪ちゃん、来年のコンミス候補」


「あれは先輩方が勝手に言ってるだけでしょ。それだって、私が一番歴が長いからってだけの話に過ぎない。私は私で、割と普通なのよ」


「そっか――ああ。でも、なんかちょっと、割り切れたかも」


「そう、それは良かった」


「いつも私のこと考えてくれてありがとね、雪ちゃん」


「いえいえ。これも普通の大事な友達のことですから」


 友人のそんなところが、私は好きだ。


 彼氏に話してみよう。


 せっかくだ、次のデート先も決められると良いな。




(「誰かの何か」――了)

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