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第8話
「じゃっ! そろそろお開きにしましょうか」
洋子が明るい声を出して、私ははっと我に返った。
冷房が効いた明るい店内は喧騒で濁っている。目の前のアイスティーの氷がからんと音を立てた。
何だか、随分と長い間白昼夢を見ていた気がする。
「ああ、うん、今日はわざわざありがとね」
お礼を言いながらちらとスマホで時刻を確認すると十七時だった。随分と長い間、不倫した教科担任だの、誰それが妊娠して高校辞めただの、元同級生が自殺しただのの話題で盛り上がったものだ。
「うちらも久しぶりに由起子に会えて嬉しいし。またこっち帰ったら声かけてね」
「そー! 大学の話また聞きたいし!」
「てか、東京遠征したときこっちから声かけるわ」
「あ、今度東京でライブあるから泊めてほし~」
「あはは、予定空いてたらね」
みんなで名残惜しむフリをしながら解散する。私はようやく一人になり、大きく長く息を吐き出した。何だかどっと疲れてしまった。
家に帰って久々に家族で夕食を食べて、お風呂に入って、上京するまで使っていたベッドに寝転がる。
スマホのメッセージアプリを立ち上げる。友達検索画面を開いて「木村辺蓮」と入力する。一件のユーザーがヒットする。アイコンには、長い三つ編みに分厚い眼鏡の女子が映し出されていた。
多少風貌が変わっているが、辺蓮だ。如何にも不慣れなアングルでの、ぎこちなさが伝わる自撮りだったものの、笑顔だった。
これはいつの写真だろう。辺蓮はあの事件をきっかけに中学校に来られなくなってしまったが、その後こうして笑って写真を撮れる日が訪れたのなら、それは喜ばしいことだ。
しかし、この写真が更新されることはもうないのだけれど。
心の中で静かに手を合わせる。これじゃまるで遺影じゃないか、とは思わなかったことにした。
アイコンをタッチしてメッセージ画面に映ると、辺蓮からの「連絡先を交換してくれてありがとうございます! 登録よろしくお願いしますね!」というメッセージと、可愛らしいスタンプだけが表示されていた。日付は四年前の六月。修学旅行の日、辺蓮に押し切られるような形で連絡先を交換させられたときのものだ。
私はこのメッセージに返信していない。いわゆる既読無視だ。けれど、私のメッセージ入力欄には、未送信の言葉が一行だけ綴られて、長い間ずっとそのままになっている。
辺蓮が中学に来なくなってから、私だけは彼女に何か伝えてあげた方がいいような気がして、でも間違ってるような気がして、書いては消して、消しては書いて、送ろうと思ってはやっぱりやめてを繰り返すうちに、悩みは忙しない日々に紛れ、そのまま忘れられてしまった。その残滓がこの一文だ。
私には、辺蓮の傷跡を通して彼女の地獄が見えなかった。お伽噺を通して、彼女の悲鳴が聞こえなかった。そこに地獄があることも、悲鳴があることもわかっていたのに、そこまでの距離があまりにも遠かった。
世の中には無数の
見えないから、聞こえないから、どうせ声が届かないから、何も言わなかった。
本当に?
言い訳とも後悔ともつかない感情を持て余す私は、あの夜の辺蓮の言葉を思い出す。
(林さんも、林檎が好き?)
ミルクバレーの物語を聞きながらまどろんで、もうまぶたすら自分の意志で動かせない私は、その問いかけを認識しながらも答えられなかった。
(ミルクバレーの名産は林檎なんです。農園で、木々が緑を少しずつつけて、小さな可愛い実がゆっくり丸く膨らんで、赤く色づいていくのを見ながら収穫を待つのが、毎年待ち遠しくてたまらなくて)
うとうとと無防備になっている私の心は「ああ、いいな」と思う。
林檎は私の好物なのだ。
(ミルクバレーの林檎はとっても優しくて甘い味がするんです。私、林檎が大好き)
もう目も開けていられないが、きっと辺蓮はその頬に微笑みを浮かべているのだろう。
(ねえ、林さんも、林檎が好き?)
二回も問いかけるということは、きっとその質問が彼女にとって、大切な意味を持つことだったのかもしれない。
けれど、私は答えられなかった。そしてこの言葉を最後にあの夜の記憶は途絶える。つまり、そこで完全に眠りに落ちてしまったのだ。
あのとき、私がもう少しだけ眠くなかったら、きっと答えていただろう。
私にとってあの瞬間、ミルクバレーは心底魅力的な町だった。嘘とか本当とかはどうでもよかった。林檎も食べてみたかった。
「私も林檎が好きだよ」
そう言いたかったけど、言葉は暗闇に落ちて、流れ流れて、今、スマホのメッセージ入力欄に映し出されている。
ああ、そうだ。
どうせ届かないから言わなかったわけじゃない。
私と辺蓮の
だから、きっとただ、言い損なっちゃったのだ。言い損なった言葉を、渡し忘れた。忘れたから、また境界線に閉ざされてしまった。
これは都合のいい自己弁護で、罪悪感から過去を美化しているだけだろうか。それとも、言い損なったまま忘れただけの方が質が悪いだろうか。
わからない。
四年前、言い忘れた「好き」はまだ手のひらの中に残っている。
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