第10話 お母さん、余計な事は言わないで!
「おはよう」
「……おはよう、夏海さん」
気づけば眠りについていたようで、自室のカーテンから入り込んでくる日差しを顔に受け、先ほどベッドから起き上がっていた。
リビングに入るなり、同居人の
千楓は、昨日は夜遅くまで考え、悩み込んでばかりだった。
何度考えても自分なりの結論なんて出せなかったのだ。
全然ダメだな、俺。何もわからないって……。
千楓は頭を抱えながらリビング内を移動していると、不自然な視線を感じた。
「ん?」
「おはよう……千楓……」
ダイニングテーブル近くに佇んでいた
「って、望月さんはまだ俺の家にいたのか」
「別にいいでしょ。それに泊るかもって言ってたじゃない」
「まあ、それはそうだね……ん? そういや、俺の事、下の方で呼んでなかった?」
「別にいいでしょ。むしろ、昔のように下の方で呼んだ方がいいと思って。その方が過去を取り戻せるかもしれないし」
「過去か……」
「それで、千楓は何か思い出せた感じ?」
「……いや、全然」
千楓は首を横に振った。
「そう。ならいいわ。急に思い出しても、千楓に負担がかかるだけだしね」
彩羽は昨日よりも優しい口調で言うと、ダイニングテーブルの椅子を引いて座っていた。
「ねえ」
「ん? なに?」
「今日さ、私の家に来れる?」
彩羽は椅子に座ったまま、その場にいる千楓に話しかけていた。
「まあ、いいけど。何をするの?」
「私の家で店番をしてほしいの。私と一緒に」
「人手が足りないのか?」
「そうじゃないけど。千楓が何かを思い出せる糸口になってくれたらなぁって。まだ思い出せないのなら、気分転換感覚でもいいし、私とバイトをしてほしいだけ」
彩羽と一緒にバイトする事には多少の戸惑いがあったものの、休日なのに自宅に引きこもって過ごすのもなんか違うと思い、一応承諾する事にした。
「そういうことでお願いね。私は朝食を食べたから、千楓もしっかりと食べて。今日の夕方まで手伝ってほしいし」
「ゆ、夕方まで? 俺、バイトとして入るんだよね?」
「そうよ。一人で自宅にいたとしても別にやる事ないでしょ」
彩羽はあっさりとした口調で、問題ないでしょ的な感じに話していた。
「そりゃそうだけど」
「あと手伝ってくれたら、昼休憩やバイト終わりの賄は無料でケーキを上げるわ」
「んー、だったら、いっか。望月さんのケーキ美味しかったしな」
「んッ……褒めてくれてありがと……」
「え?」
「ただ、お礼を言っただけ。別にそれだけのことだから。そんなに気にしないで」
彼女は頬を真っ赤にしたまま、千楓の事を睨んでいたのだ。
朝食を済ませた千楓は彩羽と共に自宅を後にする。
夏海に関しては今日も病院での仕事があるらしく、二人が家を出る一〇分ほど前にはもういなかった。
二人はケーキ専門であるMOTIZUKIまで徒歩で向かう。
「今はバイトとして入ってもらうから、後ろの方から入るから」
MOTIZUKIに到着すると、彩羽が裏口の場所を案内してくれる。
裏口から入ると、彩羽の母親がエプロンをつけて仕事前の準備を整えていたのだ。
「おはよう、彩羽。昨日は泊って来たんでしょ」
「そうよ」
「なんか、あった感じ?」
彩羽は外靴から、店内ように靴に履き替えながら返答していた。
「何もなかったわ」
「えー、何それ」
彩羽は明るい母親と他愛のない話をしていた。
「まあ、いいわ。彩羽のエプロンはそっちにあるから。それと、千楓君だよね。あなたのエプロンも用意してあるから、それをちゃんとつけてね。後、バンダナと、店内用の靴もね」
「はい、分かりました。一日、よろしくお願いします」
千楓は、彩羽の母親にお辞儀をする。
「こっちに来て。準備の仕方を教えるから」
店員としての準備をすでに整え終えている彩羽から呼び出された。
千楓は、彼女から渡されたエプロンとバンダナをつけ、店内用の靴を履き、手洗いやうがい、消毒などを行う。
それから二人はお店のレジカウンターのところまで移動するのだった。
「まず、私が教えるわね。ちゃんと聞いててね。レジ金の引き出しを開ける時は、このボタンを押すの。それで、ここが一万円を置くところで、その隣が五千円と千円ね。ここが小銭置き場だから。変な場所に乱雑に置かないこと」
「わかった」
一日くらいのバイトとは言え、千楓は所持していたメモ帳に、ボールペンを使って書き込んでいた。
「あと重要なのは、この商品ね。一応、すべての商品には商品名があって。似ている見た目や、似た感じの名前もあって紛らわしいかもしれないけど。気を付けてね」
「という事は、このチョコみたいなのも別々の商品?」
千楓はケーキが入ったショーケースの中身を見て、特定の商品を複数種類指さしていた。
「えっと、それはねチョコケーキとガトーショコラ。あとは、ギネスケーキかな? 見た目の色が似ているけど。全然違うよ。チョコケーキはイチゴが乗っていて。ガトーは、特に何も乗ってないケーキ。ギネスケーキは、ギネスっていう黒ビールを材料にして作られてるの。ギネスケーキは子供向けじゃないから。そこは勘違いしないで。重要だからね」
「へえ、そうなんだ。ビールを使ったケーキもあるんだな」
「まあ、そうね。ここはスーパーとは違ってケーキ専門店ですから。色々な人の口に合うケーキを取りそろえてるの」
彩羽は偉そうに自慢げに言う。
少々腹正しいが、勉強になると返答して彼女のことを引き立てておく事にした。
「私、ケーキの事については詳しいからね。他にわからない事は?」
「……今のところはないかな」
「そう、じゃあ、後営業開始まで十五分ほどあるから、窓ふきでもしてお客様のお出迎えの準備をしないと。はい、これ、雑巾。こっちは水が入ったバケツね」
「ありがと」
千楓はバケツに入った水で濡らした雑巾を右手に持ち、開店前のお店の窓を慎重に拭き始めるのだった。
「そういや、望月さんはケーキ作りとかしないの?」
千楓は雑巾で窓を拭きながら彼女に話しかける。
「え、ま、まあ」
「なんで? ケーキについて詳しいんでしょ?」
「そ、そうね」
彩羽の様子がおかしい。
ぎこちない話し方になっていたからだ。
「彩羽はね、下手なの」
「お、お母さん⁉」
店内の奥から出てきた彩羽の母親。
「私、ちゃんと教えたんだけどね。この子、絶望的にケーキ作りが下手でね。ちゃんと出来上がったかと思ったら、手を滑らせてクリームの上に手を置いてしまったり、ケーキを床に落としてしまったりとね、なんていうか、ドジで」
「もう、なんで、そんな事を言うのよ!」
「ごめんね。でも、本当の事じゃない。まあ、誰に似たのかしらね」
「もうー」
彩羽は頬を膨らませて、母親に怒りを露わにしていたのだ。
「まあ、彩羽がいずれちゃんロケーキを作れるようになったら、今回の件は謝罪するから。それと、二人の邪魔にならないように、私は裏の方でケーキでも作ってくるわ」
「はあぁ、お母さん、いつも一言多いのよ」
彩羽が、あそこまで手籠めにされているところを見たのは初めてだった。
「何よ、私の方を見て」
「なんか、楽しそうな家庭だなって」
「そんなんじゃないし」
「でも、俺、昔の事もちゃんと思い出せないし、心の底から楽しめてない気がするんだ。今の望月さんの事を見て、少し心が楽になった気がするよ。俺、早く昔の事を思い出せるようにするからさ。それで、ちゃんと正面から望月さんと向き合えるように頑張るから」
「千楓……あんたにしてはちゃんとしたこというじゃない。本当に早く昔の事を思い出してよね!」
彩羽はムスッとした顔を見せた後、彼女は深呼吸をし、真面目な顔を見せ始めると仕事と向き合い始めていたのだ。
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