天帝魚
彼岸花
最後の一人
雨が降っていた。
雨の勢いは凄まじく、洪水を思わせるほどの轟音を響かせる。雨粒を受けた木々や草の葉は、お辞儀をするように何度も上下に揺れ動いていた。舗装されていない地面は水浸しとなり、ぐちゃぐちゃの泥の道となっている。
森の中なら、木々の葉が雨粒を受け止めるため、その激しい雨の直撃は受けない。だが雨水の総量は変わらない。木々を伝った水が、あちこちで滝のように流れ落ちる。一塊となった水の質量は泥ぐらいなら簡単に抉り、片足を引っ掛けるぐらいの小さな天然落とし穴を、大地に幾つも作り出す。
そして空を覆う分厚い雨雲は、暗闇を作り出す。今は昼間の十二時を過ぎたばかりなのに、月のない夜を思わせる暗さが地上を覆い尽くしていた。
このような天気の中、出歩くのは危険な行いだろう。ましてや原生林を彷彿とさせる巨木と下草が茂る森の中で、不安定な泥の上を走るなど無謀が過ぎる。しかも人の手が殆ど入っていない道は緩急が激しく、一部は崖のように切り立っているのだ。万が一にも足を滑らせれば、命の保証はない。正に自殺行為である。
その自殺行為を行う、一人の男がいた。
「は、はぁ! はぁっ!」
男は金色の髪と白い肌をしている。西洋でよく見られる、白人のステレオタイプのような外観だ。肉体は鍛え上げられ、身長も百八十センチと大柄。着ているのは迷彩服であり、その手には一丁の自動小銃が握られている。姿を見ただけで、彼が一般人ではなく軍人だと察せられるだろう。
そんな彼の顔は、恐怖に染まっていた。目には涙を浮かべ、半開きの口はぶるぶると震えている。頻繁に後ろを振り返っているが、この時に立ち止まる事もしない。何度も足がもつれ、転びそうになっているにも拘らず。長く大きな自動小銃を振り回すように、ひっきりなしに動かし、あらゆる方角を警戒していた。どれだけ見渡したところで、夜のような暗さに加え、鬱蒼と茂る巨木と草に囲まれて、周囲などろくに見えないのに。
この姿を見れば、彼が誰かの救助のため、或いは訓練のため森の中を走っているのでないのは明白だ。そして彼の傍に、彼の自殺行為を咎める者はいない。
「ぎゃっ!?」
何度も不注意を重ねた結果、彼はついに泥の中に沈んでいた根に足を取られて転ぶ。
転んだ男は、自分の状況を理解するや顔を絶望一色に染め上げた。元々色白な顔が更に青ざめ、全身がガタガタと震え出す。立ち上がろうと藻掻くが、震える身体は言う事を聞かず、何度も倒れてしまう。
どうにか仰向けの体勢となった男は、自動小銃を自分が来た道に向ける。雨水でびしょ濡れになった顔を拭いもせず、ごくりと息を飲む。
何秒も、何十秒も、その姿勢で男は構えていたが……ネズミ一匹、彼の前を横切る事はしない。
「……い、いな、い……? 逃げ切れた……?」
ぼそぼそと、男は英語で独りごちる。何もない事に安堵した身体は、幾分震えが収まり、辛うじて立ち上がる事が出来た。
それでも男は銃を下ろさない。銃口を正面に向け、引き金に指を掛けたまま、後ろ歩きで警戒し続ける。
そう。決して男は警戒を怠っていない。先程までの恐慌状態から脱したものの、今もその顔は恐れに支配されている。暗い森の中を、飽きる事もなく凝視し続けていた。
なのに。
男の傍に、何かがいた。
「……………」
気配に気付いた男は、ゆっくりと視線を動かす。
『何か』はすぐ隣にいるのに、男はその姿をハッキリとは視認出来ない。雨雲によって作られた夜の如く暗さが、『何か』の姿を覆い隠している。確認出来るのは極めて長大な身体と、そこから生える様々な突起やヒレを持つシルエットだけ。その背丈が男の身長を二倍以上上回る事ぐらいしか情報がない。
だが唯一、目だけは見えた。感情のない、丸く大きな目玉が一つ。横顔なのだろうか。瞼のないそれがじっと、男を見つめている。
男は青ざめた。ガチガチと顎を鳴らし、銃を持つ手は寒空の中にいるかの如く震え出す。許しを請うように目から涙が溢れるも、顔で受ける雨粒に混ざって消えてしまう。
「う、うおおおおおおおおお!」
それでも勇ましく銃を向け、引き金を引く際の声が悲鳴ではなく雄叫びなのは、軍人としての矜持からか。
雨に晒された自動小銃は、しかしこのような環境での使用も想定されたもの。火薬は問題なく着火し、要求仕様通りの速さで弾丸が撃ち出される。一発で人間を容易く致命傷に至らしめる攻撃だ。
そして彼が持つ自動小銃は、この弾丸を一秒に十発以上発射する。一発では仕留めきれない大型獣も、十発も受ければ穴だらけだ。更に至近距離での発射であるため、それらが目標から外れる事はほぼない。
事実、外れはしなかった。
されどその弾丸は、『何か』に触れる寸前に止まった。見えない壁があって、そこに食い込むかのように。
「おおおおおおおおお、お、お……」
男がその状況を認識出来たのは、自動小銃の弾を撃ち尽くした後。一秒間に十発以上の弾を撃てる自動小銃だが、装弾数は精々二十〜三十。二秒か三秒引き金を引きっぱなしにすれば、弾倉は空になってしまう。
空になった弾倉を交換すれば、また次の射撃が行えるだろう。しかし男の震える手は、無様に引き金をカチカチと引き直すだけ。恐怖で思考が固まってしまったのもあるが……男は理解してしまったのだ。
銃弾程度では、コイツには勝てないと。
「ゆ、ゆる、してくれ……」
青ざめた顔で、引き金を引きながら、男は謝罪の言葉を告げる。
果たして『何か』は、男の言葉を理解したのだろうか。
横顔が、男の方を向いた。側面にあった大きな目玉は、正面からでは僅かに飛び出した部分しか見えない。それでも二つの目玉がこちらを見ていると、男が理解する程度にはハッキリと視線を向けている。
相変わらず『何か』はシルエットしか見せていない。だが男は雰囲気から察した。
『何か』が笑ったと。
がばっと開いた口の中にある、無数の牙を見せ付けながら。
「あ、ひ、ひ」
よろめきながら後退りした男が、転ぶ事はない。
動き出した『何か』が男の喉笛を咥え、骨が砕けるほどの力で噛み付いて、倒れそうになる身体を支えたのだから。
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