喫茶プロキオン〜眠れぬ夜の特別なひととき〜
及川稜夏
第1話
「眠れない時、ピッタリな店があるんですよ」
後輩にそう言われ、手渡されたのはいつだったか。
そのショップカードの存在を思い出したのは、ついさっきのことだった。
ここ最近、彩菜は寝つきが悪かった。ストレスだかなんだかは知らないが、いつもなかなか眠れずようやく眠れてもすぐに朝が来てしまうのである。
彩菜は、どうせ眠れないのなら少しでも有意義に時間を使おうとベッドを飛び出した。そして、外に出られる服装に着替えた。いつも使う鞄を漁る。ショップカードは彩菜の鞄の奥底から出てきた。運良く折れも破れもしなかったそれを彩菜はまじまじと見る。
群青の紙が金色の箔押しで縁取られたそれには、「喫茶プロキオン」という文字と、可愛らしい犬のイラストが描かれている。営業時間は22時から朝の4時まで。
店の住所らしきものを見れば、どうやらその店は近所にあるらしい。
彩菜はその店へ向かうことにした。
「やっと、見つけた…」
その店はひっそりとしたビルの一角にあった。扉には「喫茶プロキオン」とプレートが掛かっている。よく言えば隠れ家のような店だが、彩菜が店の実在を疑うほどにわかりにくい。
本当にこんなところで営業しているのだろうか、そして営業していたとして採算が取れているのか、そんなことをぼんやりと考えながら、彩菜はドアノブを引いた。
途端、ドアについたベルのカラコロという音と、切なくも優しいオルゴールの音色を耳が捉える。
木製らしい机と椅子が並ぶ、ガラリとした店内。
「いらっしゃいませ」
きりりとした顔立ちの若い女性がひとり、カウンターの先から声をかけてきた。
「ようこそ、喫茶プロキオンへ」
彩菜は、少し戸惑いながらもカウンターに近づいた。店内は広くはないが、どこか落ち着く雰囲気が漂っていた。木のぬくもりと、オルゴールの音色が静かに響く空間が、彼女の心の緊張を解いていく。
彩菜はカウンターの席に腰を下ろし、ふと自分がこの店に足を運んだ理由を思い出す。「眠れない夜を過ごすために、ここに来たんだっけ…」
時計を見れば、店を探すのに手間取ったせいか、24時を周ったところであった。
「メニューです」
店員の女性が、淡い群青色のメニューを差し出してくる。
落ち着いた色のエプロンのピンに『小夜』と書かれている。それが彼女の名前のようだ。
彩菜はメニューを受け取り、ざっと目を通した。お手軽な値段のドリンクや軽食が並んでいる。どれも親しみやすいラインナップだった。
その中に、ひとつだけ不思議な名前の飲み物がある。
「…そうですね、"ミッドナイト・ラテ"をお願いします。」
彩菜は名前に惹かれて、無意識にそれを選んだ。小夜は優雅にうなずき、静かに準備を始める。その姿は、どこか手際が良く、まるでずっとこの空間に溶け込んでいるようだった。
「喫茶プロキオン」は、彩菜にとってこれまで聞いたことのなかった店名ではあったが一体いつからここにあったのだろうか。
ぼんやりとした思考の中で、彼女は再び後輩がこのカードを渡してきた時のことを思い返していた。
「ここ、特別な時間が流れてるんですよ。きっと、先輩も気にいると思うなぁ」
そんな風に言っていた彼女の笑顔が、妙に鮮明に蘇る。後輩はただの気まぐれでこの店を紹介したのか、それとも何か意図があったのだろうか。そもそも、眠れない夜とは無縁そうなあの後輩は、一体何をきっかけにここを知ったのだろう。
「お待たせしました、ミッドナイト・ラテです。」
目の前に置かれたカップから、ふわりと香る甘い香りに彩菜は少し驚く。ラテアートが施されたその表面には、繊細な筆致で月と星が描かれていた。美しいデザインに、彩菜はしばし見入ってしまった。
「素敵なデザインですね…」彩菜が思わずつぶやくと、店員は穏やかに笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。この店では、少しでもお客様が心地よく過ごせるように、毎晩違ったデザインをお届けしているんですよ」
「毎晩違うんですか?」
「ええ」
彩菜は少し驚いた。ここに通う常連がいるのなら、確かに飽きない工夫だろう。
ラテを口に運ぶと、ほのかな甘さが彼女の疲れた心に染み渡る。飲み込むと、なんだか少し体が軽くなった気がした。
自分もこの「特別な時間」に足を踏み入れたことを実感するのだった。
「どうですか? この夜を楽しんでいただけましたか?」
彩菜は少しだけ微笑んで、うなずいた。
「ええ、そうかもしれません。少しだけ…眠れる気がします。」
夜の時間が静かに、けれど確かに流れていく中で、彩菜は穏やかな心地に包まれていた。
喫茶プロキオン〜眠れぬ夜の特別なひととき〜 及川稜夏 @ryk-kkym
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