EP1: rollback.

EP1

 夕焼けにまる教室で、真剣な顔をした銀髪ぎんぱつの少女がこう言った。


「わたし以外の天使を、殺してほしいの」


 それが、彼女と交わした一番最初の約束だった。



   *****



 全知全能ぜんちぜんのうの神様みたいに、指先一つで世界を変えられたらいいのに。


 そんな力がほしいと願ってみる。けれど、そんな力なんてあるわけなくて、どうあがいたって無意味で無駄むだなことだった。


 二〇二〇年七月十六日。空は晴れわたり、どこまでも広がる青空に白い雲がゆるりと流れていく。気温は高く、湿気しっけの多い空気がじめじめとまとわりついて暑苦あつくるしい。


 グラウンドからは野球部のかけ声が聞こえてきた。今年は地方大会に勝ち残っているらしく、坊主ぼうずあたまの野球部員たちの声にはどこか気合きあいが入っている。


 時刻は十三時半。午後の部活が始まったのか、吹奏楽すいそうがくの音が遠くから聞こえてきた。底抜そこぬけに明るいトランペットが、音階おんかいを上がっては下がってをくり返している。


 園見そのみ芙蓉ふようは、校舎の屋上でそんな音をぼんやりと聞いていた。


 短めのマッシュヘアに整えた黒髪。半開きで眠たげな黒い瞳。やや童顔どうがんな男子生徒である彼は、屋上の日陰ひかげに座りこんでいる。


 とにかく何もやる気が起きなかった。


 ここ二ヶ月はずっとそんな状態だ。かろうじて不登校にはなっていないものの、学校はサボりがち。所属しょぞくしている軽音部にも全く顔を出していないし、自室に置いてあるエレキベースにもずっと触れていない。期末テストの結果だって、赤点ギリギリのひどいありさまだった。


 今日も、授業を受けるのが急に馬鹿馬鹿ばかばかしく感じて、三時間目の途中とちゅうで教室を抜け出した。校舎内をうろついて色々な場所を転々てんてんとしたあげく、たどり着いたのがこの屋上だ。


 食堂の自販機で買った麦茶むぎちゃを飲むと、もうぬるくなっていた。屋上はかなり暑かったが、あいにく今は立ち上がるのすら面倒めんどうで、芙蓉ふようは汗を流しながらもぼーっと青い空をながめている。


 ふいに、とびらが開く音がした。


 屋上は立ち入り禁止の場所だ。もし教師に見つかれば確実かくじつに怒られるが、隠れたり逃げたりする気はみじんも起きず、芙蓉ふようはぼんやりと青空をながめている。


 誰かが芙蓉ふようの横にやってきて、こう言った。


「やっと見つけたー! 園見そのみ芙蓉ふようくん、だよね」


 それは教師ではなく、女子の声だった。


 芙蓉が振り向くと、そこには笑顔の女子生徒が立っていた。こげ茶色の髪を二つ結びのおさげにした、幼めな顔立ちの女の子。白い夏服セーラー、スカートにハイソックスを着用した彼女は、愛らしい笑顔を向けたまま芙蓉の横にしゃがみこむ。


「となり座るね。アイス買ってきたけど食べる?」


「……いや、誰?」


 したしげに話しかけられたものの、芙蓉はこの女子のことを全く知らなかった。完全に初対面である。スカートを抑えながら芙蓉のとなりに座りこんだ彼女は、ごそごそとコンビニ袋をあさって青い棒アイスを二つ取り出した。


 彼女はそのうちの一つを芙蓉に差し出しながら、自己紹介をした。


「高三の間遠けんどう理亜りあです! 芙蓉くんより先輩だから、気軽に理亜りあさんって呼んでね」


 そして、彼女はにへらと笑った。


 その名前に聞き覚えはなかった。やはり初対面だ。だというのに、理亜と名乗った女子生徒は、なぜか芙蓉の横に座ってアイスを渡そうとしてきている。全くもって意味が分からない。


「ほら、溶けちゃうよ」


 アイスの袋をほおに押し当てられ、芙蓉は思わず「つめたっ」と声を上げた。その様子を見て、理亜がおかしそうに笑っている。


「いいから食べなって。私のおごりでいいからさ」


 なぜアイスを渡そうとしてくるのか、なんのためにここに来たのか、そもそもなぜ芙蓉のことを知っているのか――様々さまざま疑問ぎもんが頭に浮かんだが、それらを質問するのも、断るのすら面倒だったので、芙蓉はアイスを受け取ることにした。


「ありがとうございます」


 芙蓉が素直に受け取ったのを見て、理亜がうれしそうな表情を浮かべた。二人そろって袋を開け、ソーダ味のアイスをかじる。理亜は「ん~、冷たくておいしい!」と当然のような感想を口にした。


 かきーん、と甲高かんだかいバッティングの音が聞こえてくる。グラウンドでは、キャッチボールを終えた野球部が本格的な練習を始めたらしい。


「ねえ」


 唐突とうとつに、理亜が言った。


「芙蓉くんさ、カノジョにフラれたんでしょ? だから屋上でたそがれてるんだよね」


 それを聞いて、芙蓉はアイスを吹き出しそうになった。


「……なんで知ってるんですか」


「ふっふっふ、先輩はなんでも知ってるんだぜ?」


 理亜が得意げな表情でそう言った。


 彼女の言う通りである。芙蓉の無気力の原因は、ずっと付き合っていたクラスの女子と二か月前に別れたからだ。そこからはなにも手につかなくなって、うだうだと毎日を過ごしていた。


「でも、正確には違います」


 芙蓉が言うと、理亜はアイスをかじりながら「ほーなの?」と聞き返してきた。


「違うってどういうこと?」


「フラれたんじゃなくて、いなくなったんです」


「なになに。くわしく聞かせて!」


 目をかがやかせた理亜が、アイス片手に身を乗り出してくる。女の子らしい甘いにおいがただよってきて、芙蓉は若干じゃっかん身を引いた。理亜は楽しそうにしているが、芙蓉にとってはこれっぽっちも楽しくなかった。


「めんどくさい」


 芙蓉が言うと、理亜は、


「そんなにイヤそうな顔すんなよー! いいじゃんか、聞かせてよ」


 と言ってさらに身を乗り出してきた。もはや、芙蓉が手にしたアイスにかじりつけるくらいの距離きょりだ。


「……もう、二か月も前のことなんですけど」


 勢いにされた芙蓉は、仕方なく話し始めた。


「放課後呼び出されて、急に言われたんです」


「なんて言われたの?」


「『もう一緒にはいられない』って」


 それを聞いた理亜が真顔で言った。


「ちゃんとフラれてんじゃん」


「……」


「うわ!? ごめんごめん、泣かないで!」


 理亜があわてて謝ってくる。


「泣いてない。これは汗です」


 芙蓉が返事をした。たしかに視界はぼやけているが、これは汗が目に入っただけだ。間違いない。


「いや、めっちゃ泣いてるよ? 完全にトラウマになってんじゃん。先輩がよしよししてあげよっか……?」


「いえ……もっとみじめな気持ちになるので遠慮えんりょします」


「そ、そっか」


 溶けかけのアイスをかじる。冷たい。吹奏楽すいそうがくのトランペットが何度も同じメロディを練習している。野球部は相変あいかわらずバッティングの練習をしているようで、白球はっきゅうが高く上がるのがちらちらと見えていた。


「それで、『いなくなった』って、どういうこと?」


 改めて理亜が聞いてくる。芙蓉はアイスのかけらを飲み込むと、これまでのいきさつを説明した。


「別れようって言われた次の日、彼女は学校にこなくなったんです。それで家まで行ったんですけど、すでに引き払われた後でした。そしたら、次の日にはその子が転校したことになってて……でも、絶対に違う。転校のはずがない」


「どうしてそう言い切れるの?」


 理亜が聞いてきた。


「それは……」


「当ててみよっか」


 言いよどんだ芙蓉に、理亜が微笑ほほえみかける。


「芙蓉くんの元カノは普通の女の子じゃなかった。それどころか、人間ですらなかった」


 おさげの先輩女子が言った。


「その子は使だった――そうだよね?」



   *****



 セーラー服を着た銀髪の少女が、金色のひとみでその光景をながめている。


 少女の目の前で、二体の人型ロボットが戦っていた。正確には、それはロボットではなくどちらも『天使』である。


 一体は黒い天使。身長は約三メートル。全身を黒い装甲でおおったその姿は、映画に出てくるSFマシンにしか見えない。


 もう一体は灰色の天使。顔はなく、光輪こうりんのついた頭部にはうつろなのっぺらぼうが張り付いていて、さながらエイリアンのような見た目だった。


 黒と灰色の二体の天使が、手にした剣を振りかざす。二つの剣がぶつかってはげしいスパークをあげた。二体は片時かたときも動きを止めず、火花を散らして何度も斬り結ぶ。


 黒い天使は、少女を守るために戦っている。


 一方で、灰色の天使は、少女を殺すために存在している。


 春夏秋冬、一年を通して、この戦いは日常的に行われた。黒い天使は、一年以上もの間、少女を守るために人知れず戦ってきたのである。


 黒い天使が、灰色の天使をせる。今日もまた、少女を守ることに成功した。そして、戦いが終われば、少女は――白羽しらはね七彩ななせは決まってこう言うのだ。


「お疲れ様。今日もありがとうね、芙蓉ふよう



   *****



「どうしてそれを知ってるんですか」


 芙蓉ふようが目を丸くして理亜りあに聞き返した。


「あたり? やったあ」


 そんな芙蓉に構わず、理亜が能天気のうてんきに喜んでいる。


白羽しらはね七彩ななせちゃん、であってるよね? 芙蓉くんの元カノの名前」


「そう、ですけど……」


 白羽七彩ななせ――それが芙蓉と恋人関係にあった女子生徒の名前だ。確かに、芙蓉と七彩が付き合っていたことは校内でも有名な話である。けれど、七彩が『本物の天使』であることは芙蓉以外の誰も知らないはずだった。


「あ、外れた」


 アイスを食べきった理亜が、残ったぼうを見て残念そうにつぶやいた。


「芙蓉くんのは? なんだ、こっちもはずれじゃん」


 芙蓉の手をつかんで無理やりアイスの棒を見た理亜は、がっかりした様子で座り直す。そして、なにも言えずにいる芙蓉の方を見て、笑みを浮かべながら会話を再開した。


「ねえねえ、七彩ななせちゃんってどんな子だったの」


「どんな、って……」


「どこが好きだったの? 天使なんだし、すっごい可愛いんでしょ?」

 

 理亜は七彩が天使であることを知っているどころか、天使が女子高生をやっていたことに全く疑問を覚えていないらしい。なぜ、と言いかけて途中とちゅうでめんどくさくなった芙蓉は、質問するのをやめて普通に答えることにした。


「めっちゃ美少女です。銀髪で、金色の目をしてて。天使っていう割には、性格はかなり普通でした。基本わがままだけど、物分かりはよくて……ちょっとだけ泣き虫で……」


 しゃべっているうちに悲しくなってきた。七彩はもういない。彼女が行きそうな場所はかたぱしから調べたけれど、七彩の痕跡こんせきはどこにもなかった。彼女はすでにこの街から去っていたのだ。


 どこでなにをどう間違えたのか。


 多分、どうしようもない問題が発生して、七彩はどこかにいってしまったのだ。その問題がなにかすらわからない芙蓉には、どうしようもないことだ。当時は必死になっていろいろ試したけれど、七彩が帰ってくることはついぞなかった。


「ケンカ別れってわけじゃない。七彩は突然とつぜん『別れよう』って言ってきた。行方はわからない。理由もわからない。そんな状態で何をしても無駄でした」


「そっかあ。だから芙蓉くんはこんなところでぼんやりしてたんだ」


 理亜が言った。


「天使がどうのはまあいいとして。芙蓉くんはすっごく好きだった彼女に置いて行かれて、どこに行ったのかもわかんなくて、テンション爆下ばくさげってことね」


「雑にまとめられた」


 芙蓉が言うと、理亜はにへらと相好そうごうくずした。


「ぴんぽーん。そんな芙蓉くんに朗報ろうほうです」


「……朗報?」


 目を輝かせながらうなずいた理亜は、身を乗り出してこう言った。


「ついに私の正体しょうたいを明かす時がきた! 私が誰なのか、気になるよね!?」


「いや、別に」


「なんで!? 気になるだろーっ!」


 理亜が芙蓉の肩をがくがくとする。されるがまま、わずかに迷惑そうな顔をした芙蓉のマッシュ頭がぐらぐらと揺れた。 


「本当に興味ないです。話を聞いてくれてありがとうございました」


「おい、めんどくさがるな! 帰ろうとするな!」


 立ち上がりかけた芙蓉の腕をつかんで、理亜が必死な表情で引き止めてきた。


「はい座って! いい、よく聞いて」


 理亜は芙蓉を無理やり座らせると、自分は立ち上がって日陰ひかげの外に出た。そして芙蓉の正面に仁王立におうだちし、大きな胸をらせて腰に手を当てると、得意げな顔でこんなことを言い出したのである。


「私の正体は、埒外らちがい事象体じしょうたい隔離かくり機構きこう――通称XEDAゼダの秘密工作員こうさくいん。どんな国家にも政府にも、国連にすら所属しない、人類社会で最も機密度きみつどの高いちょう国家的こっかてき組織そしきのエージェントだよ」


「……はい?」


 芙蓉がいぶかしげな目を向けると、それも先刻せんこく承知しょうちといった様子の理亜が、したり顔で説明を加えた。


「どうして私が芙蓉くんのことを探していたのか。どうして芙蓉くんがカノジョにフラれたことを知っていたのか。どうしてその元カノが天使であることを知っていたのか」


 理亜は胸の下で腕を組み、得意げな顔でしゃべり続ける。


「それは、間遠けんどう理亜りあが天使を調査するためにこの街に派遣はけんされた秘密組織のエージェントだからだよ。それで全ての事柄ことがらに説明がつくでしょ?」


 そう言って、理亜がにへらと笑いかけてきた。


 この能天気そうなおさげの先輩が秘密組織のエージェントだとは到底とうてい思えなかった。けれど、皆が知らないだけでこの世界には女子高生の天使だっているわけだし、そういうこともありえるのかもしれない。


「じゃあ、その制服はコスプレなんですね」


「どうしてそう思った!? 私、ちゃんと十八歳だから! 高校三年生なのは本当だからね!?」


「そうなんですか」


 七彩ななせがJK天使なら、理亜はJKエージェントか。世の中には色々な人間がいるものだ。


 おほん、とわざとらしくせきばらいをした理亜が、その顔に似合わない真面目な表情をしてくわしい説明を始めた。


埒外らちがい事象体じしょうたい隔離かくり機構きこうの仕事は、『常識じょうしきはんする異常な存在』を人目ひとめれないように隠すこと。本物の天使なんて、常識的には実在しないものだからね」


「でも、もう七彩ななせはいなくなった。僕には関係ないことです」


 芙蓉が言うと、理亜は「ちっちっち」と指をった。


「この街は天使の影響でおかしくなってる。このまま放置すると、いずれ天使の存在が皆にバレることになるのね。そうなったら、私たちの望まない方向に世界が変わっちゃうかもしれないわけ」


「はあ」


「だから、XEDAゼダはこの街にエージェントを送り込んだ。それでね、この街の異変いへんと、七彩ちゃんの失踪しっそうが無関係とは思えないじゃん?」


「そうですか」


「だから、芙蓉くんにも協力してほしい」


「お断りします」


 芙蓉が即答そくとうすると、理亜は一瞬いっしゅん固まってから、「え!?」と驚いた顔をした。


「断るの早くない!? 七彩ちゃんがなんでいなくなったとか、気になんないの!?」


「今更それを知ってなんの意味があるんですか。そんなことをしたって七彩が帰ってくるわけじゃない。調べたいなら勝手に調べたらいいんじゃないですか」


 勢いよくまくしたてた理亜を、芙蓉はなく突き放した。


「そう言わずにさ、先輩に協力してよ」


「イヤだ。何もしたくない。そういうのはもう疲れたんです。帰ってください」


「いいや、帰らない!」


 そう言うと、理亜は芙蓉の腕をつかみ、無理やり立ち上がらせた。


「行くよ、芙蓉くん」


「だからイヤだって――」


 言いかけたとき、理亜がずいと顔を近づけてきた。またしても、女の子っぽい匂いがふわりとただよってくる。理亜はにへらと笑い、こう続けた。


「いいじゃん、一緒に行こうよ。貴重きちょうな青春をだらだら過ごすなんてもったいないぜ?」



   *****



「おお~、確かに異方いほう領域りょういきしてるね」


 となりを歩く理亜が言った。


 午後の空はどこまでも青い。気温は二十七度をえていて、じめじめとしてあつかった。芙蓉ふようのテンションはこれ以上なく下がっている。さっさと家に帰って寝たいというのが今の正直な感想だった。


 結局、芙蓉は理亜に引きずられるようにして学校の外に出されてしまった。理亜はいつの間にかタクシーを呼んでいて、二人はそれに乗って移動し、この人気ひとけのない住宅街にやってきたのである。


 この住宅街には、文字通もじどおり『人気がない』。つまりなのである。眼前がんぜんに並ぶ背の低い家々は生活感を残してはいるが、ここには一年前から誰も住んでいない。


「七彩はここを『忘却ぼうきゃく地区ちく』って呼んでました」


「そうなの?」


「人々に忘れられた地区。ここは天使の生産せいさん拠点きょてんになっていたんです。一年以上前はここにも人が住んでいたらしいけど、宝くじがあたったとか、マンションをゆずり受けたとかの『奇蹟きせき』が起きて、みんな引っ越したそうです」


「なるほど、わかりやすい呼び名だね。じゃあ、天使の生産拠点っていうのはどういうこと?」


 理亜が聞いてきた。


「七彩は別の天使から命を狙われていました。その刺客しかくの生産拠点が、この忘却地区だったんです」


「その『刺客』ってさ――」


 理亜が立ち止まって、右方向を指さした。


「――あれのこと?」


 彼女が指さした方向を見る。


 そこには、異様いような人型が立っていた。


 一言ひとことで表すなら、それは『巨人』だった。身長は三メートル強。ボディは灰色のなめらかな装甲に包まれており、遠目とおめから見れば石像ぜきぞうのようだった。その巨人は輝く剣を右手に、巨大な盾を左手に構えている。頭部には顔がなくのっぺりとした面が張り付いており、頭頂部にはぼんやり光る光輪こうりんがくっついていた。


虚像きょぞう天使てんし……なんで、今更……?」


 芙蓉が驚愕きょうがくに目を見開く。


 ずいぶん前に、七彩はこの街からいなくなった。だから、七彩を殺すために出現していたこの『刺客しかく』も、生産されることはなくなっていたはずだ。二か月前、芙蓉自身もそれを確認した。だからこそ、七彩がいなくなったことを認めざるを得なかったのだ。


「へー、あれが本物の『虚像きょぞう天使てんし』なんだ」


 絶句ぜっくする芙蓉のとなりで、理亜がひとりでにうなずいている。


 〈虚像天使〉。それが石像せきぞうのような天使の呼び名だった。その名が示す通り、現世に投影とうえいされた『虚像きょぞうの天使』である。七彩を殺すために生産される、がらんどうの、よろいだけの天使だ。


 その虚像天使が、ゆっくりとこちらを振り返る。


「……なんかこっち見てない?」


 理亜が聞いた。その言葉でわれかえった芙蓉が、


「虚像天使は、忘却地区への侵入者しんにゅうしゃを自動的に抹殺まっさつします」


 と返事をする。


 そして次の瞬間、虚像天使がいきおいよく走り出した。


「やばい、こっちきたっ!」


 言いながら、理亜がスカートをひるがえしてその場から逃げ出した。芙蓉も彼女に続いて走り出す。だが、虚像天使のスピードは圧倒的あっとうてきだ。このままでは、二人ともすぐに追いつかれて粉々こなごな肉片にくへんへと変えられてしまうだろう。


 背後から地響じひびきのような足音がせまる。


 彼我ひがの距離はあと二十メートルだ。


 後ろを振り返った理亜が、「ひぃ~っ!」と悲鳴ひめいをあげた。


「芙蓉くん、早くなんとかして!」


 全力で走りながら、理亜が芙蓉に話しかけてきた。


「自分でなんとかしてください! エージェントだとか言ってたじゃないですか」


意地悪いじわるしないでよ~! 私、武器がなきゃただの女子高生だよ!?」


 虚像天使はあと十メートルまで迫っている。理亜が両手を合わせて懇願こんがんしてきた。


「お願いっ。なんとかできるんでしょ、私のこと守って!」


 虚像天使との距離はあと五メートル。


 ――はめられた。


 理亜は本当になにもできないらしい。彼女は〈虚像天使〉の存在をはじめから知っていて、芙蓉を戦わせるためにここに呼んだのだ。芙蓉が戦わなければ、二人ともミンチになって人生終了である。全てのやる気を失っていた芙蓉だったが、流石さすがにここで死ぬつもりはない。


「……わかりました」


 立ち止まり、振り返る。虚像天使は目と鼻の先にせまっていて、芙蓉と理亜をたたつぶそうと巨大な盾を振りかぶっている。


 ――この言葉を口にするのは、二カ月ぶりだ。



 芙蓉が短く命じると、虚像天使の真横まよこの空間が陽炎かげろうのようにゆらめいた。瞬間しゅんかん、そこに突然とつぜん現れた黒い巨体が、虚像天使を思いっきりばした。


 ばがん、と大きな音が住宅街にひびわたる。


 虚像天使は勢いよく吹っ飛んで、近くにあった住宅のかべをぼろくずのように破壊しながらおくへと突き刺さった。突風とっぷうが吹き荒れ、芙蓉と理亜の髪がばさばさと揺れる。


「すごい……!」


 理亜がそうらすと同時に、二人の目の前に黒い巨体が着地した。


 片膝かたひざをついたそれは、身長三メートルの黒い騎士きしである。その躯体くたいはアスリートのように引きまり、全体的にスマートだった。しかし、全身に複雑な形状の黒い装甲が組み付いている様は、一見すると映画に登場するSFロボットのようでもある。


 黒い騎士は左肩に大型のよろいそなえた、アシンメトリーなシルエットをしている。するどいマスクの奥では、鋭角えいかくに折れ曲がった天使の輪が、敵をにらみつけるようにぎらりとかがやいていた。


「……久しぶりだね、『ロゴス』」


 芙蓉は目を細めて、黒い騎士に話しかけた。七彩や〈虚像天使〉がいなくなって、しばらく呼び出すことのなかった芙蓉の相棒あいぼう。その姿を再び見ることになるとは思ってもみなかった。


 〈制圧せいあつ躯体くたいロゴス〉――それがこの躯体の名である。


 これこそ、白羽七彩からゆずり受けた『天使の躯体』だった。それも、人間である芙蓉が使用できるように搭乗型とうじょうがたの兵器に改造された、特注とくちゅうの躯体だ。芙蓉は七彩を守るため、一年以上この躯体と一緒に戦ってきた。


 〈ロゴス〉の背がたてに割れる。


 ばらばらと音をたて、後頭部から腰鎧こしよろいまでが半分に割れて、内部の空洞くうどう露出ろしゅつした。コントロール・オリフィス――人間を収容しゅうよう可能な、『操縦席そうじゅうせき』にあたるあなである。


 芙蓉はそこに自分の身体をねじこんだ。


 途端とたんに〈ロゴス〉の背が閉じていき、芙蓉の身体は天使の躯体くたい内部ないぶに完全に収容された。


『きぐるみみたいだね』


 そんな理亜の感想が聞こえた。


 その間も、芙蓉の身体は〈ロゴス〉と同期どうきされていく。両脚、両腕、そして胴体。全ての感覚が芙蓉のものと一体化し、目の前に住宅街の景色が映し出された。背の低い家々に、どこまでも続く青い空――


『芙蓉くん、上、上っ!』


 理亜が言った。


 即座そくざに上を向く。そこに、空中高くびあがった虚像天使の姿が見えた。敵は大盾を振りかぶり、〈ロゴス〉をたたつぶそうとしている。あれをまともに食らったらおしまいだ。


 石像の天使が落ちてくる。


 盾が勢いよく振り下ろされる。


 ――けれど、そんな攻撃はとっくにえている。


 絶妙ぜつみょうなタイミングで身を起こした〈ロゴス〉は、振り下ろされる大盾をすれすれで避けた。そのまま下からすくい上げるような強烈きょうれつりをり出し、虚像天使を空中高くに打ち上げる。


 〈ロゴス〉はげた姿勢のまま、地面へと倒れようとしている。虚像天使は無防備むぼうびに空中高くをい、まだ上昇を続けていた。


「来い、“シェキナー・セヴディス”」


 芙蓉が武器の名前を呼んだ。


 地面へと落ちる〈ロゴス〉の左手が発光し、巨大な黒い大弓が出現する。黒い天使がその弓を引くと、金色の光矢がバレルへと装填そうてんされ、ぎりぎりと音をたてて莫大ばくだいなエネルギーをチャージした。


 〈光弓こうきゅうシェキナー・セヴディス〉。


 智天使ちてんしケルビエルが所有する炎の弓シェキナー、その複製ふくせいバージョンだ。それは高位の天界てんかい兵装へいそうであり、破格はかくの性能を持つ狙撃武装である。


 さらに、芙蓉の武器はもう一つある。


 ――集中して、


 え付けられた『奇蹟きせき』が作動する。まるでアクションゲームの『ポーズ画面』のように、芙蓉は全てを把握はあくした。


 それは〈事象視覚アブソリュート・ビジョン〉と呼ばれる能力だ。次の瞬間に起こりうることをじっくりと吟味ぎんみして、自分が次に起こす動作の準備を完璧かんぺきに整えることができる。いわば敵に気付かれず自分だけ『一時停止』が使えるチート能力だ。


 地面にたおれながら弓を引く〈ロゴス〉。


 空中高くをう虚像天使。


 敵は他にも二体いる。一体は先ほど家屋かおくへとり飛ばした躯体くたいで、もう一体、遠くから〈ロゴス〉をねらう敵がいるようだ。


 剣と盾を持った虚像天使は〈ガナン・タイプ〉。遠くからこちらを狙っている、弓を持った虚像天使は〈トルカン・タイプ〉と呼ばれる。芙蓉はその全ての位置いち関係かんけい攻撃こうげき事象じしょうを完ぺきに把握はあくした。


 〈事象視覚〉が解除かいじょされる。


 止まっていた時が動き出す。


「一体目」


 言いながら、芙蓉はシェキナーを発射する。


 地面に倒れる寸前すんぜんの〈ロゴス〉が、光矢をにぎった右手を開放かいほうした。ぶん、という重低音じゅうていおんり、光の矢がレーザービームのようにかっとんでいく。それは〈ガナン・タイプ〉の胴体を射抜いぬくと、その躯体を一撃いちげき爆散ばくさんさせた。


『きゃあっ!?』


 芙蓉は即座に〈ロゴス〉をこし、悲鳴をあげた理亜を背中でかばった。粉々になった〈ガナン・タイプ〉の破片はへんが、住宅街の路地ろじにばらばらと降り注ぐ。


「あと二体です。すぐに片付けます」


 言いながら躯体くたいを起こす。そして〈ロゴス〉にこう命令した。


「“抜剣アンシース”」


 すると、黒い天使の左肩よろいがばくりと開き、中から直方体のグリップがせり出した。芙蓉はそれを右手でつかみ、いきおいいよく引き抜く。グリップから紫色の光がれて、それはまたたく間にさかる光の剣へと変化した。


 その名も、光剣こうけんケオ・クシーフォス。


 光の剣をたずさえた〈ロゴス〉が立ち上がると同時に、赤い光が遠くでまたたいた。〈トルカン・タイプ〉の狙撃そげきだ。しかし、その攻撃は


『うそ――!?』


 理亜が目を見張みはった。


 なぜなら、〈ロゴス〉が光速こうそくせまった赤い光矢をからである。ばち、とはげしい音がして、光の剣が敵の光矢こうやを打ち落とす。それは超人的な迎撃げいげき能力のうりょくだった。光の速度でせまる矢をはらうなど、どんなに目が良くても不可能だ。


 しかし、芙蓉の〈事象視覚アブソリュート・ビジョン〉はそんな芸当げいとうも可能にする。


「二体目」


 芙蓉は光剣こうけんを放りて、左手の大弓おおゆみを引いた。二百メートル先、住宅街の屋根に陣取じんどっていた〈トルカン・タイプ〉が逃げようとするが、もうおそい。


 発射。


 ぶん、という重低音じゅうていおんとともに、シェキナーから金色のレーザービームが放たれる。それは〈トルカン・タイプ〉の躯体くたい射抜いぬき、ばらばらに爆散させた。


『芙蓉くん、後ろっ!』


 理亜が警告けいこくを発した。


 しかし、芙蓉はその前に敵の攻撃を


 〈ガナン・タイプ〉が背後からりつけてきた。〈ロゴス〉はそれを完ぺきに回避かいひしてから、空振からぶりして無防備むぼうびになった敵のふところするどく踏み込む。そして強烈きょうれつなキックを食らわせると、〈ガナン・タイプ〉は勢いよく吹っ飛んでいった。


 虚像天使が路地ろじを転がっていく。コンクリへいを破壊し、電柱をなぎ倒し、乗用車じょうようしゃを叩きつぶして、〈ガナン・タイプ〉は数十メートル吹き飛ばされた。


「ロゴスの後ろに下がってください、理亜さん。“形態変化フォーム・シフト:シェキナー・フレア”」


 芙蓉が命じると、シェキナーが変形した。


 バレルが展開し、各部がスライドして放熱板ほうねつばん露出ろしゅつする。連射がきかない代わりに火力が増大ぞうだいする、文字通りの一撃いちげき必殺ひっさつ形態けいたい――高火力モードのシェキナー・フレアだ。


 弓を引く。


 甲高かんだか騒音そうおんをたてて、莫大ばくだいなエネルギーがシェキナーに集積しゅうせきする。視線の先には、立ち上がって大盾を構えなおした〈ガナン・タイプ〉の姿がある。


 ――ふいに、七彩ななせと最初に交わした約束を思い出した。


『わたし以外の天使を、殺してほしいの』


 あの時の七彩は必死だった。一人ではどうにもできなくなって、困り果てて、泣きながら助けを求めていた。だから芙蓉は彼女を助けることにしたのだ。


 七彩はいなくなったはずだ。エンドロールは流れ終わって、芙蓉の青春はまくじた。そのはずなのに、今、芙蓉の目の前に〈虚像天使〉が――青春の残滓ざんしがそこにいる。


「……約束は守るよ、七彩」


 誰にともなくつぶやいて、シェキナーを発射する。


 〈ロゴス〉が右手を開放かいほうすると、シェキナーから破壊の光がほとばしった。地をらす重低音がとどろき、あっというまにふくれ上がった閃光せんこうが、進路上の何もかもを破壊しつくす。


 〈ガナン・タイプ〉は構えた盾ごと『蒸発じょうはつ』していた。アスファルトの地面はめくれあがり、焼けげた瓦礫がれきが強風にあおられて乱舞らんぶする。大量の家屋かおくが崩れ落ち、瓦礫がれきがばらばらと落下していく。


 シェキナーの冷却れいきゃく機能きのうが作動し、勢いよく蒸気が噴出ふんしゅつした。


『なに、いまの……』


 振り返ると、理亜が呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。おさげにした髪をぼさぼさにして、ぽかんと口を開けている。


 これが芙蓉の持つ『天使』の戦闘力だ。絶対的ぜったいてき命中めいちゅう精度せいどの〈事象視覚〉と、高位の天界兵装であるシェキナー・セヴディス。七彩を守るため、一年以上この装備で戦ってきた芙蓉にとって、この程度の戦いは日常にちじょう茶飯事さはんじだった。


 〈ロゴス〉をかがませ、「“同期どうき解除かいじょ”」と命じる。


 視界がブラックアウトし、背中側の装甲がばらばらと開いていった。じめっとした空気がはだれるのを感じつつ、芙蓉は自分の身体を〈ロゴス〉のコントロール・オリフィスから引き抜く。そうして芙蓉が地面に降り立つと、黒い騎士きしは光の粒となって完全に消失しょうしつした。


「やればできるじゃん」


 いつの間にか笑顔を取り戻していた理亜が、りてきた芙蓉の背中を叩いた。小さく痛そうな表情をした芙蓉にはかまわず、理亜が続ける。


「実はさ、他の『忘却地区』にも、同じように虚像天使が発生してるんだよね。めんどくさいかもしんないけど、芙蓉くんの力を貸してほしいんだ」


「わかりました」


「そうイヤがんないでさ――はぇ? 今なんて言った?」


 間抜まぬけな顔で聞き返してきた理亜に、芙蓉はゆっくりとこう言った。


「七彩がどうしていなくなったのか、もう一回調べたいです。だから手伝ってください、理亜さん」


 こんなことに意味はないとわかっていた。けれど、ここで何もしなければきっと後悔こうかいする。たとえ終わったエンドロールを巻き戻すだけの行為こういだとしても、何もせずにだらだら過ごすよりはマシなはずだ。


 それに、虚像天使が発生したということは、もしかしたら――


「急にやる気になったね。なにかわかったの?」


 我に返った理亜が、芙蓉に聞いた。


「理亜さんの言った通りです。貴重な青春をだらだら過ごすなんてもったいない」


「――いいね、そうこなくっちゃ!」


 そう言ってにへら笑顔を浮かべた理亜が、スマホを取り出して数回タップする。すると、巨大な黒塗くろぬりのトレーラーがどこからともなく現れ、理亜の背後はいごに停止した。


「これはXEDAゼダの兵器コンテナだよ」


 理亜が言った。


「ここは暑いし、続きは中で話そう。私たちの目的は、この街に起きている異変いへん解決かいけつ方法ほうほうを突き止めて、七彩ちゃんとの関係性を調べること。お互い、知ってることを情報交換しようじゃんか」



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〈近況ノートにて機体やキャラの設定イラストを公開中です〉


・ロゴス

https://kakuyomu.jp/users/kopaka/news/16818093087079406682


・間遠理亜

https://kakuyomu.jp/users/kopaka/news/16818093087079524661

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