第2話 花が花であるように

 空の名を、いつから知ることができるようになったのか、平野ひらのカンナははっきりとは覚えていない。おそらく言葉を覚え始めたのと同時だったのだろう。

 幼い頃はそれを「空の名」だなんて考えていなかった。ただ花が花であるようにその日の空も「おはな」だったし、カエルがカエルであるようにその日の空も「かえるさん」だっただけだ。

 でも成長とともにカンナは「おそら」に「おなまえ」があることを自分なりに理解するようになった。そして語彙が増えるに従って、日々の空が持つ微妙な差を反映して、空の名も精密になっていった。


 それが普通のことじゃないのに最初に気づいたのは母親で、「おそらがうんちんばこだよ」とか「きょうはゴミすてーしょん」とかカンナが言うたびに、きつく叱るようになった。


「やめなさい。おかしな子だと思われるわよ」

「お医者さんに行って、お薬を飲まなきゃいけなくなるのよ」


 本当のことなら何でも言っていいわけではない、ということを理解できる年になったカンナは、母親の前で空の名を口にするのをやめた。父親は寛容だった、というより彼女が何を言ってもほとんど聞いていなかったが、たまに怒ると怖い人だったので、父親の前でも言わないことにした。


 とはいえ、目に映る世界の上半分を覆う言葉を気にせずにいることなんてできるはずもない。幼稚園で、小学校で、多少とも気心が知れると思った友達には、カンナは空の名のことを話してみた。友人たちはそれを何か変わった遊びだと思ったらしく、しばらくは話に乗って、彼ら自身も自分なりの「空の名」を考え出したりもしたけれど、それらはどう考えても全く的はずれだったし、二、三週間もすれば飽きて相手にしてくれなくなった。


「カンナちゃん、まだ言ってるの? それもう古いんだよ?」

 

 おかしいのは自分の目か、頭だ。「特異体質」みたいなものだ。

 そうカンナは思うようになり、中学生になるころにはすっかり内気な少女になっていた。


 内気で言葉に敏感な人々の例にもれず、カンナも読書を愛するようになった。本の中には、日常の中で耳から入ってくるのとは全然ちがう言葉たちがあったし、そこから受け取る意味は自分ひとりのもので、誰かとすり合わせる必要もなかった。

 カンナには、本を書いた人たちが――というより本たちそのものが、「特異体質」の仲間のように思えた。

 中学、高校とカンナは、暇な放課後には図書室の本を片っ端から読んだ。そしてそこから見える空は毎日移り変わっていった。


  ジギタリス

  蝉丸トンネル

  チネチッタ

  大手饅頭

  聖ニコラオス・オルファノス聖堂

  モーラミャイン

  渋谷向山古墳

  ストロマトライト


 制服を着て読書をしていた6年間、一千以上の空の名たちを、カンナは誰にも伝えずに見送った。


 小柄で、物静かで、眼鏡をかけ、髪が長かったカンナを、生徒たちは「図書委員」と呼んだ。本物の図書委員は他にいたのだけど。

 いじめに遭ったわけではなかったし、おとなしめの女子たちのグループには少し話せる相手もいたけど、人に心を開くのは難しく、活発な男子に「なあ、図書委員」と呼ばれたりしたら、曖昧に微笑んで首を傾げてみせることしかできなかった。

 図書室に通うおとなしい男子生徒たちの中には、そんなカンナに好意を持つ子もいたようだけれど、それを打ち明けるには彼らは内気すぎた。

 高校では、おとなしい「図書委員」ちゃんなら「押せ」ば「いける」んじゃないかと考えてかまってくる男子もいたけれど、優しさの裏に卑屈と傲慢が混じり合った彼らの態度の中に、時には暴力性の影がちらりとよぎるのも見えて、カンナにとっては恐ろしく、鬱陶しいばかりだった。


 学校の勉強にはあまり身が入らなかったが、読書のおかげで数学以外の成績はまずまずだったカンナが、実家から離れた大学の文学部を受験したいと言いだしたとき、母親は「文学部」という部分に反応していい顔をしなかったけど、「いいじゃないか、女の子なんだから」という父親の無関心が彼女に自由を与えた。


 文学部になら、似たような「特異体質」の子がいて、何かを分かちあえるかもしれない。今の自分を遠くに捨てて、変われるかもしれない。そこがわたしの場所かもしれない。

 内気なカンナも彼女なりに、変化のきっかけを求めていた。


 そして4月になり、カンナはひとりの男子学生に出会った。

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