羨望の血

稲過 瞬

プロローグ

プロローグ

「……次はどうする?」

「とにかく、この建物の屋上まで上がる」

 ……この狭い路地で囲まれるとまずい。

「了解」

 私は隣にいる彼女の返事を聞くと、先行し階段を駆け上がっていく。

 ここまでの交戦を予想していなかったため、今私たちの装備は人数を相手にできるほど残っていなかった。

「追手の、数は?」

「待って今確認する」

 階段を登る足を止めて、耳に神経を集中させる。

 窓越しに木々が揺れる音、風が吹き抜ける音に鳥の鳴く声、背後にいる彼女の息遣いや衣擦れの音、すべてが鮮明に聞こえる。それらを一切遮断し、追手の音だけを拾うように耳を澄ませる。

「――おい!この建物だ!聞こえるか?俺たちはこのまま追いかける!そっちは他の建物から抑えろ!」

『……了解!』

 私たちがいる建物の入口付近に足音が2つ、使っている通信端末から漏れ聞こえた音に複数人の気配を感じた。

「直接追いかけてくるのが2人。他の建物から来るつもりなのが複数人。追いつかれる前に車を停めた港のところまで向かう」

「了解」

 最上階まで駆け上り、屋上への扉を押し開くと2人で周囲を確認する。

「待ち伏せてるのはいない、このまま車のところまで向か――」

 私がそう言いながら屋上に出ようとしたその時、鋭い音とともに開いた扉へ銃弾が数発、着弾する。

 ……ッ。対岸の建物か……。

 すぐさま身を隠し、銃弾が飛んできた方向へ一瞬顔を出して確認する。

 道路を挟んで50メートルほど離れた建物群の屋上に、こちらに向かって銃を構えた複数の人影が見える。私たちの動きを牽制するためか、射撃は一定の間隔を空けて続けられ止む様子がない。

「これで銃弾を弾きながら、港まで走り抜ける」

 私は担いでいた70センチメートルほどのパイプ状の装置を取り出すと、横に持ちながらボタンを押す。すると上下に透明の膜が展開され、2メートルほどの盾のような形が形成される。それを銃弾が飛んでくる方向に構えると、2人で身を隠しながら扉から飛び出していく。私たちはそのままの勢いで走り続け、建物の屋上から屋上へと飛び移る。その間も対岸の屋上から容赦なく雨のような銃撃を受けるが、透明の盾がそれをはじく。

「……ッ、このままいく」

 盾を支える腕に、重い銃弾の威力が伝わってくる。

 もう港までは100メートルを切ってる。後ろを追ってきている敵との距離もだいぶ離れてるはず……。これなら、振り切れ――

 考えを巡らせながらも足を止めずに走っていると、突如右脚に痛みが走りその場に崩れ落ちる。

 うつ伏せに倒れながら反射的に痛みが走った場所に目をやると、太ももから鮮血が溢れ出していた。

 ――!?

 突然の出来事にひどく混乱していると、遠く離れたところで重い銃声が聞こえる。

 どくどくと鮮血が流れ出る足と横に転がっている半壊した盾の残骸を見て、ようやく狙撃を受けたことを理解した。

「伏せて!!」

 傍で倒れた私を庇おうとする彼女に向かって、言い放つ。

 彼女が伏せてくれたことを確認した次の瞬間、頭上を弾丸がかすめ、遅れて銃声が聞こえる。聞こえた音からするに先ほど銃撃を行ってきた建物の相手よりもさらに遠い位置からの狙撃だ。

 今いる屋上は四方を50センチほど盛り上がった部分と1メートルほどのフェンスに囲まれているそれだけの場所で、遮蔽物はなく、狙撃から身を隠すには伏せているしかない。

 ――それにしても遠距離からこのフェンスの隙間を縫って、走ってる私に当てたっていうの……?しかも盾の弱点になってる接合部をピンポイントで撃ち抜いてる……。

 相手はこれほどの腕の狙撃手を雇えるほどの組織だったの……?足が使えなくなった今、私はどうすれば――いや……今はとにかく奴らから逃げきることだけを考えるしかない。

「今いる場所と1つ前の建物に煙幕を焚く!」

 相手は情報を吐かせるまで私たちを殺すことはできない。その状況で煙幕の中を闇雲に撃ってくることはないはず。

 伏せたままスモークグレネードのピンを引き抜くと、1つは狙撃を受けた方向からの射線を切るようにその場に転がし、もう一方は1つ前の建物の屋上に向かって放り投げる。

 白煙が私たちの姿を隠すほどまで立ち上るのを待ってから上体を起こし、足に応急処置を施して止血をする。

 そうしてなんとか立ちあがろうとしたが、撃ち抜かれたのが太ももだったために、力が入らずまともに立つことができなかった。

 抱えてもらいながら前の建物に飛び移るしかない……。

 その考えを伝えようと横を見たが、傍らに立つ彼女は顔をしかめながら私の後方にある建物の屋上へ視線を向けていた。視線の先を確かめるために振り返ると、私たちを追ってきていた2人がすぐ後ろの建物まで辿り着いていた。

 ……思ったよりも早い。常人ならここまでくるのにもう五分は掛かってもいいはず――そうなると奴らは"脚持ち”か……。

 すぐさまホルスターから拳銃を抜き取ると、座ったままの体勢で相手の急所を狙ってそれぞれに2発ずつ発砲する。

 相手がどう対処するかで力を見極めようとするほとんど様子見のようなものだったが、片方にはあっさりと命中しそのまま崩れ落ちた。もう片方はそれなりの力があるようで、弾丸は命中せず遮蔽物へと隠れられた。

「私を抱えて飛べる?この隙に前の建物に飛び移りたい」

「やってみる」

「お願い」

 情報を吐かせる必要があるから向こうは私たちを殺せない。……大丈夫。そう自分に言い聞かせる。

 相手から逃げる状況にはなっているが、まだ優位な立場だ――ただ、本来なら小規模の敵を始末するだけの任務だった。けれど、敵の組織の状況や規模は事前に取引相手から聞かされていたものとは大きく異なっていて、結果として私たちは撤退せざるを得なくなった。そして、今となっては殺されないというその優位がただ1つの命綱となってしまっている。

 私は相手が隠れた遮蔽物へ牽制射撃を続ける。

 その間に、彼女に私を前から抱くような形で抱えてもらう。この体制なら抱きかかえてもらった肩越しに私が銃で相手を牽制できる。

 私を抱えた彼女が前の建物の屋上へ飛び移ろうと地面を蹴ったその時、遮蔽物の陰から相手が飛び出してきた。

 ……捨て身?堂々と飛び出してくるなんて。

 姿が見えたそばから相手に向かって発砲する。今度こそ様子見ではなく確実に仕留めようとした発砲だった。しかし、相手はその巨体に見合わぬ俊敏な動きで銃弾をしていき、リロードするタイミングを見計らってこちらの建物まで飛び移ってくる。

「……!降ろして!こいつは先に止めないまずい!!」

 彼女の腕から離れ、その場に降りると座ったままで再び銃を構えて発砲する。しかし、先ほどよりも近い距離であるにもかかわらず、そのすべてを躱される。

 こいつ……”目持ち”でもあるの……?でもそうでないとこの動きの説明がつかない。さっきの精度の高い狙撃といい、今目の前にいる複数能力持ちの男といい、ただのギャングではないのが混じってる。大した組織じゃないって説明は何だったの……!?こんなところでやられるわけにはいかないのに……。

「ったく、雑魚の下につくってのはほんと気分が悪りぃぜ。あんなんで簡単にくたばりやがるくせに偉そうに命令しやがって」

 弾丸を躱しつつこちらににじり寄り、相手の大男は独り言のように吐き捨てる。

「まぁ、やっと追いついたしさっさと終わらせるか」

 そう言って目を伏せたかと思うと地面を蹴り、座り込んでいる私に物凄いスピードで近づいてくる。

 私は男が避けられないであろう距離に来るまで引き付けてから再び引き金を引くが、それも軽く体をひねることで交わされてしまう。

 ……!もう弾が……。

 すでに拳銃の残弾がなくなっていたことに気づき、リロードしようとするが、既に目の前まで男が勢い良く迫っていた。

 傍らに立つ彼女が私を庇おうと前に立つが、男の丸太のような腕であっさりと横のフェンスまで払い飛ばされてしまい、勢いがほとんど殺せていない男の蹴りが私に飛んでくる。

 重い……ッ!

 蹴りに合わせて両腕を強化してガードに回したが、それごと身体を後方のフェンスまで蹴り飛ばされる。

「かはっ……!」

 フェンスとの激突によって背中が激しく痛み、一瞬呼吸ができなくなる。

 なんとか追撃に備えようとするが私の身体はそこら中で悲鳴を上げ、立ち上がることはもちろん、まともに身体を動かすこともできない。

 ッ……今ので右腕の骨もやられた……。強化した腕で受け止めてもこの威力か……。

「ディナ!!」

 苦悶の表情を浮かべる私を見て、激突したフェンスからなんとか立ち上がった彼女は怒りの表情で私を蹴り飛ばした相手に向かっていく。しかしこれまでの疲労と受けたダメージからか、攻撃に鋭さがない。

 ……それに、彼女はそもそもこういう肉弾戦タイプとは相性が悪い。本来なら私が相手してるはずの相手だ。

 彼女は攻撃をもらわないように躱しながらナイフを突き立てるが、男は素手でそれらをいなし、蹴りを挟んでくる。

 援護射撃をしようにも拳銃をさっきの攻撃を受けた際に取り落としてしまったため、私は目下の戦況がじわじわと相手に傾いていくのを見ていることしかできない。

 クソ……。どうすれば……。

 アドレナリンによって抑制されていた痛みがどんどんとはっきりとして、思考がまとまらなくなってくる。

「チッ……。やっぱ殺さずに戦うってのは慣れねえなあ。めんどくせえ、まぁ片方が口きけりゃあ大丈夫だろ!」

 そう言うと男は両手を組み、空に向けて伸びをする。そして素早く彼女の懐に入り込むと、先ほどとは比べ物にならない速度で攻撃を仕掛けていく。

 彼女は何とかそれに対応しようとするが、唯一の武器であったナイフを弾き飛ばされ、防戦一方になってしまう。

 そこからは一瞬の出来事だった。気が付くと私の目の前に彼女が倒れこみ、立っているのは相手だけになっていた――勝負がついたのだ。

 相手の四肢の筋肉は服の上からでもわかるほどの異様な膨らみを見せ、ただならぬ雰囲気をまとっており、さっきまでのやり取りは本気でなかったことがわかる。

「ふう~。よぉ、そっちの赤毛!お前は喋れんだろ。聞かせてもらうぜ?お前らの取引についてのこと」

 ……どうする、どうすればこの状況から――!?

「おい、黙ってねえで答えろよ?」

 考えを巡らせていると、突然血管が浮き上がった彫刻のような片腕で首を鷲掴みにされ、相手の目線にまで持ち上げられる。その腕を振り解こうとするが、びくともせず、宙ぶらりんとなった両足をばたつかせることしかできない。

 次第に首が締まって呼吸が苦しくなり、意識が飛びそうになる。

「……わ、たし、達、が……話せることは、何も……ない」

「ハッ、そうか。まぁ端から話す以外の選択肢はお前にねえんだけどな。……さっさと話したほうが身のためだぜ?話さねえってんなら楽には死なさねえからよ」

「誰、が……!」

 眼前に迫った相手の顔を睨みつける。

「はぁ。ったく、めんどくせえなぁ」

 首を掴む握力が緩まったかと思うと、今度は地面に投げ捨てられる。満身創痍の身体では受け身が取れず、重力のままに崩れ落ちてしまう。

「おら、顔上げろ」

 そのままうつ伏せに倒れ込んでいると、前髪を掴まれ無理矢理に体勢を起こされる。

「痛ッ……」

「1つずつ質問してくぜ?答えないようならお前の指を1本ずつ折って――いや、そこに転がってるお前の仲間でもいいか」

 男は私の耳元にまで顔を近づけそう囁くと、ニヤリとロ角を上げる。

 こいつ……。

「……何が聞きたい」

「ハッ、ずいぶんと仲間想いなんだな」

「言っておくけど、たいした情報は持ってない……きっとそっちの組織が持ってるような情報と変わらない――ッ!?」

「いいから黙って俺の質問にだけ答えろ」

 髪を強く引っ張られ、乱雑に地面へと投げられる。少しでも距離をとろうとなんとか上体を起こして後ずさるが、男に詰め寄られ、地面へと仰向けに押し倒されてしまう。

 男は片手で私の両手首を強く掴むと、それを私の頭上の地面に押し付ける。さらに私の胴体へ膝から体重をかけるようにのしかかることで完全に拘束する。

 私は頭上で押さえつけられた腕を動かしたり、身体をひねったりして抜け出そうと抵抗するが、びくともしない。

「お前らが向こうと落ち合う予定だったのはいつ、どこでだ?」

「……」

「いいか?お前は答えるしかねぇんだよ。早く答えねえと――」

 私の首を軽く締めていた男の手が首から離れ、傍らに倒れている彼女の腕に伸びる。

「……1週間後、第3公園。そこで向こうの仲介役と立ち会った後、場所を変えて本人と任務の概要を話し合う予定だった。……だいたい、調べはついてたんでしょ?私たちが来るのもわかって――」

「質問に答えるだけだって言ってんだろ?」

「ッ……!あ、ぐッ……」

 腹部へさらに体重をかけられ、喉元にまで胃液がせり上がってくる。

「それで?いつ頃からそのやり取りは始まったんだ?」

「ハァ、ハァ……ちょうど……1か月前、から」

 のしかかっていた体重が緩まり、なんとか質問に答える。

「……そうか、ハッ。じゃあもう受け取っててもおかしくねえなあ」

「……?」

「なぁ、腕時計型のデバイス、持ってるんじゃねえか?」

「……!?どうして、それを……」

 その情報は向こうにも留意を求められた秘匿事項だったはず……。それを……なぜ知っている?

 デバイスを受け取る瞬間を何者かに見られていたというはあり得ない。そうなると、私たちがこの任務に就く前から知られていたっていうこと……?

「まぁ残念だったな。こっちは前々から念入りに準備してきたんだよ。お前らがあの血を手に入れることは端から無理だったってことだ」

「……」

「見たところ、律儀に腕に巻き付けてるわけじゃあねぇみてぇだが――どこにある?」

「……さあね」

「とぼけても無駄だぜ?あれは奴らと正式に契約を結んだ証で、対面する時には絶対持ってなきゃいけねぇ大切なもんだ。つまりは――」

 首を緩く締めていた男の手が完全に離れ、隠された宝を探すのを楽しむかのように、ゆっくりと分厚い大きな手が私の身体を上から下へ弄っていく――そして、ついにその手が私の腰に巻かれたベルトへとたどり着く。

「――肌身離さず持ってるってことだ」

 男はベルトに仕込まれたデバイスを見つけると、不敵な笑みを浮かべる。

「ッ……!」

 私はデバイスが外部に露出するのを避けるため、細工を施したベルトに仕込んだ上で肌身離さず携帯していた。どこか安全な場所へ保管しておくという手もあったが、一番安全なのは自分自身が肌身離さず持っておくことだと考えたのだ。……それがまさか、初めからデバイスのことを敵に知られていたうえ、敵の手に渡ってしまうなんて予想もしていなかった。

「ふぅ〜。無事にこれが見つかってよかったぜ。……さて。もうお前らは用済みだ。どうやってとどめを刺してやろうか……ククッ」

 男はデバイスをポケットにしまうと私たちを見下ろしながらそう呟く。

「ここ最近は偵察ばっかで、まともに人を殺ってねぇからなあ。銃であっさりってのも味気ねぇ……やっぱ自分の手で殺ってこそだよなあ」

 どうする、どうすれば……。クソ……。

 足の痛みによって思考がまとまらないことに苛立ちを覚えていると、突然電子音が鳴り響く。

「……チッ。これからって時に……間が悪りぃ。――何の用だ?」

 男はポケットから電子音が鳴るスマートフォンを取り出すと、通話を始める。

「――ああ。もうすぐ終わる。こっちは問題ねぇから後のことは任せて、そっちは次の動きに移れ――あぁ?問題ねぇよ。……あ?……だから問題ねぇつってんだろ!」

 男は電話口の相手との口論になっているようで、後ろのフェンスに背中を預けて座っている私を見下ろしてはいるが、たまに目線が外れたり、上の空で口論したりとこちらへの注意が散漫になっている。

 この男、肉体的な強化も含めてフィジカルが圧倒的に優れてる上に、格闘センスも驚異的だ。ただ、相対してると端々に詰めの甘さや油断がうかがえる。

 そこをなんとか突くことができれば……。

 この隙に状況を脱する方法を考えようとしていると、気を失っていた彼女が意識を取り戻したのか身体を起こそうとしていることに気づく。男は通話中も私を視界に捉えてはいるが、先ほどの戦闘で意識を失っていた彼女の様子にはあまり注意を払っていない。

 彼女は痛みに顔をゆがめながら上体を持ち上げると――どうすればいい……?そう問いかけるようにこちらへ目線を送ってくる。

 彼女に後ろから奇襲を仕掛けてもらえば……いや、武器をもっていない彼女にはこの筋肉の塊のような大男に致命傷は与えられない。ここで仕掛けるのはまだ早い。

 私は少し考えてから、男に気づかれないよう軽い手振りと目線、口の動きでその目線に応える。

 彼女は私の考えを理解したのか、小さくうなずいた。

 ……何とかこの状況を切り抜けるしかない。

「――だからそう言ってんだろ?わかったらさっさとおまえは次の動きに移れ!」

 しばらく電話の向こうの相手と口論を続けていた男は、最後には苛立ちを抑えきれない様子でスマートフォンへ向かって怒鳴ると、相手の返事を待たず強引に通話を切った。そして軽くため息を吐くとこちらに向き直る。

「……邪魔が入って悪かったな。さぁ続きだ、どうやってとどめを刺すか……ククッ。お前らに選ばせてやってもいいんだぜ?どうやって殺られてぇ?」

 男はジャケットの内側からサバイバルナイフとリボルバーを取り出す。

「これでひと突きか?こいつでズドンか?強化した俺の蹴りでもいいぜ?それとも……お前らまとめて嬲ってから殺してやってもいいんだぜ?」

 一層凶悪な笑みを浮かべた男はしゃがみ込むとフェンスに背中を預けて座っている私に目線を合わせてくる。

「……なぁ、どれがいい?選ばせてやるよ」

「……黙れ。下衆が……」

「ハハッ。なかなか威勢がいいじゃねぇか。その表情を嬲って歪ませて、最後に頭へ銃弾をぶち込むってのもいいなぁ?」

 男の顔が近づき、吐く息が私の顔にかかってくる。

「臭い息を掛けないで。気持ち悪い……」

 私は適当に言葉を吐き、なんとか男の注意を引く。

 ……これからどう動くかをこいつに悟らせない。

 すでに倒れている彼女は男の斜め後ろの位置、死角に入っている。

「ククッ……。いいねぇ、気に入ったぜ。お前から先にヤってやるよ。いつまで強がってられるだろうなぁ?」

 男はそう言うと武器をしまい込み、私の衣服に手を掛けてくる。

 ――今!

 私はその瞬間にかろうじて動かせる左腕を強化し、男の鼻っ柱に掌底を叩き込む。

「ぐッ……!?」

 男はこの動きを予想していなかったのか、私の攻撃をもろに食らって後ろに大きくのけぞる。

「ってえな……!やってくれんじゃねぇか……!」

 男は激昂し、私を睨む。そして私へ強く殺意を向け、立ちあがろうと膝を立てた瞬間――今度は男が後ろへ大きく吹き飛ばされる。

「ッ……!?」

 意識を取り戻してからも倒れたままで意識のないフリを続けていた彼女が、私が男に攻撃したのを合図に立ち上がると、男の意識外から強化した脚の全力の蹴りを男に食らわせていた。

 彼女は攻撃を仕掛けた後、すぐさま私の方に駆け寄ってくると心配そうに私の身体を気に掛ける素振りをしながら、男に気づかれないようあるものを私に手渡してくる。

「クソ……!テメェ、意識が戻ってやがったのか……!」

 油断していたタイミングで続けざまに攻撃をもらい、男は苛立った様子を見せる。

 ……これでひとまず距離は取れた。でも今の私たちの満身創痍の状態じゃ、こいつとはまともには戦えない。

 私は後ろを軽く振り返り、フェンスを超えた先のビルの下を覗き込む。屋上から地面までは20メートルほどの高さがあり、そこには大量のゴミ袋が積まれているのが見える。

 ……あそこへならここから飛び降りても死にはしない。

「……ハッ、今ので一矢報いたつもりか?そいつの強化した全力の蹴りでも俺には大したダメージになってねぇ。ここでどれだけ足掻こうが、ろくな武器も残ってないお前らに俺は殺れねぇよ。大人しくしてた方が楽に死ねるぜ?」

 男は体勢を立て直しながら腕と脚を強化し、ゆっくりとこちらへ歩いて空いた距離を詰めてくる。

「確かに……今の私たちじゃあお前を始末できない。……それなら、お前を巻き添えに死ぬのもいいかもしれない」

「……あ?」

 男が言葉の意味を図りかねて困惑している間に、私は受け取っていたC4爆弾を強化した腕で男の方へ放り投げる。放り投げられたそれは、男の足元の約1メートル先で に落下する。

「……爆弾!?そんなのどこに隠し持ってやがった!!クソ!!」

 男はすぐさま身体を反転させると、強化した脚で強く地面を蹴り急速に距離をとっていく。

 私たちはその間に、ビルの下へ飛び降りて爆発を躱すため、動けない私をお姫様だっこのように彼女が抱える形でフェンスを乗り越えようとする。

「行かせるかよ!!」

 しかし、男は全速力で爆弾から逃げながらも、振り返りざまにジャケットからリボルバーを取り出し、数発発砲してくる。

「……ッ!」

 弾丸は私の肩口と脇腹に命中し、鋭い痛みが走る。さらに、飛び降りる寸前に私を抱える彼女の背中や腕にも命中してしまうのがわかった。

 それでもなんとかフェンスを乗り越え、完全に屋上から空中へと身を投げると、私は起爆のスイッチを押す。——次の瞬間、物凄い轟音と共に爆風が巻き起こり、衝撃波が周囲のビルの窓ガラスを吹き飛ばしていく。抱えられて仰向けの状態で落ちていく私の視界がビルの隙間と灰色の曇り空を背景に上から次々と飛散し落下してくるガラスの破片やコンクリートの破片などを映す。その中にはフェンスの残骸や大きなコンクリートの瓦礫もあり、押しつぶされてしまえばひとたまりもない。

 ……着地したらすぐに身を躱さないと。

 急速に身体が落下し、衣服や髪の毛が地面と反対の方向へなびいていく。背中が地面に近づいていくのを感じながら一度瞬きをすると、突如私たちの真上に大きなコンクリートの瓦礫が現れる。

 ……ッ!!あれはダメだ、当たれば間違いなく死――

 そう考えが巡った瞬間、背中への重い衝撃とともに落下が止まる。

 もう地面に……!

 私たちの落下が止まり、急速に真上から死へと誘う大きな物体が迫ってくる。

「……マ、リィ、上!」

 身体中が痛む中何とか言葉を発するが、一瞬で目の前にまでその死が迫る。

 間に合わない……。

 私はそう悟って目をつぶる。

 視界が暗転し、全身が激しい痛みに包まれる中、最後に頭部へ鋭い衝撃を感じた後、胴体へ軽く重さが加わるのを感じた。

 ……。

 ……。

 ……。

 ……生、きて……る。

 思うように目が開かず真っ暗な視界の中、意識があることに安堵する。

 だが、意識は残っているが身体が自分のものでないかのようにピクリとも動かない。

 辺りはさっきまでの轟音が嘘のように静まり返っている。

 なんとか状況を確認しようと、辛うじて動かすことができた右の瞼をゆっくりと開く。

 ぼやけた視界の中、最初に飛び込んできたのは、私の身体へ覆いかぶさり、血だらけになっている彼女の姿だった。腕や脚は異常な方向に曲がっていて、肌の下の肉が見えてしまっているところもある。

 ……嘘。……私を庇って?

「……あ"、あ"、マ……ィ」

 私は声にならない声で彼女へ呼びかけるが、彼女は私の胸に顔を埋め、まったく動く様子を見せない。私の限られた視界からでは、彼女の頭頂部や腕、脚の一部しか視認できず、彼女の顔を覗こうにも、身体を起こしてあげようにも私の身体は全く動かない。

「起……き、て……!」

 もう一度声をかけても全く反応をみせない。

 なんとかしてここから動かないと……。

 身体を動かそうとするが、身体は全く動いてくれない。それどころか感覚すらもなく、明らかに負傷している脚や肩などの箇所の痛みも感じない。

 次第に思考にも靄がかかったようになり、うまく働かなくなってくる。

 ビルの隙間から見える淀んだ曇り空を映す私の視界に額から垂れたどす黒い赤色が滲んでいく。

 ……あぁ、私たちはここで死ぬのか。……いや、まだ約束を、使命を果たせてない……。死ねない、こんなところで死ぬわけには――

 薄れる意識の中、私の持つ一番冴えている感覚がこちらに近づいてくる足音を聞き取った。

 それが誰かを確認しようとするが、だんだんと瞼が重くなり、目を開けていられなくなる。そして冴えていた感覚もだんだんと鈍っていき……何も、感じ取れなくなった。


「……あれ、まだ生きてるんだ。……じゃあ、聞き出さないといけないな。……君たちはどっちだろうね?」

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