僕がこの会場に訪れたのは午後十八時頃。

 この断食が始まって三十九日と二十一時間が経った辺りだ。


 ネットで見た宣伝で、『対談』は四十日前に始まったと書かれていたが厳密にはそれは嘘で、広告に書かれていた日付は断食芸人が、断食を始めた日時に他ならない。


 この会場にて二人が『対談』を始めたのは断食開始から四日後からとのこと。

 その後も、断食芸人と飢餓術師は無言のまま微動だにせず、淡々とその『断食』を披露し続けた。この一瞬だけ切り取ったとしても、なんの面白味も無い圧倒的な無芸ぶりである。


 恰幅の良い男が蕎麦を食べに席を立ってから三時間、結局(表面上)は何も起こらなかった。

 恰幅の良い男も一時間くらいでライブハウスに戻って来て、僕の隣にまた腰を下ろしている。

 他には客の出入りも無く、僕と隣の男を除くと、最前列に座る断食芸人達と負けないくらい痩せ細っているように見える年老いた男性と、年齢がイマイチ読み取れない三十~五十代くらいと思われる男女二人組だけであった。


 少数の客に見守られながら会場は二十一時を迎える。断食芸が開始されてから四十日が経過。断食四十一日目に突入だ。


 ――カフカの小説で描かれていた断食芸は通常、四十日で終了のはずだ。

 しかし、これは『対談』であり、恰幅の良い男の言葉を信じるならば代理戦争ですらある。客も、スタッフも、誰も微動だにしない二人を止めようとしない。芸能ですらない断食が誰にも止められることなく深化してゆくのだ。






 事態が動いたのは四十一日目に突入した二時間後だ。


 檻の中の袈裟懸けの老人、断食芸人が口を開いたのだ。


 断食芸人は喉から漏れる音をチューニングするように小さく呻き声を上げたあと、意味が聞き取れる声に変わっていった。


「やはりわからない……」


 ずっと視線を下げていた断食芸人が少しだけ頭を持ち上げ、向かいの人物に話し掛ける。その言葉は、ずっと睨み付けている飢餓術師に対してのものだった。


「断食は苦しい。本当に苦しい……。こんなものを、何故他人にもたらそうとする……? やはり、わからないよ……」


「……苦しいなら、今すぐ食事をとってみてはいかがです?」


 断食芸人の言葉に、フードの下の口元が言葉を返した。

 僕がこの会場に入って、初めて聞いた飢餓術師の声だ。

 断食芸人と比べて、若干若さと張りがある落ち着いたような声だが、やはりその声はか細く、力が無い。断食芸人同様に、流暢な日本語である。


「食べないよ。食べないことが、仕事だから……」

「なら、あなたと同じですよ……。他人を飢えさせるのが仕事です。そして、あなた同様、あなたが断食芸に矜持を持っているのと同様に、飢餓術にプライドがある……」


 非常にか細い言葉の応酬。

 しかし、ステージが静まり返っているお陰でそれはハッキリと聞き取れた。


「同じ……? そうは思えんね」

 断食芸人は皺の中に埋もれたような瞳を少しだけ見開いた、ように見えた。


「断食芸は飽くまで芸人個人の問題。断食をしたいから断食をしている。断食に縁の無い者を巻き込むようなことなどない……」

「こちらは、職業に対する姿勢についての話をしたんですよ……。少なくとも、あなたの断食芸に対する真摯さには敬意を持っています。断食に伴う死のリスク、そして恐怖をあなたは『自分のもの』として慣れ親しんでいる。あなたにとって餓死は、あまりにも身近だ。実際に空腹で死にそうにならないとその境地までは辿り着けない。同様の覚悟とプライドで、飢餓術を極められればと、切に願っています……」

「戦争の道具にそんな矜持があるのか?」


 心なしか力の籠った断食芸人の言葉に、飢餓術師は息切れしているかのような短い断続的な呼吸音を漏らした。いや、これは笑い声らしい。喋ることは出来るけれど笑うのはもはや難しいらしい。


「もちろん、人殺しの技術にもプライドは有ります。兵隊さんとか兵器開発とか、矜持があるから良い仕事が出来るんですよ。そういう職業差別、最近は嫌がられますよ? 社会なり他人なりに求められるから生まれる生業であり、価値があるから研鑽される技術がある。わたしにはね、『飢餓術』しかなかったんです。私の人生と飢餓術があまりにも相性が良かった。飢餓術の才能だけが有り余っていたんですよ」

「……それにしては一時期、栄養管理士のようなことをやっていたではないのか?」


 そう断食芸人が尋ねると、飢餓術師は途端に口を噤んだ。


「金持ちのダイエットの補助や、肥満や成人病の解消のためにアメリカ辺りで活動していたではないか? 飢餓術師も、真っ当にヒトの役に立てるのだなと当時感心したものだがな……」

「あれは、気の迷いでした……」

 飢餓術師は苦々し気に答える。


「若かったんですよ……。人の世の厄災そのもののような技術で人のためになるようなことが出来ないかと模索していて、『第三の騎士』の裏を掻くような飢餓術の応用を模索していました」

「ならば」

「しかしね、やはり無理だったんです……。この技術はあくまで『飢餓』をもたらすためのもので『適度な食事制限』なんかに使えるような生易しいものではありませんでした。呪いの威力を適度に緩めて生活に支障がない程度の空腹を、なんて調節をしても、どうしても、呪いの対象は飢餓に陥ってしまう。最初はダイエットが成功したっていうんで施術相手に感謝されることもあったんですが、むしろそのあと、太る危険性への強迫観念が強まり過ぎて拒食症になって、最悪命を落としてしまうケースが何度かありました。恐らくあれも呪いのせいですよ」

「…………」

「やはりね、本来死ぬべきではない人間を事故のような理由で死なせてしまうのは心苦しいんですよ。黙示録第三の騎士の名代たる飢餓術の力はやはり災いの力でしかないんです。それならば、社会的な合意の上で誰かが手を下さねばならない相手なり組織に呪いを使うしかないという話にしかならない訳です」

「誰かの汚れ仕事を代わりに引き受けていると? 飢餓術を使って」

「そうですね」


 いっそ弾んだような(だが擦れた)声色で返事する飢餓術師だが、断食芸人に向けた鋭い眼差しはずっと固定したままで、声の弱々しさと視線の鋭さがちぐはぐに感じられた。


「君のことは許せないよ」

「はい」

 改めて口にする断食芸人に飢餓術師はじっと視線を向けながら返事をする。


「ヒトを殺める手段に『飢餓』を利用することが許せない」

「はい」

「どうせ銃や爆弾が使われるから代わりに飢餓術を使っているという理屈もわかるし君の自己実現の失敗に関しても同情しないことはない。しかし、飢餓を、飢餓を使うことは許せない。空腹の辛さはよく理解しているつもりだ。だからこそ、それを操って人を苦しめたり殺そうとする人間をどうしても許せないんだ。これには理論的筋立ても正義もなにもない。ただただ飢餓術師が許せないのだ。個人的な怒りだ。殺意ですらある」

「殺意とは……。芸人さんが剣呑な……」

「芸人だからだよ。実際、芸人や芸術家ほど平和を脅かすものを憎んでいる人種は居ない」

「戦争が間近な最中に芸能にお金を落とそうなんて人は居ませんからね。トップミュージシャンが戦争反対とか歌っているのは、呑気だからではなく、切実かつ打算的に、戦火によって自分達の表現の場が狭められることを肌身に感じているからなのでしょうね」

「……支配も、戦争も、死も、芸能にとっては害悪なのだ。いやしかしそれ以上に、いまは、飢餓がただ許せない。他人の、飢餓がそこにあることが、ただ許せない……」


 檻の中の断食芸人は頭を持ち上げていた。

 そして、ずっと睨み付けている飢餓術師の瞳を真っ直ぐ見詰め返した。


「あなたなりに、独りで黙示録に抗うわけか……」


 飢餓術師の声は何故か弾んでいた。


「飢餓に最も親しい者は飢餓を最も憎む者であるというのは、飢餓術師としてはなんとも皮肉な話ですね……」




 


 それから三時間、断食芸人も飢餓術師も一言も言葉を発することは無かった。


 ステージの上の二人も、観客さえも誰も微動だにしなかった。


 僕自身、こんな何も起きない出し物に付き合ってる理由が自分でもよくわからなかった。単に退場するタイミングを失っているだけかも知れないが、次の瞬間何かが起こるのではないかと期待して、ずっと席を立てないでいた。


 午前二時半を過ぎた頃。


 不意に、ライブハウスの中の空気の感触が変化したような気がした。


 空調が効いて清潔に保たれているはずのライブハウス内の空気が、途端に酷く生々しい、落ち着かなくさせるような感触に変わった気がした。


 そして突然、隣の恰幅の良い男が席から立ち上がる。


 僕は驚いてその巨体を見上げる。


 恰幅の良い男の仄暗い瞳はステージの方を真っ直ぐと見据え、なにかを受け入れたようにさらにその昏さをさらに深めているように見えた。


 前の方の席に座っている老人がゆっくりと飢餓術師の方に手を伸ばす。別の席の男女二人組も、よく聞こえない小さな声でなにかしら囁き合っているようだ。


 断食芸人は首を持ち上げ、客席の背後の方に目配せをし、瞬きを何度か繰り返した。


 なにかのサインらしく、客席の背後に控えていたスタッフが慌ただしく動き出した。


 すぐさま、スタッフが二人、ステージの檻までやって来た。片方は檻の鍵を持ち、もう片方はスプーンが入った白い器を持っていた。


 その様子を、飢餓術師は見詰めてはいなかった。


 頭を落とし、先程まで断食芸人に向けられ続けていた視線は床の方に向いていた。


 檻は開けられ、断食芸人の口元に、スプーンで掬われたお粥が近付けられた。


 断食芸人はスプーンのお粥を口に含んだ。


 断食芸人は口に含んだお粥を何度も何度も執拗に咀嚼してから、うなだれ続ける飢餓術師を厳しい眼差しで見詰めながら、静かに嚥下した。












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