さよなら、オウムアムア

エヮクゥト・ウャクネヵル・²テラピリカ

すばらしき日々の途中

 過去の単著二作、『サウザンド・リーヴス』、『ソリチュード』の電子書籍が複数のプラットフォームで配信されていて、印税率は五〇パーセント。売上は二冊とも概ね八千円程度。半分の四千円に一〇パーセントの消費税を足し、源泉税を引く。差引金額が、二冊合わせてだいたい八千円。ほかに、参加したアンソロジー『初恋とロックンロール』の印税率は五パーセント。売り上げは一万三千円程度で、ということは僕の懐に入るのは七百円ほど。

 端数切って八千七百円。三ヶ月に一度やって来る〈原稿料・印税・商品化権・分配印税 支払通知書〉の一番下、「合計」の欄に、だいたいそんな数字が印字されている。一週間分の食費くらいにはなるか。こんな状況がもう一年くらい続いている。コンスタントに売れ続けていることは嬉しいけど、実際問題、収入としては雀の涙だ。

 いくつかのショート・ショートの賞で佳作をもらい、そのうちのひとつの賞を主催していた出版社から声がかかってデビューしたのが三年前。デビュー作『サウザンド・リーヴス』は好調で、出てすぐにアンソロジーへの執筆依頼も入った。

 陰りが出たのは二作目の『ソリチュード』だ。刊行時には担当編集から「気が早いですが、次作もよろしくお願いします!」と威勢のいいメールが入った。その言葉を信じて三作目の執筆に取り掛かったが、編集からの連絡は数ヶ月間なかった。催促するような真似はしたくなかったが、宙ぶらりんの状態で書き続けるのは不安だった。

 原稿の枚数が揃ってきたので一度見て頂きたいのですが、というような内容を遠慮がちに記したメールを出してみると、数日して返信があった。持って回った言い方でいろいろなことが書いてあったが、簡潔にまとめればこうだ。『ソリチュード』は利益が出るほど売れなかった。現状では新刊を出すことはできない。

 僅かな臨時収入としての電子印税。紙書籍の重版なんてもちろん夢物語。新刊の目途なし。主な収入は週五契約で働いてるスーパー、手取りだいたい十六万(家賃引いて十二万)。今年で三十一歳。いつの間にやら小説家の舞台の端に追いやられて、もう足を踏み外しかけてる。かかとくらいは宙に浮いてるはずだ。何しろこのステージは狭い。それに、次々新しい役者が上がってくる。毎年数百人も。

 そして僕はもうここ一年、新しい小説が書けていない。



 きっかけは何だったんだろう。

 ああ、そうだ。五月の雨の夜だった。たぶん僕はいつもみたいに店の弁当で夕食にしながら、弾き語り動画を見ていた。

 二十七のときにバンドをやめて、それ以来ギターの練習はろくにしなくなってしまったけど、アコギでコードに合わせて歌うのだけは好きだった。YouTubeを見ると弾き語り動画というのは無数にあがっているから、それを参考にしたりもする。その日もそうやって、どこまでスクロールしても果てしなく続く動画を見ていたのだ。

 検索結果の動画と動画の間に挟まる、「関連する動画」、「おすすめ」、「ショート」の欄。いつもはノイズでしかないそれらのうちのひとつが、目に留まった。

 縦型配信の動画のようだ。スマホでの視聴に最適化された縦型動画は、フィードに取りあげられやすい。この形で生配信を行うことは、ざっくりと言えば、偶然の視聴者を呼び込む工夫のひとつだ。

 そうして並ぶ縦型配信の、いくつも開いたサムネイルの小さな窓のひとつの中で、アニメ絵風の少女が歌っていた。音はない。実際に動画を全画面で再生しなければ、サウンドは再生されない仕組みなのだ。アイコンを赤い丸が囲んで強調し、その下に〈ライブ〉の文字が提げられている。今まさに生配信を行っているということだ。

 少女は奇妙な格好をしていた。まず目に入るのは不格好なほど大きなキャスケットだ。褪せた黄色のずんぐりしたマチの部分にレトロなゴーグルが巻かれ、その周囲を雑多なワッペンやバッジが彩っている。帽子の腰から零れる髪は明るいブラウンで、結われたおさげが右耳の後ろから肩の前に回り込んでいる。首元には同系色のスカーフが巻かれていて、顔は辛うじて目元から口元までが見えていた。これといって特徴のない、最大公約数的なアニメ美少女だ。強いて言えば、虹彩の細かく描き込まれた青い瞳と、ケーキのアラザンのように鼻筋を飾るそばかすが目を引く。

 首から下では硬い布を重ねたような外套が少女の動きに合わせて揺れている。最も目を引くものはその体の前に掛かっていた。少女の瞳の色と同じ、深いブルーのギター。表面に細かな傷が描き込まれ、その上からステッカーがベタベタと貼り付けてある。そこで配信タイトルにやっと意識がいく。

「3000人耐久弾き語り枠! まだ見ぬ迷い星さんに届くまでうたいます!」

 その下に、〈近江おうみアムア - 'Oumi Amua〉という文字。それが彼女の名前らしかった。近江はかつての滋賀県の国名で、淡海あわうみが変化したものだと聞いたことがある。淡い海、つまり琵琶湖のことだ。

 少女は書き割りの夜空を背景にして歌い続けている。相変わらず音はこちらに届かない。Live2D─一枚絵を様々なパーツにレイヤー分けして動かすことで疑似的なアニメーションに加工する技術─で表情が滑らかに動く。バーチャル・ユーチューバー──VTuber。2Dイラストのアバターを使って活動する配信者。かすめた程度とはいえ、僕も以前にこういうタイプのバーチャル・シンガーを見ていたことがあって、どんなものかは知っている。特に興味を惹かれるものでもない。

 だからこそ、と思う。このとき、歌う彼女のサムネイルをタップしたのはなぜだったのだろう。もっともらしい答えは、そこで僕がGRAPEVINEの弾き語り動画を検索していて彼女がフィードに現れたから、というものだろう。バーチャル美少女とGRAPEVINEの間に一端の繋がりも見いだせない。奇妙なアルゴリズムの気まぐれがどのようによって引き起こされたのか、気になった。理由はそれだけだ。もっともらしくはある。そしてクソみたいな言い訳だ。そうじゃない。本心は違うだろ。あのとき、僕は確かに──奇妙だけれど、彼女と目が合ったように感じたのだ。


 タップした先で配信画面が立ちあがる。同時にサウンドがオンになる。

 まず聴こえてきたのは、ギターのアルペジオだ。一聴して気づく。通常のアコースティック・ギターとは違う。太く朴訥と枯れていて、サステインの少ない音色。金属の鈍くきらめくような響きでなく、木と布を感じさせる丸い響きがある。恐らくガットギターだ。スティール弦を張る一般的なアコギと違い、ナイロン弦を使う。アコギほどの音量は出ないが、その音はガットギターでなければ得られないものだ。

 窓の外の雨によく馴染むような、郷愁を掻き立てるコード進行。ちょうど間奏部のようだ。コードに合わせてハミングする少女の声が、徐々に輪郭を確かにする。不思議な声だった。ハスキーで、やや低い位置でクリップした──平たく言えば、枯れた声。不安定に揺れており、かすかだが複雑なノイズの響きがある。枯れ木を思わせるが、一方で、その幹の空洞の中に……陳腐な表現になるけれど、宝石があるのだ。琥珀のような輝きが。それは、力強く澄んで飴色に光を閉じ込めた、そんな音だ。枯れた樹皮の奥から覗く輝きが、歌声に深さと説得力を与えていた。それは量産型のアニメ美少女のルックとは、まったくミスマッチな声だった。

 琥珀が光を凝縮させるように、声が言葉の形をとる。一瞬のブレイクに、すぅっ、と息を深く吸って、少女は歌い出す。


すばらしき日々の途中 こびりつく不安定な蒼に

全ての声の針を 静かに宇宙で濡らすように

すばらしき日々の途中 こびりつく不安定な意味で

美しい声の針を 静かに泪でぬらして


 取り落とした箸がカーペットに落ちた。でもどうでも良かった。それより、画面から目を離しちゃいけないと思った。実際には、バーチャルシンガーの配信において、アバターのアニメーションなどにあまり意味はないだろう。それでも確かに僕は、目が離せずにいた。

 原曲よりもずいぶんゆっくりとしたテンポだが、だからこそ憂いに揺れる旋律が際立っている。意味のない僕らの救えない程の傷から──ざらりとした声で静かに叫ぶように歌われたその言葉に、急激に鼻の奥が熱くなったのを感じた。熱は瞬く間に目の端まで伝播していく。

 最後のコードをほどくように音を散らばらせて、その余韻が消えてからひと息ついたタイミングで彼女が言った。

「崎山蒼志さんの、〈五月雨〉でした。……ちょっとお水飲むから、ミュートします」

 このとき自分がした行動の理由が未だによく分かっていない。生配信にコメントなんてしたことなかった。以前に見ていたバーチャルシンガー──月里メルクの配信でも、ROM専だった。一言コメントを書くなんて本当に容易なことでしかないが、しかしそこにははっきりとした一線があった。そこまでは深入りしない、そっちにはいかない、というプライドのようなものが僕の中にあった。でもそれを、一瞬忘れた。ただ、何かを書かなければ、と思ったのだ。

〈通りすがりの初見です。歌、すごかったです。大好きな曲で、感動しました〉

 気づけばそんな、愚にもつかないコメントを投稿してしまっていた。

投稿したあとで気恥ずかしくなり、画面を閉じようと思った──そこで、他の視聴者からの妙なコメントが続いた。

〈初見来てるぞ〉

〈アムー! 戻ってこーい! 水飲んでる場合じゃねー〉

 妙だった。こういう配信のコメント欄では、視聴者同士のやりとりはしないのがマナーだ。いや、この場合厳密にはやりとりは生じていないが、にしても、他の視聴者の存在などないように振る舞う、くらいのノリが普通なのだ。そこでチャット欄の上の数字に目がいく。同接、つまりいわゆる同時視聴者数。「34人が視聴中」。

 ぎょっとする。この数字だと、自分の書き込んだコメントの意味が違ってくる。月里メルクのチャンネル登録者数は僕が見ていた当時で五十五万人。歌枠の同接はいつも、だいたい五千人ほどになる。チャンネル登録者数を見ると、同接が五千だけ? と思うかもしれない。でもこれが現実的な数字だ。生配信の常連になるようなアクティブユーザーの数は、登録者数のうちのだいたい一パーセント。VTuberの世界はいまや飽和していて、ユーザーの時間の奪い合いになっている。ひとり常連を増やすことすら簡単なことじゃない。

 五千人もが配信に参加していてコメントをしていれば、一人一人の存在なんて雨の一粒みたいなもんだ。何も気兼ねすることなくコメントすることができるし、自分が書き込んだことの意味なんて考えなくていい。

 でも、ここでは違った。もうその時点でさっさと接続を切ればいいのに、うろたえてしまう。と、そこで更に驚くことが起きた。

「えっと、次、なに歌おっかな……もう二時間半やってるし、そろそろ終わりたいんですけど……って、えっ!? 初見さん!?」

少女が急に大きな声を出す。アバターの目が大きく見開かれ、地球を思わせる青い瞳がくりっと光る。

「え、えとっ、わ、わたしは……わたし、アムです。おうみゅあ、わっ、おうみ、アムア」

〈自分の名前で噛んでるの草〉

コメント欄からツッコミが入る。彼女は続ける。

「ガットギターの弾き語りとかをやってる、宇宙人VTuberですっ」

〈宇宙人ってめちゃくちゃザックリいくやん〉

〈設定ガバガバなの草〉

「……設定とか言うなっ。あ、あの、初見さん……ミカグラさん、ですよね? 来てくれて、ありがとうございます」

 御神楽みかぐら。僕の設定したユーザー名。VTuberが、スパチャ──いわゆる投げ銭コメントでもないのに、一視聴者の名前を呼ぶ。衝撃だった。少なくとも、月里メルクのような企業所属のVTuberであればあり得ないことだ。なんてことだろう。ここは客席じゃない。僕は自分の端末を通して、彼女と向き合わされてしまっている。

 うろたえる僕に構わず彼女は喋る。

「実は今日は、登録者数耐久の配信をやっていて……それで、ですね。折り入ってお願いが……。あの、よろしければ、チャンネル登録をして頂けないでしょうか。見ての通り、っていうか、ここ、わたしの頭の上に出てると思うんですけどっ」

 彼女のアバターの頭上にカウンターが表示されている。数字は、2,999。

「あとひとりなんですっ。もし、わたしの歌、良かったら……」

〈こんなダイマしていくV始めて見たわ〉

〈初見さん……おっちゃんからも頼むわ。この通りや〉


「あっ……3,000! やたっ。ありがとうございますっ」

〈チャンネル登録のカツアゲ〉

〈まぁ朝まで歌う羽目にならんくて良かったわ〉

 コメント欄は辛辣だが、僕はと言えば別に頼まれなくても登録するつもりでいた。

 このときには気付かなかったけど……この数分間で僕は彼女に深く魅了されていたのだと思う。

「そしたら、お祝いは後日で……もう二時間半過ぎてるので、最後の曲、うたいますっ。えと……そう。これ。こんな天気なのでっ。キーは……」

 憂いをたっぷりと含んだコードに合わせて声がハミングし始めた瞬間、空気が変わる。コメントが止まった。先ほどまでの気の抜けた声と似ても似つかない、あの

「よしっ。いけるっ。……えっと、来てくれて、ありがとうございました。初見さんもっ。じゃ、歌いますっ。最後はきょう二曲目のGRAPEVINE、〈風待ち〉」





歌詞引用──崎山蒼志「五月雨」(2018)


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