第5話 気付き②

「俺の夢がまた一つ、叶ってしまった……」

(夢……ささやかすぎませんか⁉)


 また一つ、ということは、ソフィアから愛していると言われること、抱きしめられることも夢に含まれていたのだろうか。


 言ってくれればいくらでもしたのにと思いつつ、ソフィアは前を向き続けた。オーバルが今、どんな表情をしているか気になったが、座ることだけ命令されたため、勝手に動くことはできないのだ。


 膝の上に乗っている存在に全意識を向けながら前を見続けるソフィアの両頬を、温かいものが触れた。それは少しの間だけソフィアの頬を愛でるように撫でると、顔を下に向けさせた。


 視界に、オーバルの顔が広がる。

 念願の膝枕をして貰ってご満悦かと思いきや、彼の表情は曇っていた。


「ソフィア、すまない……」


 謝罪の言葉が吐き出した彼の視線が、ソフィアから逸らされた。頭をテーブルの方に傾けながら、言葉を続ける。


「本当に……すまない。あんな戯言が、守るべき言い伝えとして形を変えて残ったせいで、君の人生を狂わせてしまった」


 彼の発言に、ソフィアの呼吸が一瞬だけ止まる。

 戯言――恐らく、二人が結婚するきっかけとなった、例の言い伝えのことだろう。


(オーバル様は、私に対して罪悪感をもたれている?)


 でも何故?

 ソフィアと結婚しなければならなくなったオーバルが後悔するならまだしも、だ。


 オーバルの視線が再びソフィアを捉えた。口角をあげ、しかし瞳は辛そうに細めながら、それでも彼は無理に微笑もうとする。


「もう少しで催眠術は解けるだろう。せめてその間だけ夢を見させて欲しい。もう二度と君の愛を求めない。ただ夫婦としてそばにいてくれれば十分だ。だけど今、だけ、は……」


 聞いているこちらの胸が苦しくなるほどの、切なる願いだった。

 オーバルの言葉が繰り返しソフィアの中で響き、消えていく。その度に、ジンッと痺れるような熱が、心と頭の中を満たしていく。


「ソフィア、俺の頭を撫でて欲しい」


 オーバルに請われ、ソフィアは彼の髪を優しく撫でた。


 恥ずかしさはない。むしろ逆だ。


 ずっとこの時間が続いて欲しい。

 心の底から相手を求め、触れ合える関係でいたい。


 叶うことはないととっくの昔に諦めてしまった関係を、この先もずっと――


(ああ、そうか)


 心の中の霧が晴れた。

 今までぼやけていた何かが、ハッキリと姿を現す。


 悲しかったのだ。

 辛かったのだ。


 結婚後、侯爵夫人としての役割しか求められないことが。

 愛する人の傍にいるのに、結婚前以上の距離を感じていたことが。


 だから、こんな自分を娶らなくてはならなくなったオーバルに申し訳ないと、今の生活が恵まれているから夫の愛を望んではバチが当たると言い訳をして、苦しみを隠し続けた。


 気づけば、辛い毎日になってしまうから。


 手のひらから彼の髪の感覚が伝わってくる。少しクセがある柔らかな髪質だと思っていたが、撫でてみると意外とコシがあることに気付く。


 彼の胸の上に置いている左手からは、少し速い鼓動のリズムが感じられた。


 いつも冷静で淡々としている彼が、ソフィアの前で酷く緊張している。

 ドキドキしているのは、自分だけではないことに気付き、心の中に湧き上がる熱いものが喉の奥をキュッと締めた。


「ソフィア。最後にもう一度だけ、俺を愛していると言ってくれないか?」


 少し掠れた声でオーバルが請う。


 従わない理由はない。

 今、ソフィアが一番伝えたい言葉を、彼が求めているのだから。


「愛しています、オーバル様」


 初めて彼から愛を口にするよう命じられた時とは違う、はっきりとした声。


 溢れ出た想いが、声色に、表情に滲み出る。気づけば、動かさないように緊張していた頬があがり、口元が緩んでいた。


 オーバルの瞳が大きく見開かれた。ソフィアの微笑みにまるで引き寄せられるように、彼の顔が近づく――


「お兄ー! いるー?」


 突然、遠慮のない大きなノック音と、オーバルを呼ぶ声が部屋の外から聞こえてきた。

 声の主はもちろん、


「め、メーナ?」


 オーバルが慌てて起き上がった。


 ドアとソフィアを見比べ、迷っている素振りを見せていたが、小さく舌打ちをすると、大股でドアの方へ向かう。


 扉を開くと同時に、メーナの大音声が部屋の中まで聞こえてきた。


「ごっめーん、お兄。この懐中時計ね、壊れてたみたいなの。返してもらうね」

「え、壊れてた?」

「あ、大丈夫大丈夫。大したことじゃないわ。この時計、調子が悪くて、放っておくと徐々に時間が遅れていっちゃうの忘れてたの」

「おく、れる?」

「うん。懐中時計の方は九刻半のところに針があるけど、実際は十刻半だから。だからもうソフィアの催眠術は解けているはずよ」

「と、け……?」

「念の為、ソフィアの様子も見たかったんだけど、部屋の明かりが消えてて、寝てるのを起こすのもなーって思って。じゃ、また後日、催眠術にかかったソフィアがどんな感じだったか教えてねー!」

「お、おいっ⁉ メーナ⁉」


 オーバルが呼び止める声も虚しく、ドアがパタンと閉まった。


 部屋に静けさが戻った。


 ソフィアは何も言えなかった。

 ただただ、メーナの発言が頭の中でぐるぐる回っている。


 しばらく放心状態だったオーバルだったが、軋んだ音が聞こえそうなほどぎこちない様子で、ソフィアの方を振り返った。


 そして同じく、軋んだ音が聞こえるんじゃないかと思えるほどのカクカクとした足取りで、ソフィアに近づき、顔を覗き込んできた。


 こめかみ辺りに汗を滲ませる夫が、激しく目を瞬かせたあと、唇を戦慄かせながら言葉を発する。


「……そ、ソフィア。もしかして……催眠術が………解けているのか?」


 ソフィアは目線をツイッと逸らすと、ゆっくりと首を横に振る。

 視界の端で、夫の肩が大きく震えるのが見えた。


「……もっと前から、解けていた……と、か?」


 再び首を横にふるソフィア。

 視界の端で、夫の喉仏が大きく動くのが見えた。


「ま、まさか、実は元々催眠術にかかっていなかった……なんてことは……」

「はい……催眠術にはかかっていませんでした……」

「と、途中で解けた、とかではなく?」

「最初から……です」

「最初から、か……」


 次の瞬間、オーバルが膝から崩れ落ちた。

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