episode.5


 吸血鬼と狼に用意された食事は、共に表面だけを焼いたビーフステーキだ。質の良い肉を使っているのだろう。肉質はきめ細やかで柔らかく、上品な旨味がある。

 ジルには赤ワイン、アズライトには水が用意され、テーブルについてナイフとフォークで優雅に食事をするジルとは違い、アズライトは床でがつがつと肉をほとんど丸呑み状態だ。


 品のない獣と同じものを口にしていることに嫌悪感を抱きながらも、ジルはそれに言及することなく静かに食事をする。

 吸血鬼にとっての食事は血液であり、それでなくては満たされない渇きが確かに存在する。

 人間と同じものを食すのは、長い年月を生きるうえでの単なる暇つぶしだ。

 口にしてみれば案外なんでもそこそこに愉しめるが、やはり血の通っていた肉が好ましい。


 それは狼のアズライトも同じなようで、ビオラは夜の食事に必ず肉を用意する。ジルが食卓につくのは一日一度きりだが、アズライトは年中腹を空かせているらしく、日に何度も食事をするのが普通なようだ。

 だからこそ、魔女が亡くなって以降あまり食事をとらないアズライトのことをビオラは気にかけていた。


 ジルが屋敷に来てから半月ほどの時間が経ったが、心を持たない人形だと思っていたビオラには、どうやら感情というものがあるらしかった。



 * * *



「ビオラ、このバカ犬はいったいどういうつもりだ?」


 ちょうど毛布を手にしたビオラがリビングのドアを開けたところで、ジルは呆れ気味に言葉を投げかけた。


 食事を終えリビングの椅子に座ってワインを嗜んでいたジルのもとに、狼のアズライトが姿を見せたのはつい先程のことだ。攻撃的に鼻先に皺を寄せ、我がもの顔で一番大きなソファに乗り上げ丸くなったかと思えば、数分後には寝息を立て始めたのだ。

 そのうえ気付いたときにはヒトの姿に戻っており、今は素っ裸で眠っている。


「眠ってしまったようです」


 ソファで生まれたままの姿で寝ているアズライトへと優しく毛布を掛け、ビオラは見れば分かることを機械的に答えた。


「警戒してるのか無防備なのかどっちだ。なぜこいつはわざわざ俺の前で寝ている」


「アズライトは、寂しいのだと思います。シレネ様がいらっしゃったころは、常に一緒にいましたから」


「……俺は夜明けの魔女じゃない。捕食者の前で呑気に眠る獲物がどこにいる」


 ジルは眉をひそめると、起きる気配のないアズライトに視線を送る。敵意剥き出しで過ごしていたわりには、寝顔は無垢な子どものように穏やかだ。


「お許しください、ご主人様。アズライトは昼間は寝ていることが多いのですが、今は毎日シレネ様のお墓に通い、夕方まで帰ってきません。シレネ様がお亡くなりになってから、あまり眠れていないようです」


「主人が死んだぐらいで、なにをそんなに悲しむ必要がある。どんなに嘆いたところで、死者は戻ってこない」


 椅子のひじ掛けに肘を付いて頭を支え、ジルは手にしているワイングラスをゆらりと回した。人外であるアズライトが一人の魔女の死に苦しみ、自ら弱っていくのが理解できない。


「……アズライトにとって、シレネ様はたった一人の家族でしたから。アズライトは、シレネ様を心から愛していました」


 ビオラは長い睫毛を伏せ、無表情のなかに微細な憂いを浮かべた。

「愛」などと口にされたところで、それがこの陰気な空気を漂わせる理由にはならない。少なくとも、ジルにとっては。

 

「主人がいなくなって、お前も悲しんでいるのか」


「私の主人はジル・フォード様です、ご主人様」


「……模範的な答えだな」


 淡々と答えるビオラにジルは短く息を吐くと、グラスのワインをあおった。


「もういい、下がれ。必要になれば呼ぶ」


「かしこまりました、ご主人様」


 ビオラは頭を下げると、静かにリビングを後にした。



 壁に掛けられた時計の秒針が短い時を刻む音に重なって、アズライトの規則的な寝息が聴こえてくる。

 ジルはテーブルに置かれたワインを空になったグラスに注ぎ入れた。真紅の液体がグラスを満たしていくのを眺めているうちに、喉の奥が僅かな渇きに疼く。


 夜が深まれば狩りの時間だ。絶え間なく灯る明かりは眠らない人々を呼び寄せ、夜の誘惑は彼らの感覚を鈍く酩酊させる。

 狩りをするのに特別な小細工は必要なかった。なにをせずとも自然と獲物は惹きつけられ、少しの甘い囁きで自ら肌を差し出す。快楽の合間に破った皮膚から溢れる鮮血を啜るのは容易く、微かな痛みすら恍惚に変えるのは吸血の美学だ。


 ジルはシャツの胸ポケットから煙草を取り出して咥えると、テーブルの上のマッチを手に取った。昔から渇くほどに煙草の本数は増えるが、今では吸うのが当たり前すぎてあまり自覚はない。


 ジルがマッチで煙草に火を付けると、ソファで眠っているアズライトが仰向けに寝返りを打って小さく呻いた。臭いに敏感な獣は煙草の煙を嫌い、ジルが吸っているのを見るたびいつも不快そうに顔を歪めている。


『あまり眠れていないようです』


 ビオラの言葉が頭に浮かぶと、ジルは眉を寄せて舌打ちした。火を付けたばかりの煙草を灰皿に押し付け、気怠げに椅子の背に身体を預ける。


「……めんどくせぇ犬だ」


 吐き出した溜め息に紛れて、アズライトが再び苦しそうな声をあげた。悪い夢に魘されているのだろうか、不規則な呼吸の合間から漏れる掠れ声はほとんど聞き取れないぐらいにか細い。

 ジルは冷ややかな眼差しをアズライトへと向け、自分の耳の良さを初めて煩わしいと思った。アズライトの閉じた瞼の端から流れ落ちていく涙が、理由の分からない苛立ちを呼ぶ。


 ──……シレネ。


 罪深い魔女はまるで呪いのようにアズライトのなかに巣食い、すべてを侵食し尽くそうとしている。死してなおその存在を強めるのは、果たして魔女だからなのか、愛と呼ぶ幻想がそうさせるのか。


「……何度呼んだところで、アイツは戻って来ねぇぞ」


 椅子から立ち上がったジルは、眠るアズライトを見下ろした。アズライトが横になっているソファに片膝を付き、涙に濡れた灰色の睫毛を覗き込む。

 目を閉じたときにしか見えない左の瞼に小さなほくろを認め、夜明けの魔女の長い睫毛を思い出した。


 額に薄っすら汗を滲ませ、眉間に皺を寄せているアズライトの首から鎖骨を視線で辿ると、ジルはその剥き出しの肌に顔を近付けた。皮膚の奥で脈打つ血管の律動が、誘うように甘美な香りを放って鼻腔を刺激する。

 夢の中でさえ幸福を得られない憐れな獣にささやかな慈悲を与えるべく、ジルは汗ばむ肌に牙を突き立て、アズライトを不幸な眠りから呼び覚ました。


「いっ……っ」


 困惑したようなアズライトの呻き声が耳に届くと、それに答えるようにジルはより一層牙を深く埋めた。突き破った柔らかい肉から啜りきれない血液が溢れ出し、アズライトの首から鎖骨をつたい落ちていく。


「おいっ……なに、してんだよっ……」


 目覚めたばかりのアズライトの手がジルを引き剥がそうと肩を掴むが、寝起きのせいか弱っているのか、まるで力が入っていない。


「離れろっ、クソ吸血鬼……っ、卑怯だぞ……」


 容赦ない吸血行為は痛みを伴い、アズライトの顔を苦痛に歪める。汚い言葉を吐きながら苦しそうに途切れる声はどこか加虐心を掻き立て、つい加減を知らない獣のように牙を突き立ててしまうのだ。

 温かい血がとめどなく溢れて、ジルの喉を潤していく。肩を掴むアズライトの力が次第に緩むと、ジルは毛布の中へと手を差し入れた。


「は……? ちょっと待て……」


 アズライトの動揺した声が、微かに震えた。毛布の下に隠れた腹部を筋肉の割れ目にそって指先でなぞり、ゆっくりと滑り下りていく。その指先が下腹の茂みを抜けると、アズライトはびくっと肩を跳ねさせた。


「待てっ……やめろ、触るなっ……」


 怯えたように力んだアズライトの身体は、たいした抵抗もないままジルの侵入を許す。筋張った大きな手がアズライトの柔らかな一部を包み込むと、ジルは顔をあげた。


「お前……弱っているだろ。死のにおいがするぞ、自分で気付いているか?」


「なんだよ、それっ……お前が遠慮なく血を吸うからだろ」


「そうじゃない。自ら死を呼び寄せている。このままだと、魔女に連れて行かれるぞ」


「……魔女って、シレネのことか? それなら俺は、別に……って、おいっ! やめろってばっ」


 ジルの手が毛布の中で蠢くと、アズライトは思わぬ刺激に息を乱した。寝起きのためかすでに控えめに硬度を保っていたアズライトの敏感な秘所を、形を探るように下から上へと撫であげる。牙を穿つときの暴力的な振る舞いとは打って変わって、その手の動きは繊細で滑らかだ。


「なんで、そんなとこ触んだよっ……」


「……お前、もしかして女を知らないのか。夜明けの魔女は今まで何をしていたんだ?」


「女……? 俺は、シレネのことしか興味ない」


「お預けでもくらってたのか」


「意味分かんねぇ……頭おかしいんじゃねーのか、クソ吸血鬼」


 頬をほんのり蒸気させて眉を寄せたアズライトを見下ろし、ジルは怪訝そうに目をすがめた。アズライトとの会話が噛み合わない事実に気付いて、唇に付着した血を舐めとる。


「なるほど、この番犬は深窓の令嬢だったというわけか」


「あ? 誰が令嬢だ! 俺は男だぞ!」


「とんだ純粋培養だな。ずいぶん大事に飼われていたようだ」


 皮肉混じりに唇を歪めたジルは、アズライトが男と主張する確信を強く握り締めた。


「っ……うっ」


「もういい。少しおとなしくしていろ」


 アズライトの琥珀の瞳が、不安げに揺れた。まるで本当に子犬のようだと、ジルは視線をアズライトの噛み締めた唇に向ける。

 強がっていても、結局は一人で生きるすべすら知らない飼い犬だ。大事にし過ぎるあまり、死の間際になっても使い魔の契約を解かなかった魔女の落ち度だ。


 ──……この借りは、高くつくぞ。


 細めた視線の先で、ジルはアズライトの露出した喉元に噛み付いた。突然生死に関わる急所を捕えられ、驚きに息を詰めたアズライトの喉が大きく上下する。

 女の肌を貫くようにやんわりと牙を埋めたというのに、今まで痛みを植え付けるだけの吸血を繰り返していたせいか、アズライトの身体は緊張で強張った。


 ジルは怯えた獣を宥めるように毛布の中で掴んだアズライトの形をなぞり、小さくあけた穴から垂れ落ちる血を舌で掬いとる。そのまま愛撫でもするかのように肌に吸い付くと、アズライトは慌てた様子でジルの肩を掴む手に力を込めた。


「は、ちょ、待てって……、まだ飲み足りねーのかよっ」


 なあ、と訴えかけるアズライトの声が、ジルの手の動きによって上擦った。泳いだ視線は目には見えない下腹部へと向かい、毛布の中でなにが起こっているのか、身体の一部を通じてアズライトには手に取るように分かるだろう。


 昂ぶりはじめたアズライトの熱が先走ると、ジルの濡れた手は滑らかな動きでアズライトを追い詰める。


「それ、やめろ……、嫌だっ」


「なんだ、いの間違いじゃないのか」


「ふざけんなっ、も、離せって……」


「……いいから、出せよ。すっきりできるぞ」


 低く甘い誘惑にアズライトは屈辱に満ちた顔を背けると、弾む息をこらえるように唇を噛んだ。

 込み上げる快楽に耐え抜く姿はジルにとってただただ愉快で、下唇に滲む血へ視線を向ける。


「ばかだな、お前は。それじゃ舐めてくれと言ってるようなものだぞ」


 アズライトの顎を掴んで血が浮き出る唇を舌でなぞると、いよいよ切羽詰まったような息が漏れかかる。

 そのあとはもう、たいした手業も必要なかった。苦しげな声に合わせてアズライトは小さく腰を浮かせると、ジルの手の中をどろりとした白濁で満たした。

 室内には荒い呼吸だけが響き、解き放った熱はアズライトの肌を紅潮させていた。


「お前、最後に抜いたのいつだ?」


 ジルは手から垂れ落ちる体液を舐めとりながら、余韻に微睡むアズライトを見下ろす。


「これからは定期的に抜いとけよ。溜め込んでっから陰気臭くなる」


「なんだよ、それ……訳わかんねぇよ、クソ吸血鬼……」


 覇気のない声で悪態をつくアズライトの顔に手を翳すと、ジルは口の端を吊り上げた。


「──もう寝ろ。悪い夢は見ない」


 琥珀の瞳が、ほんの一瞬大きく見開かれた。ジルの手がアズライトの瞳を覆い隠すと、まるで魔法にでもかかったかのように、アズライトは深い眠りの世界へと沈んでいった。

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