第6話 冀う君



「……あれから何年?」

「え? 五年だが」


 言い忘れていただろうか。ディノが驚愕に軽い戸惑いで返すと、女ははっと表情を変えた。

 失われていたものを見つけたような、予想もしなかったものを見出したかのような。

 ほんの微かに甘い香りを感じる――感じた気がした。

 朱色の目が彼を見つめる。

 美しい顔はその時、青光の加減か少しだけ泣き出しそうにも思えた。

 彼女はけれど、どこか不可解なその変化について直截的に語ることはしない。代わりに重い朱色の目を何度かまたたかせると、話を戻した。


「手を貸すことはできるわ」


 その言葉にディノは安堵する。けれど彼が肩の力を抜いてしまう前に、女はあわてて付け足した。


「ただ、私のお願いも聞いてもらえる?」

「それはもちろん」


 即答すると、彼女はいくらか驚いたようだ。ぽかんとした後、ややあってはにかむ。


「じゃあ……三つ」


 ディノは頷いて先を促す。彼女は「お願い」と言うかもしれないが、彼にとっては当然叶えるべき対価だ。

 彼女は開いたままの地図を指さす。


「一つは、私に外の世界を見せて。この島から出たことがないの」

「分かった。大陸神殿に許可を取る形だろうか」


 即答に、今度は彼女も驚かなかったようだ。「要らないわ」と軽く返した。


「ここにいるのは私の意志だから。自分一人で外を回るほど外の世界に強い感情を持っているわけではないの。でも、外を見てみたいわ。私にはそういう思い出が必要なんだと思う」


 遠く、ここにはないものを探すように、彼女は円形の部屋を見回す。

 彼女がどんな理由で居場所を決めているかは、彼女の個人的なことだ。「何故」を聞く必要はない。肯定だけ伝わればいい。

 ただ女は、それでは個人的過ぎると思ったのか遠慮がちに付け足す。


「どのみち《神遺城》を探すには各地を回らなければならないわ。近づけば見えなくても私には分かるけれど、近づかないといけないから」

「ああ、そういうことか。問題ない。次の条件を言ってくれ」

「条件って……」


 彼女は頬を膨らませたものの、咎めるまではいかないらしい。


「二つ目は、《神遺領域》からはぐれた神獣を見つけた場合、それを狩ること。これは《神遺城》その神獣に限らずのことね。私は今まで他の《神遺領域》の動向を知ろうとしてなかった。望まれてなかったから。でも、あなたの国みたいなことが起きたのなら、やっぱり放っておかないほうがいいと思う。神獣は領域を出てはいけない……それを侵したのなら、処分は必要だわ」


 ゆっくりと、言葉を選びながら彼女は言う。

 使命感と言うには静かなそれは、自然の在り方を行使するようにも思えた。在り方を外れたものは淘汰される、それをした方がいい、という言説。

 不思議な物言いだ。けれど神獣に対してそれを言える人間がいるのだとしたら、神獣について唯一きちんと知識がある彼女しかいないのかもしれない。

 一つ目よりもずっと口を挟む余地がない問題だ。ただ「彼女に言われたからやる」というのも違うだろう。彼女は彼女の理由でそれを願い、彼は彼の理由で受ける。そうでなければ。


 朱色の瞳がディノを窺う。


「できる? 領域外でも神獣の危険さには変わりがないわ。ただ、これができないなら、どのみち《神遺城》に入るのは自殺行為よ」

「やろう。もとより神獣と戦うつもりはあった」


 蟲以外の神獣と戦うことはあるのだろうかと思ったことはある。それが現実味を帯びたというだけの話だ。「存在すべき領域を越えたから」と説明されれば、そこに納得が加わる。

 女は「ありがとう」と小さく笑った。


「じゃあ最後の一つね。――あなたは、私に愛されてくれる?」


 前の二つと同じ調子で切り出された「お願い」を、ディノは聞き返したりはしなかった。

 無言のまま疑問に思っただけだ。

 条件であるなら「私を愛して」というのではないだろうか。聞き間違いだとして、自分はきちんとそれを叶えられるか考え始める。彼は先に確認する。


「もう少し詳しく教えてもらっても?」

「誰かを愛したいわ。あなたは何も返さなくていい」

「聞き間違いじゃないのか」

「何のこと?」

「逆かと思った。人をどう思うかに相手の許可は要らない」


 そして、相手に自分をどう思わせるかも、本来的にはきっとできない。だが、それが条件であるなら叶えようとは思ったのだ。

 女は戸惑いを見せる。


「そうなの? でも、先に聞いておこうと思って」


 彼女の言い分はまるで人付き合いをしたことがない人間のものだ。

 そもそもここまで降りてくる相手がいないのだろう。ディノは、自分が来てしまったことを申し訳なく思う。ただそう言っても彼女には伝わらないだろうから、もっと簡潔に。


「愛情は、相手を決めてから注ぐのではなく、相手を評価するに足ると思った時に注げばいいのだと思う。俺は……多分、足らない」


 何が足らないのか、というなら何もかもだ。自分はもう、人の中で生きていくには欠け過ぎている。

 人らしい善悪も、気遣いも、愛しみも、忠誠も。あの夜にひしゃげて、似て非なるものになってしまった。今の自分は、人間という生き物ではあるが、人には足らない。

 そんな自分に愛情を、というのは恩に仇で返すことになると思う。

 しかし彼女は苦笑しただけだ。


「それなら、あなたは評価に足る人間だと思う。あなたが嫌じゃなかったら、だけど」

「嫌というのとは違うが。見合わないと思っただけだ」


 更に詳しく自分の引け目を説明しようとして、けれどディノは、そのこと自体が出された「お願い」を守れていないと気づく。彼女の感情は彼女のものだ。ならば「自分は好意には見合わない」と固辞するのも、彼女の感情を動かそうとする行為だ。

 だから、今言うべきは一つだ。


「大丈夫だ。好きにしていい」


 彼女は眉根を緩めた。連想したのは、迷い子が家の灯りを見つけた時の顔だ。

 女の手が差し伸べられる。


「じゃあ私に愛されて。無条件に、何も思わなくていいから」


 執着を冀う。

 青白く照らされる右手。その時彼は一瞬だけ、理由の分からぬ理解しがたさを覚えた。

 忌避感というほどではない。ただ決して埋められない断絶に似たもの。

 初対面の人間同士が感じるよりも、その亀裂は遥かに小さく、遥かに深い。もしかしたら彼女はそうであることを知っていて、だから変わった「お願い」をしてきたのだろうか。

 名前のない感情がディノをよぎる。了承の言葉はすんなりと出てきた。


「分かった。問題ない」


 これで三つ全てだ。ディノは彼女の手を取る。女は、体重を感じさせない軽さで繋いだ手を頼りに立ち上がった。

 水の中に立つ彼女は初めの印象より背が高い。すらりとしていて、一羽で水辺に佇む白い鳥を思わせた。ディノは彼女の名を呼ぼうとして、まだその名を聞いていないことに気づく。


「あなたを何と呼べばいいだろうか。名前を知らない」

「名前は、」


 女はそこで溜息を落とす。血の気の薄い唇が軽い嫌悪感に歪んだ。


「名前はリュミエレ。リュミエレ・ノーファ。でもあまり呼ばないで。自分の名前は好きじゃないの」

「気をつける」

「呼んでもいいわ。絶対呼ばないでなんて無茶だから」


 リュミエレは、そこで何かに気づいたように笑う。


「私たちこれから、お互いを試す旅をするのね」


 彼女は、彼の力量を。

 彼は、彼女の《神遺領域》に対する知識を。

 試しながら《神遺城》を探して旅する。




 外に出る時はあっさりしたものだった。潜るより上に上がる方が楽だったからだ。

 彼らは二人ともびしょ濡れになって、そのまま大陸神殿を出た。

 白い広場と、その先に広がる雲海が見える。リュミエレの指が雲の只中を指差した。


「ほら、あれ」


 言われた直後、遠い雲の中から金に光る巨大な蛇が泳ぎ出る。翼を持つ蛇は日の光を受けてきらきらと煌めきながら悠然と雲の上を泳いだ。そしてまた雲の中に消える。


「あれも神獣なのか?」


 ディノの口から零れたのは素直な感嘆だ。

 あんな生き物は初めて見る。単純に驚いたし……美しかった。

 そんな反応に、彼女は楽しそうに声を上げて笑う。


「いいえ。あれは神々がいた時代から残る生き物。保護される必要がなかったから神獣にならなかった、世界にただ一匹だけの翼蛇」


 淡い夕焼け色の髪から、透明な滴が零れる。


「だから、心があるの」


 リュミエレがその言葉にどんな感情を込めているのか、ディノには分からない。

 分からないまま、それを良しとして彼は進む。


「あなたの支度は? 私はすぐに出られるけど、あなたは一度ここを出てしまうと滞在日数が消えてしまうわ」

「俺もすぐに出られる。大丈夫だ」


 目的と手段が逆になることはない。功績を三年という形で評価してもらったことはありがたいが、ここでの目的は終わった。

 ようやく始められる。あの夜の続きを。


「行こう――ああ、と」


 変に口ごもってしまったのは、「名前を呼ばれるのが好きじゃない」と言われたのを思い出したからだ。さっそく呼んでしまうところだった。

 リュミエレは、そのことを察したらしく微笑む。


「呼んでもいいわ」

「大丈夫だ。俺が呼ぶ相手はどうせあなただけだ」

「あ、そうね。でも『あなた』は少し遠い、かも? もっと近い呼び方はない?」

「近いものは特には……誰のこともそう呼んでいるんだが」


 言ってからディノは、それでは「リュミエレだけを呼ぶ」と言った前言と矛盾していることに気づく。厳密には矛盾していないのだが、そう聞こえることは確かだ。

 彼は、少しの気まずさを感じながら言い直した。


「なら『君』と」


 そんな風に他人を呼ぶのは落ち着かないが、これが彼女の名の代わりだ。

 リュミエレは「君、ね」と口の中に聞いた言葉を転がす。


「ありがとう。私をそう呼ぶのはあなただけだから、すぐに分かるわ」


 そう笑った女の横顔は、百年後から振り返るかのようにひどく淋しげなものだった。

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