第7話 思い出


 大陸神殿から降りる手続きはあっさりとしたものだった。腕輪を返却してそれで終わりだ。

 リュミエレを連れて降りることについても、何も言わなれなかった。神殿一階受付にいた神官もそうだったが、彼らはまるでリュミエレが見えていないかのようだ。

 ただ船頭には「ああ、人を探しに来たのかい」と言われたので、自分だけにしか見えないわけではないようだ。

 浮舟から降り立ち緑の草原の前に立つと、彼女は感慨を含んだ声を上げた。


「これが――」


 そこから先に続く言葉はなんだったのか。彼女はそれをのみこむ。

 リュミエレはしばらくそうして広がる景色を見ていたが、とりあえずは満足したのかディノに視線を移す。


「ごめんなさい。お待たせしました」

「気にしなくていい。ここからかなり歩くことになるが構わないか?」


 今回は、大陸神殿に滞在することを想定して馬で来なかったのだ。最寄りの町までは歩いて二時間ほどだ。ずっとあそこに閉じこもっていた彼女には少し負担が大きいだろう。ディノはいざとなったら自分が彼女を背負うつもりで街道を指差した。


「あそこを行って最寄りの町に行く、そこから先は街道が分岐する、という風になっているんだが、希望はあるか?」

「ないわ。でもどう領域を探すかは先に言っておく」


 彼女は自分の首に提げている黒紐を外す。その先には小さな透き通る筒のようなものがついていた。


「水晶?」

「そう。笛なの」


 彼女は手に持った紐を、勢いをつけて回す。笛の中を空気が通って、ひゅん、と高い音が鳴った。彼女はそのまま二、三度笛を回す。


「不思議な音だな」


 決して大きくはないのに、体の中を突き抜けていくような不思議な音だった。

 リュミエレは元通りそれを首にかけなおす。


「これは半径三万ハドルに届いて、範囲内に《神遺領域》や神獣がいれば反応が返ってくるわ」

「……ああ、それで神獣や《神遺城》を探すのか」

「そう。《神遺城》は移動することができるから、入れ違う可能性もなくはないけど、そう移動速度は速くないわ。しらみつぶしにやっていけば見つけられると思う」

「地図を塗っていくか」


 ディノは荷物から世界地図を取り出す。現在地は地図のほぼ中心、やや北東よりだ。そこから縮尺を計算して、彼は木炭ペンで地図上に丸を描いた。リュミエレが横から覗きこんで確認する。


「そんなことができるのね。すごい」

「一人で旅をしてきたからな。こうやって確認していこう」


 塗られた範囲は、残る部分からすると三百分の一くらいだろうか。三万ハドルを移動するには早くて三日だ。最短三年ほどで地図を網羅できるが、移動も毎日が同じように真っ直ぐ進めるとは限らない。その二倍か三倍は見ておいた方がいいだろう。


「……十年か」

「長過ぎる? 付き合えない?」

「付き合ってもらうのは俺の方だ」


 一瞬、「十年の間、戦う力が維持できるだろうか」と迷ったが、それくらいならまだまだ現役のはずだ。むしろこれからようやく神獣が捜せるというのに、そんなことを不安がるのは覇気がない。


「ちなみに、今ので反応は?」

「ないわ。移動しましょう。――ああ、どういう経路を使うかはあなたが決めてくれる? 私はこの世界のことを地図上でしか知らないの。そんなわけないのだろうけど、平面だとさえ思っているわ」

「ああ、高低差が意識にないのか」

「山や川もね」


 確かにそれを考慮されないのは困る。ただ「自分は考慮できていない」と自覚して教えてくれるのはありがたい。


「ではまず街道上を。町で専用の支度を整えてから、近隣の街道のない場所に踏み入ろう」

「分かったわ」


 二人は並んで歩き出す。ディノは歩幅の狭い彼女に合わせて歩みを遅くした。

 リュミエレは地上を行くことが楽しいらしく、きょろきょろとあちこちを見回している。それでも道を逸れたり足を止めようとはしない。彼の目的に合わせてくれている。

 緩やかに蛇行する道。大陸神殿の分所が丘の向こうに見えなくなってからしばらくした頃、リュミエレは問うた。


「あなたのことを聞いてもいい?」

「構わないが、大体は話した」


 あの夜のことも、この五年間のこともだ。何をして何をしていないか意識できる限り話した。

 けれど彼女は首を横に振る。


「そうじゃなくて。あなたが幸せに暮らしていた頃。その頃の話を聞きたいわ」

「幸せに……」


 それはいつのことか。定義するなら簡単だ。マイアスティと一緒であった頃。

 彼女が生まれて死ぬまでの間が一番幸せだった。それより前のことはもうほとんど覚えていない。彼は目線を足下に落とす。


「主君と共にいる時が一番幸福だった。当たり前のことだが」

「どんな人だったか、聞いてもいい?」


 街道の先から、老いた男と小さな女の子の二人が歩いてくる。ディノ達は無言で彼らに道を譲った。祖父と孫娘らしい二人は軽く頭を下げて分所のある方へ歩いていく。孫娘が祖父を労わる声が聞こえる。


「あの方は……慈しみに満ちた方だった。子供の頃からずっと俺よりも多くのことを分かっていらっしゃっていた」


 彼女の記憶は色褪せない。ディノは草原の緑に混ざる白い小さな花を見やる。


「……あの方が七歳の頃、よく同じ窓の外をご覧になっていることがあった。俺はそれが、城壁の途中に小さな花がいくつか咲いていて、それをご覧になっているのだと気づいた」


 マイアスティが授業を受けている部屋だった。彼女は休憩時間によく窓の外を見ていたのだ。何度目かで、見ているものは花なのだと気づいた。


「それで俺は、何色の花が好きなのかと伺った。そこには何種類かの花があったから。あの方は『白だ』と仰った」


 マイアスティは気づかれたことで照れくさそうに笑っていた。その笑顔を見て、もっと喜ばせたいと思ってしまった自分は本当に子供だったと思う。


「俺はその日の夜、一人で城壁を登った。できそうだと思う驕りがあったんだろう。そして白の花を摘んで、翌日にその部屋に飾った。あの方は驚いて、俺に『ありがとう』と言ってくれた。花はあの方が自室にお持ち帰りになった」

「素敵な話ね」


 優しい感想にディノは苦笑する。


「この話には続きがある。あの方はそれから、窓の外をご覧にならなくなった」


 さりげなく、けれど確かに。マイアスティは花を見なくなった。ディノはそのことに気づいて、ようやく自分の短絡さに思い当たった。


「花を摘んではならなかった。摘まれた花は数日しか持たない。あの方は、城壁にたまたま咲いた花にそれをしてはならないと思っていたんだ。でもあの方は、自分のために民がした厚意を無碍にすることもなさらなかった。だから笑顔で受け取って、以後花を見なくなった」


 幼い彼女は、その時点で既に大人だった。女王になる者として完成されていた。


「俺はあの方に自分の至らなさを謝罪したよ。あの方は『自分こそ言葉が足らなかった』と仰って、それからあの方はまた窓の外をご覧になるようになった」


 そんな思い出がたくさんある。マイアスティは彼よりも賢明で、ディノは後からその心を知ることも多かった。自分の至らなさを謝罪したこともある。ただ彼女は「自分と同じになる必要はない」と笑っただけだ。

 女王になるマイアスティは人とは違う。臣下であるディノが彼女と同じ視野を持たずとも考え方を持たずともいい。ただ主君に忠実でなければ。

 だからディノは、マイアスティの一挙一動に注意を払うようになった。あの夜もそうだった。


 ――たとえば、ああならない選択は自分にあったのだろうか。

 それを思い返して、辿りつくのはいつも同じ結論だ。「おそらく、なかった」。

 あの門を逃走経路に選んだのは、他の門が既に蟲たちに制圧されていたからだ。

 城や他の場所に隠れることも別の死を招いただけだ。アランディーナは街ごと燃えた。隠れているうちに火にのまれて逃げられなくなっていただろう。

 幼い兄妹と出くわさずとも、彼らを見捨てていたとしても、結果は同じだ。

 あの蟲は門の外にいた。逃げようと門を出たところで捕まっていたはずだ。

 だから自分にはあの結果しかない。あれしかなかった。それが自分の限界なのだ。


 ディノはうつむきがちな自分に気づくと顔を上げる。

 天を仰いで広がる雲海。あの上を泳ぐ金の翼蛇を思い起こす。

 美しいもの、不思議なものを見ると、「マイアスティにも見せたかった」と思う。それはこの先増えることはあっても、減ることはない。


「いい主君ね」

「ああ」


 道は続く。



                 ※



 最寄りの町に着くまで、リュミエレは何度か笛を振っていたが反応はなかった。

 町に着いたころには日が沈みかけていて、二人は宿を取ると食事を取る。

 リュミエレは物珍しげではあったが、子供のようにはしゃぐことはなかった。ただ時折あのあどけない目で周りを見ていることがあって、幼子のようだと思う。


「あら、ずいぶん綺麗なひとを連れてるね」


 食堂で、皿を持って来た女将がリュミエレを見て感心顔になる。この食堂にはディノが分所を訪ねる度に寄っている。そう回数は多くないと思うのだが、人の顔を覚えるのに長けているらしい。リュミエレは微笑んだ。


「しばらく旅をするんです。よろしくお願いします」

「こちらこそ」


 愛想よい女将は二人のテーブルを離れると、次々新たな皿を持って他も回っていく。

 リュミエレは、肉に甘いソースがかかったものを一口食べて目を丸くした。


「おいしい」

「ここの肉は柔らかいんだ。下ごしらえに秘密があるらしい」

「かかっているのが赤いのは木の実?」

「多分な。料理には詳しくないが。すまない」


 彼女に外の世界を見せるという約束なのに、案内人としては力量足らずだ。

 けれどそんなディノの言葉に、リュミエレはおかしそうに笑った。


「あなたが謝ることじゃないわ。知りたかったら自分で聞くもの」


 そう言ったリュミエレは、食事が終わると「また明日ね」と彼に挨拶して女将のところに向かった。ソースの作り方を聞くつもりなのだろう。好奇心旺盛な旅の連れを心配しないわけではないが、この食堂は宿の一部だ。放っておいても平気だろう。

 ディノは一人、部屋に戻ると寝台の上に横になる。


「神獣か……」


 今日一日は転機の日だった。夢も見ずに寝られそうだ。

 疲労は既に体の一部になっていて疲労と意識できない。ただ重みだけはずっしりと体の中にある。眠る。眠くなる。燃える街の中で、誰かの手を引いて走る夢を見る。蟲が追ってくる。蟲が。彼女の悲鳴が聞こえる。でも振り返れない。走る。走り続けるだけだ。彼女が食べられる箇所が、少しでも少なくて済むように。

 ああ、でも――


「っ、」


 飛び起きる。

 熱い。全身に汗をじっとりとかいていた。

 辺りは真っ暗だ。まだ真夜中のようだ。

 見ていた夢はどんなものかよく覚えていない。彼は額を拭うと乾いた喉を鳴らした。

 熱を振り切るように、彼は部屋を出て食堂に降りる。幸いそこにはまだ女将がいた。


「あら、どうしたんだい」

「水を一杯売ってくれるだろうか」

「いいよ」


 陶器に入ったぬるい水を、女将はすぐに出してくれる。硬貨を払ってそれを飲み干すと、ディノは幾分落ち着いた。女将はその間、厨房の片付けをしていたが、ふっと思い出したように言う。


「そういやあんたの連れの子、変わった名前だね」

「変わった?」


 ディノはそう思わなかったのだが、リュミエレがわざわざ「自分の名が嫌いだ」というくらいだ。何かある名前なのかもしれない。怪訝に思う彼に、女将は皿を片付けながら笑う。


「リュミエレ・ノーファって言えば、古い歌姫の名だよ。あんたが生まれる前には死んでるけどね」

「そうなのか。知らなかった」


 元より本名ではないのかもしれない。ディノはそう軽く受け取り、部屋に戻る。

 そうして眠り直した後はもう、夢は見なかった。

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