見習い小説家です。そのお話、聞かせてください。
梁瀬 叶夢
プロローグ
梅雨明け特有のジメジメとした蒸し暑さが夜のしじまに漂っている。その静けさの中、タッタッタッと一定のテンポで足音が小さく響いていた。会社員、小林祐哉(こばやし ゆうや)はいつものランニングコースを黙々と快調に走っていた。
ここまでのタイムは17分24秒。この先およそ750m先にあるラップポイントでの最高記録が19分32秒だから、さらにペースを上げればラップタイム、さらには最終タイムの記録更新が狙える。
呼吸、足の運び、腕の振り。全身の神経をくまなく集中させ、テンポよく一歩一歩力強く地面を蹴っていく。
仕事に追われてまともにいろんなことを楽しめない日が続く中で、気晴らし程度に始めたランニングが、いつしか小林にとって一つの生きがい、そして人生の彩りとなっていった。モノクロだったはずの社会が、とても色鮮やかに輝いて見える。
ランニングを始めてからというもの、営業の功績が飛躍的に伸び始めた。いつも、営業成績は下から数えた方が圧倒的に早かったのに、ここ数ヶ月は成績上位を維持。しかも一位を二回も達成した。
その時に気づいた。自分に足りなかったのは気晴らしだったんだなぁと。少しでも成績を上げなきゃ上げなきゃ、と強迫観念に囚われていたから視野が狭まって、営業もうまくいかなかった。
やっぱり心の余裕は大切だ。そう強く感じる。以前のように仕事だけが頭の中を支配していた時と違って、趣味のことにも時間を割けるようになった。
毎日走る度に昨日との違いを分析し、成長していく。それを感じるのがとても楽しく、充実していた。
そうして順調に走っていた小林の背中に、突如悪寒が走る。今時刻は午後10時だが、気温は28度、湿度83%と日中の暑さが残っていて、しかも走っているのだから決して寒くなることはないはずだった。
熱中症だろうか。いや、毎年何回か熱中症になったことがあるが、もっと気怠く体内からどんどん体力を消耗していくような感覚があるはずだ。でも、それがない。
小林は気のせいだと思い、僅かな違和感を振りきれないまま少し緩めたペースをあげた。
その時だった。
カーン
突然、静寂を破る甲高い音が響いた。その音は夜、溶け込むような静けさに残滓と反響を残しながら吸い込まれるように消えていった。
小林はあまりにも唐突な出来事に思わず足を止めてしまった。少しの間口をぽかんと開けたまま突っ立っていたが、さっきまでの悪寒が一段と強まったことではっと我に帰る。
たしか、音がしたのはラップポイントである神社の方角から聞こえたように思えた。
嫌な予感がする…
小林は神社へと全力疾走した。
息を切らしながら鳥居をくぐり、拝殿の前で立ち止まって辺りをぐるっと見渡す。
しかし、深夜の暗闇と夏のエネルギーを受けて青々と茂った草木の葉が小林の視界を邪魔してよく見えない。
また、気のせいだろうか。
そんな考えがよぎったが、小林は首を横に振る。あれは気のせいなんかじゃない、確かに聞こえたはずだ。
息を整えながら参道を中心にゆっくりと進んでいく。目を凝らして、微かな動きも見逃さないように途切れていた集中力を入れ直す。
だが、どれだけ目を凝らして注意深く観察しても、特に変なもの、違和感を感じるものは見当たらなかった。
神社の神木のもとでふっと息をつく。疲れているのだろうか、と考えるが、それも考えづらい。昨日は休みだったからゆっくり家で休んだし、睡眠時間も申し分ないはず。
やはり、気のせいか。
小林はモワモワとしたなんとも言えない感覚を覚えつつも、そうとしか考えられなかった。明らかに聞こえたはずだし、今もまだ違和感は強く残っているのだが。
冷たくひんやりとした風が吹く抜けていく。その風に揺られて神社の木々が不気味な擦れる音を立てた。冷たい風は温まった体には気持ちいいが、せっかく絶好調で走れた体が冷えてしまうのは惜しくも感じた。
小林は何気なく上を見上げる。その瞬間、小林は言葉を失った。そこにある焦点の合わない虚な目が妙に威圧感を放っている。小林は目が合ってしまって、金縛りにあったように全身が強ばって動けなくなった。
木の枝にぶら下がる人型の“何か”は、紐が輪っかになっているところで首がぎこちなくかくんと折れ、その下に繋がる肉体がだらんと力なくぶら下がっている。指先からはどこからか流れてくる紅い液体がポツポツと滴っていて、緑色をしているはずの葉を紅く染めていた。まるで、紅葉のように。
季節は夏の色合いを強めている。にもかかわらず、季節外れの冷たく強い北風が小林の頬を掠めていった。
その風に冷やされて小林は我へと帰った。そして目の前の状況を認識した瞬間、小林の脳は危険信号を強く発した。
逃げなければ、化け物だ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!
夜のしじまに一人の男の恐怖と混乱と発狂とが入り混じった絶叫が響き渡る。小林は考えるよりも先に足が無意識に動いていた。行く先も分からないまま、ただひたすらに”化け物”から逃げることしか頭になかった。
丑三つ時神木に打ち込まれ、五寸釘に留められた藁人形が、遠ざかるその背中をにやりと微笑んで見つめていた。
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