10

 「俺も、嬉しい。あなたのこと、少しでも知れて。」

 紘一は、ぼそぼそと辛うじてそれだけを口にした。本当は、もっと伝えたいことがあった。劇場に通い詰めた理由だったり、あの劇場でどれほど茉莉花が輝いて見えたかだったり、今ここに茉莉花がいることの紘一にとっての価値だったり。でも、それらをうまく言葉にする自信がなくて。

 もどかしい、と、紘一は思った。そして、これまでの人生で、こんな感情をいだくのははじめてだな、とも。もどかしさで胸がつぶれそうになるほど、誰かになにかを伝えようともがいたことが、紘一にはこれまでなかった。

 「ありがとう。」

 そう言って茉莉花が笑う。紘一には、更にもどかしさがつのっていく。

 もしも、と思う。もしも彼女に触れたら、白昼夢にすら見たあの白い肌や、もっと体の奥深くにまで触れたら、このもどかしさは解消されるのだろうか。

 考え込む紘一を見て、茉莉花はうんと年上の、人生を何週もした女のひとみたいに唇を笑わせた。

 「したくなった?」

 なんでもこのひとにはお見通しだな、と、紘一はもう驚きもしなかった。

 「……多分、違う。」

 求めているのは、それではない。体中の粘膜を触れ合わせたところで、浸透圧みたいに茉莉花の過去やら感情やらは紘一に流れ込んでくるわけではない。だったら、違う。そんなことがしたいんじゃない。

 「違うかぁ。」

 茉莉花はふざけたようにちょっと舌をのぞかせ、肩をすくめてみせた。

 「残念。私、お兄さんとだったらちょっとしたかったのに。」

 紘一は、その台詞に完全に動揺した。そして、動揺した自分が恥ずかしくなって、それを覆い隠すみたいに言った。

 「恥ずかしいんじゃないの?」

 すると茉莉花は、今度はちょっとひねた少女みたいに唇を尖らせた。

 「だからいいんじゃない。」

 紘一は、その表情に思わず苦笑しながら、首を横に振った。

 「俺は、そうじゃないみたいだ。」

 「私じゃ、嫌?」

 「そんな贅沢、言えるわけない。」 

 「じゃあ、なんで?」

 「もったいなくて。一生分の幸運を使い果たしそうで。」

 紘一が素直にそう言うと、茉莉花は虚を突かれたように目を瞬いた後、ふわりと花が開くように微笑んだ。

 「そんなこと言ってもらえるだなんて、私も一生分の幸運使い果たしそうね。」

 「まさか。」

 「そう?」

 「あなたは、特別にきれいなひとだから。」

 だから、特別な幸運に恵まれるはずだ。

 紘一の言葉は確信に満ちていた。舞台で踊る彼女を見ていれば、誰だってそう思うはずだ。ああ、あのうつくしいひとは、特別な幸運に恵まれるに違いない、と。

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