006

 パーソナルスペースというものがある。他者に近付かれると不快に感じる空間のことだが、これは魔法においても適用される。自身のパーソナルスペース内では、魔法発動の予兆を敏感に感じ取ることができる。魔力を多くもつものほどその範囲は広く、消費すればその分、感覚は鈍くなる。一般的な森霊種の場合、半径一メートルがその境界だ。さらに対人距離のそれと同じく、親密であるほどにが生じ始める。

 魔法は極めて繊細だ。魔力という単一のエネルギーで多くの事象を引き起こすが故に、かき乱されればその効力は簡単に失われる。

 これらの理由から、不意打ちで他者へ直接的な魔法干渉を行おうにも、それは失敗に終わる。対象が人類種のような、そもそも魔力を感知できない種族である場合か、あるいは、


「不意打ちで五人同時に一・五キロ転移とか、お前……」

「魔力はもう空っぽになっちゃったけどねー。でもすごいでしょ? これで少しはお兄ちゃんに追いついたかな?」

「まだそんなこと言ってんのか。もうとっくに超えてるっての」

 フェルディは妹の頭をくしゃくしゃと撫でる。それを嫌がるようにするりと抜け出して、リーナは不満を垂れた。

「だってお兄ちゃん適性教えてくれないし。それに、お兄ちゃんの魔力なんか変っていうか、普通よりサラサラしてる? みたいな。だからきっとすごいの隠してるに違いない! って思うのが普通じゃない?」

 普通の奴は他人の魔力を把握できたりなんてしない、とフェルディは思ったが、そこは黙っておいた。あとサラサラってなんだ。

「まあ俺の適性は道中で教えるよ。いずれ話しておかなければならないことだったし」

「ほんと? やった!」

「あ、私もフェルさんの魔法適性知りたかったんですよ」

 いぇーいとハイタッチを交わす少女たち。

「へーフェルの適性知らなかったんだーふーん」

 勝ち誇った笑みを浮かべる宮間飛鳥、三五歳。

 倍以上生きているとは思えぬその煽りっぷりに、グランツの呆れた溜め息が聞こえてくる。

「アスカさんは知ってたんですねーどうしてですかー?」

 シャルロッテは、彼女としては珍しくイラッとして、しかし表面上は穏やかな笑みを浮かべつつ、けれどやはり常よりも棘のある口調で問いただした。

 対し、飛鳥は待ってましたとばかりに口角を釣り上げ、

「なんせ、ボクとフェルは夜な夜な睦言を交わす仲だったからねぇ」

「はあ⁉」「ええええ⁉」「……へ?」

 予想外の爆弾発言に三者三様の困惑を露わにした。

「いやいやいや何言ってんですかあなたはそんなこと一度だってないでしょう⁉」

「あ、でも一時期アスカさん結構うちに泊まってたし」

「フェルさん嘘ですよね? こんな年増なんか嫌ですよね?」

「シャル、気持ちはわかるが、さすがにそれは失礼だ。アスカさんも自業自得なんですからそんなにこめかみピクピクさせないでくださいよ」

 事態の収集がつかなくなりそうだと判断を下したグランツが仲裁に入る。

「一応俺が代表だから言っておくが、早く出ないと朝っぱらから集まった意味がなくなる」

 リーナのデタラメな転移で板根を突破したとはいえ、根本から根本へと移ったに過ぎない。この国から脱するには、距離にして四キロメートルは歩く必要がある。

「まずはこの国を出る。誤解は落ち着いたら解こう。シャルは――王族の俺が言うことじゃないが、もっと自信をもったほうがいい。しょうもないことでフェルを疑うのはよせ」

「しょうもないってなにさ」

 飛鳥は口を尖らせ、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「教え子に手を出すような人じゃないでしょう、あなたは」

 澄み切った空色の瞳が射竦める。

「まあ慥かにフェルはあいつに似てるけど、ボクの心は既に預けているからね」

 肩だけを竦ませ、飛鳥は歩き出した。

「ここはこんなに変わったっていうのに、あいつはなんにも変わっちゃいない」

 朝焼けに照らされた古巣を眺めながら、懐かしむように、獣人種の街をゆく。

「えぇっと、つまりどういうことですか?」

 目の端に涙を浮かばせ、未だ確信を得られていないシャルロッテは、様々ようようの感情を綯交ぜにして誰にともなく問うた。

「フェルがシャルを傷つけるようなことするわけないって話だ」

 彼女はフェルディに一瞥をくれる。やがて人差し指の背で目元を拭い、刹那に陽炎の笑みを浮かべて、飛鳥の後を追うように歩を進めた。

 リーナは何も言わず、シャルロッテの横に並ぶ。

 二十メートルほどの間隔を空けてから、ようやくフェルディとグランツは動き出した。

 しばしの静寂の後、フェルディは顔をしかめて呻く。

「なかなか痛烈な皮肉だな」

「なに、俺も同類だ」

 長い息を吐き、グランツは続ける。

「お前は気に病みすぎだ。シャルだってそんなこと望んじゃいないだろうさ」

「だったら!」

 フェルディは憤りも露わに声を荒らげた。しかし、グランツは極めて冷静に、諭すように否定を口にする。

「だったらあんな顔しないはずだって? お前は自分を省みるべきだ」

「どういう、ことだよ」

「お前がそんな顔するから、彼女は遣り切れないんだ」

 深々と、沈黙が降り積もる。

 彼はわかっていたのかもしれない。彼女は前を見つめているのに、彼が過去を引きずっているせいで巻き込んでしまっていること。それでも、彼は自分を許すわけにはいかなかった。

 彼女の傷は、まだそこに残っているはずだから。

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