第27話
翌日も、教室を出て、下駄箱からローファーに履き直す。
(今日もいたら…どうしよう…)
あの竹藪を通りたくない。けれど、そこを通ることによってしか、僕たちの秘密基地にたどり着く道を、僕は知らなかった。
(だから…通るしかない、んだけど…)
上履きをしまい込むと、溜め息が漏れた。
今日も、香耶はいつも通り彰のもとへ休み時間の度に現れて、腕に抱き着いてうっとりと見上げていた。それを思い出すと、眉間に皺が寄ってしまう。
(彰…、騙されてる、ってこと…?)
そうだとしたら、友達、のために、何かできないかと考えてしまう。ただ、僕にどうすれば良いのかのアイディアは一向には出ないのだが。
「ねえ」
もう一つ溜め息を零した時だった。隣から、声をかけられた。反射的に視線をあげると、瞠目する。
光を吸い込んで小さく反射させる宝石のような碧眼が僕を見つめて、にっこりと優しく細められた。
「ちょっと、いい?」
小首をかしげると、昨日乱れていた金髪は、さらり、と空気を撫でて柔らかく弧を描く。
断ることのできない無言の圧に負け、すごすごと後をついていく。その道は、昨日と同じ、いつもの通い慣れた道だった。
心臓が嫌に大きく騒いで、こめかみが痛い。どんどん頭が重くなっていくのに、その原因は僕を解放してくれない。
(なんで、僕にわざわざ…。それに、この人は、彰のこと…)
昨日、笹が軽やかに揺れるこの景色の中に、異分子として目立つ獣を見た。その片割れが、目の前を歩く。小さい頭が歩く度に、さらさらと毛先を揺らす。かすかに甘く魅惑的な香りもする。オメガの僕が感じるくらいなのだから、アルファはもっと、魅力的なフェロモンを感じているのだろう。
「君はさ」
ようやく足を止めた香耶は僕に振り向いた。長い睫毛を伏せて、穏やかな笑みを向ける。それは、誰もが美しいと表現するであろうものだった。
「オメガだったことを、恨んだことはある?」
突然の考えもしない質問に、カバンの紐を握りしめ、息を飲む。
身構える僕を見て、小さく息をついた香耶は続けた。
「僕はね、ないよ。一回も」
質問の意図がわからない。目の前にいる天使の考えが一つも見えない。
「だって、アルファを夢中にさせられるのは、オメガだけだもの」
細めた瞳は、つや、とこぼれ日を受けて妖艶に光った。
そこには、世間的に卑下されているのはオメガだという風潮を一切感じさせない、強い意思が感じられた。本当に、彼は、オメガである自分に誇りを持っているのだ。
「…あの人とも、付き合ってる、ってこと…?」
同じオメガとして、その姿勢は誇らしいものだと思われるのに、行っていることは、とても容認できない。
僕は口から自然と質問が零れた。僕から発せられた言葉に、香耶は嬉しそうに微笑んだ。
「いや、ただしくは、お友達」
「え…そんな…、だって…」
昨日のシーンがフラッシュバックする。耳の奥に、粘っこい水音、肌がぶつかる音、獣の息遣いに声が、望まないのに聞こえてくる。こめかみを冷たい汗が伝う。
香耶は透き通った碧眼で僕をまっすぐに見つめる。
「それは、演技? それとも、天然もの?」
くす、と笑うと周りに花が散るようだった。今の言葉も、性的な関係を持っていたのに友達だと言い切ることもわからず、眉間の皺を深くして首を傾げた。
「アルファは良いオメガがいれば、たくさん飼うよね? それが逆なだけ。えっちはコミュニケーションの一つ。お互い気持ち良ければ最高じゃん」
天使の顔をして、ひどく道徳からそれた発言をされる。喉の奥がひきつって、頭ががんがんと鳴り響き痛みを伴う。
「どういう…、だって、彰、が…、彰がいるのに、どうして…」
性的なことは、恋人とするものだ。なぜなら、愛し合っている者同士で行うもののはずだから。
その考えは、同年齢の人たちと比べると、純粋すぎる考え方だったのかもしれない。けれど、僕は、そういうことを話すような友達はいない。だから、世俗の感覚とは違ったのかもしれない。
それでも、僕は、僕の大切な人だった彰の婚約者だからこそ、香耶の感性を疑うしかなかった。
「彰は特別」
訝しい顔つきに気づいた香耶は、ああ、と声をあげて手を叩いた。それから、鈴が鳴るような可憐な高い声で楽しそうに言った。
「彰は僕の一番のお気に入りのアルファだから」
ふふ、と細い指をふっくらと桃色につやめく唇に当てて、恋する乙女のごとくしあわせそうに笑う。
「大田川グループの次男坊でしょ? 長男だと色んな付き合いがあってめんどくさいし、ずぼらな僕にはちょうどいい! だけど大田川だから将来も安心! それにスタイルもいいでしょ? 特に、顔がいい! 僕の隣に立つアルファとしてふさわしいでしょ?」
(大田川…スタイル…、顔…、僕にふさわしいアルファ…?)
つらつらと話す香耶は、お気に入りのおもちゃについて教えてくれる小さな子どものように楽しそうだった。
しかし、その内容に、僕に違和感は確実に増大していく。
「それに、えっちの相性もばっちり! 彰のフェロモン、とってもいい匂いだし、えっちも超気持ちいの。きっと、僕たち、運命なんじゃないかな」
わかってはいた。彰から漂う甘ったるく強くまとわりついて、近くに来るものを威嚇するようにこすりつけられていたフェロモンは、このオメガのものだった。
だから、肉体的な交わりがあるのはわかっていた。
けれど、改めて、はっきりと口にされ、思い出すかのように、熱い溜め息をつき頬を染め、恍惚とつぶやく香耶の姿からそれが現実なのだと頭を強打される。
「最低…」
口から零れた言葉は、本心そのものだった。
小さい時に僕の手を引いてくれた彰の小さな手のひらのぬくもりを、僕は覚えている。
身体が小さくて、周りのアルファらしい大きな身体の子たちにいじわるされて泣いている僕を、優しく抱きしめて、たくさん笑い話をして笑顔にさせようと頑張ってくれた健気な彰がいたから、今の僕がいる。
将来が決まっていたから、最後の自由だと思って、わがままを言ってこの学園に入学した。入学許可を渋る僕の両親に、俺がいますから、と一緒に説得してくれた彰を、一緒にはじめて桐峰の桜並木を歩いた彰を、慣れない環境に戸惑っている僕を安心させてくれた彰を、毎日楽しくて温かくて笑えて、将来への閉塞感を忘れさせてくれた彰を、僕は覚えている。
(僕の、大切な…、友達、を…)
自分の隣に置いておくのにちょうどいいモノみたいな表現をされて、僕の唇は勝手に動いていたのだ。
瞳に膜が張っていて、滲んだ視界で香耶の表情は見えない。けれど、僕はめいっぱいの嫌悪を込めて目の前の少年を睨みつけた。
「ふーん、それ、あんたが言う?」
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