第26話 翳③




「彼女は俺のことを恨んでるんだ」


「えっ?」


 そんな風には、見えなかったけれど……


「御園ヒカル。許さないって、昔言われて」


「どうして……」


 彼はまた深く息をついた。そらから、何かを観念したように私を見つめた。



「それは……」


 自虐的な苦笑に、薄茶色の瞳が翳る。


 それは初めて見る、エトの翳り。


「俺のせいで、彼女の妹が死んだから」


「えっ?」




 シルバーの雲の間から、静かに雨が降り始める。


 ほんのりと甘いセイロンミルクティーの香りが湿気の中で立ち昇る。


 エトはじっとテーブルの端に視線を落としたまま、まるで教会の告解室に座っているように淡々と話し始める。


「ヒカルには莉緒っていう妹がいたんだ。双子の妹。二人はタカヒロの家の生け花教室に子供の頃から通ってた」


 私はソファの向かい側でこくりとうなずいた。


 言いたくないならば言わなくてもいいと言ったけれど、私に聞いてほしいとエトは言った。



「留学してた時、花屋でバイトしていたんだ。そこで俺が作った寄せ植えや花束を見たタカヒロに声を掛けられて知り合った。それで自然と彼女たちとも顔見知りになった」


 まるで酸欠のように、エトは浅く苦し気に言いを吐いた。


「莉緒から、告白されたことがあった。でも合わないと思ったから断った。彼女はいわゆるお嬢さんでわがままで、何でも自分の思い通りにならないと気が済まない性格だったから」


 御園姉妹の父親は、京都でも指折りの老舗の料亭や旅館、漬物屋をいくつか経営しているという。


「断ったあとも彼女は強引で、俺と付き合ってるって周りに言いふらしたり、俺とタカヒロが会うところに無理矢理合流したりしてた」


「それは……困るよね」


 エトはうなずいた。


「そういう病気があるらしいよ。妄想性障害の一種で、自分が好意を寄せる相手には自分も愛されていると思い込むんだって。それで、俺のほうが参ってきて、こっちに戻って来た」


「そう……」


「うん、それから数年後に戻った時にはもう忘れてくれてると思ってたんだけど。もちろん、タカヒロも気を使ってくれたし、極力、彼女には居所がばれないようにしてた、けど……」


「変わってなかった?」


「俺が仕事で忙しくなってきたころ、彼女が東京に突然会いに来たんだ。金で人を雇って探し出したって言ってた」


「すごく強引ね」


「それだけじゃなかった。当時俺がつき合っていたひとのことも調べ上げて、変なメールやメッセージを送りつけたり、金を提示して俺と別れろ、自分に返してくれと迫ったりしたんだ」


 それはずいぶんと度を越している。エトは悲し気に肩を落とした。


「だんだんエスカレートして、職場にまで現れるようになった。俺のつき合ってたひとは莉緒のいやがらせで精神科に通うようになって、俺とは別れたいって去って行った」


 そういうことはきっと、巻き込まれた当事者しかわからないだろう。相手が正気じゃなければなおさらだ。


「ある日、ヒカルが僕を訪ねてきて言ったんだよ。あなたさえ莉緒を受け入れれば、すべては丸く収まるんだってね」


「それはひどいよ。エトの気持ちを無視してるじゃない」


「もう日本で仕事するのは無理だと思った。何を言っても通じないし、曲解される。だから逃げ出したんだ。莉緒が追いかけてこられないところまで」


「それが、パリ?」


「そうだよ。ちょうど、日本で一緒に仕事したことのある人に誘われたから。しばらくは、タカヒロにも連絡できなかった。誰も信じられなくなって。一年経って落ち着いて、ようやく彼に連絡したら……莉緒が亡くなったって聞いた」


「どうして?」


「俺がいなくなってから、執拗に探し回ったらしい。もともと精神障害があったのがそれで余計にひどくなって、睡眠薬の過剰摂取で車の事故を起こして……」



 深い深いため息をつき、エトは頭を抱えてうつむいた。


「そのことを知ってすぐ、ヒカルがパリに俺を訪ねてきた」




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