第6話、街へデート

 翌日、窓の外は晴天だった。晴れて良かった、と優は胸を撫で下ろす。出かけるなら、晴れていた方が気分が良い。

 家から外に出る前、優は日焼け止めをランスから渡された。白いボトルを手渡された優はきょとんとした顔でランスを見つめる。


「あの、これ何ですか?」

「日焼け止めだよ。服から出ている肌の部分に塗ってね。顔も、それから手も」


 言いながら、確認するように手の甲に触れるランスの行動に、優の心臓が跳ねた。


「あの、日焼け止めって女性が塗るものじゃ……?」

「男だって塗るさ。ユウの白い肌が赤くなってしまったら大変だからね」

「ランスさんも塗ってるんですか?」

「僕は塗らないよ。日焼けしにくい体質なんでね。ユウ、君は大切なモデルなんだ。これから外に出る時はこれを塗るようにね」

「……はい」


 優は日焼け止めのキャップを開けて、ボトルの腹をぎゅっと握った。手のひらにちゃぷ、と白い液体が溜まったところで、キャップを閉める。そうして、液体を顔に少しずつ伸ばした。さらりとした液体は、綺麗に優の肌に馴染んでいく。その様子を、ランスは黙って見ていた。


 ――上手に塗れてるかな?


 玄関の鏡を見ながら、初めて塗る日焼け止めに苦戦していると、ランスの手が伸びてきて、優の手のひらの中の液体を少し奪った。


「ランスさん?」

「鼻の頭も塗らないと」

「あ、はい」


 ぺたぺた。まるでケーキのスポンジに生クリームを塗るようにランスは優の顔に日焼け止めを伸ばす。くすぐったさに、優は目を閉じた。ランスは、目の下、口元、さらに首にまで日焼け止めを塗っていく。首筋に触れられた時、優は声を出して笑った。


「ランスさん、くすぐったい!」

「ああ……ごめんね? さ、後は自分で塗って?」

「はい」


 無事に服で覆われていないところに日焼け止めを塗り終えた優は、ドアを潜るランスに続いて外に出た。


「うわ、眩しい!」

「大丈夫かい? 日傘が必要かな……?」

「大丈夫です。こうやって外出するの何年ぶりだろう……ランスさん、早く行きましょう!」

「待ってユウ。鍵を掛けるからね」


 施錠を終えたランスは、鍵を鞄の中にしまった。ランスは白いシャツに焦げ茶色のズボンを身に纏い、ねずみ色の靴を履いている。肩からは黄色い布に太陽だかひまわりだか分からない絵がプリントされた大きな鞄を提げていた。芸術家らしいといえば芸術家らしい。優は、久しぶりの外出に気合を入れて、ランスが買ってくれた服の中から、緑色とオレンジのチェック柄のシャツに黒いズボンを選んだ。ランスは靴まで用意していて、新品でまだ皮の固い茶色い靴を優は履いている。優はスキップしたくなる衝動に駆られた。


「それじゃあ、行こうか」

「はい!」


 心が弾む優は勢いよく返事をした。それを見たランスは微笑む。


「ここから歩いて十分くらいしたら商店街があるんだ。古いところだけど、スーパーよりも品ぞろえが良いんだよ」

「うわあ。楽しみです!」

「ユウは何か欲しい物ある? 僕は最初に画材屋さんに行きたいんだけれど」

「いえ、特には……あっ」


 思い出したように声を漏らした優に、ランスは「欲しい物見つかった?」と優の顔を覗きこんだ。優は言いにくそうに口を噤む。


「えっと……」

「何だい? 何でも言ってごらん?」

「……ざい」

「えっ?」

「よ……ざい」

「ユウ?」

「抑制剤が……欲しいです」


 顔を真っ赤にして優は言った。

 

 ***


 二人は画材屋よりも先に、薬局に向かった。自動ドアの前に立つと、ピロン、という軽快な音楽と共にドアが開く。


「いらっしゃいませ! ああ、ランスさんじゃないですか! 今日はどうされました?」


 ランスは有名人らしい。街を歩いている時も「ランスさんこんにちは!」や、「ランスさんお出かけですか?」と何人からも声を掛けられていた。優はプロの画家――王宮に絵が飾られるくらいのレベルの人は凄いな、と思った。


「こんにちは。今日はヒートの抑制剤が欲しいんだ」

「えっ? 抑制剤? ランスさんはアルファだとばかり……」

「いや、僕はそうだけど……彼に必要なんだ」


 やっぱりランスはアルファなんだ、と優は心の隅の方で思った。そりゃそうか。絵が描けて料理が出来て、格好良くって……。

 考え事をしていた優は、薬局の店主に顔を覗きこまれてはっとした。


「この方は……もしやランスさんの良い人で?」

「ふふ。どうかな?」

「これはめでたい! ずっと家から出てこない、引きこもりの画家なんて言われているランスさんに春が来たなんて!」

「その言い方は……」

「ええっと、抑制剤をお探しということですが、いつも症状はどんな感じです?」


 不服そうなランスを放っておいて、薬剤師の顔になった店主は優に訊いた。優は小さな声で答える。


「……重いです。だから強めのお薬をいつも飲んでました」

「そうですか。では、この症状が重めの方の定番のお薬にしましょう。一番効くと評判ですよ」

「お願いします」


 会計を済ませて二人は外に出た。ドアが閉まるまで店主は「ランスさん! お幸せに!」と手を振り続けていた。


「ごめんね。ああいうノリなんだあの人……」

「いえ……それより、買っていただいてありがとうございました」


 オメガにとって抑制剤は必要不可欠なものだ。

 これがないとヒートの症状を抑えられなくなってしまう。それをひとつも持たされず追い出された優は、まさに危機一髪の状況だった。ヒートになると身体が熱くなり、性交のことしか考えられなくなってしまう。

 症状までランスに知られてしまい、優は恥ずかしさでいっぱいだった。けれど、ランスはそんな優の心情を察してか、優しく言葉を紡いだ。


「お薬があって良かったね。他にも必要な物があったら何でも言ってくれると嬉しいな。僕は君の助けになりたいんだよ」

「いえ、薬があれば大丈夫です」


 本当はピルや避妊具なども欲しかったが、今、この状況では必要だと感じなかったので言わなかった。まさか自分がランスと……そういう関係になるなんて安易に想像出来なかったからだ。


 ――ランスさん、恋人って居るのかな?


 薬局の店主の言葉からは居ないように受け取れた。けれど、店主が知らないだけで付き合っている人が居るかもしれない。だって、こんなに格好良い人、皆、放っておかないだろう。


 ――それは、何だか、嫌だな……。


 もやもやする気持ちを抱えながら、優はランスの背中を追いかけた。次に二人が立ち寄ったのは本来の目的地である画材屋だった。


「いらっしゃいませー。あ、ランスさん!」


 ここでも顔を知られているランスは、片手を挙げて店主に挨拶した。


「油絵の具の白色を三十本包んでくれる?」

「白色をそんなにですか? いったい次はどんな絵を描くんです?」

「今はまだ内緒なんだ」

「と言うことは、また王宮のお仕事ですね? いやあ、良いお得意を持てて幸せだ!」


 言いながら、店主は白色の油絵の具を棚から大量に取り出して、茶色い紙袋に詰めだした。その間、ランスは店の中を自由に歩き回る。優もそれに続いた。店内には様々な画材が並んでいた。油絵のコーナーには大小の大きさのキャンバスが重ねて積まれていて、どこかランスのアトリエを思い出させた。他にも水彩絵の具がたくさん棚に並んでいるコーナーや油性のマーカーが並んでいるコーナーなど、店内は画材で埋め尽くされている。優は珍しさにきょろきょろとしていると、ランスに声を掛けられた。


「ユウも何か描いてみる?」

「えっ? 俺……絵は苦手で……下手だし」

「絵に上手いも下手も無いよ。大切なのはどう自分を表現するかだ」

「表現、ですか。うーん、難しそう……」

「最初は迷って難しいかもしれないけれど、そのうち自信が固まって来るんだ。そうしたら、自分にしか描けないものが見つかる。僕はユウの作る世界を見てみたいな」

「俺が作る世界……」

「そうだ、最初は塗り絵から始めるのはどう? ほら、大人向けの塗り絵の本が売っているよ」

「塗り絵ですか」


 ランスは塗り絵のコーナーに足を進めた。そこには草花、風景、ファンシーなキャラクターなどの塗り絵の本がたくさん並んでいた。


「これなんかどうかな? 動物だって」

「……はい。ランスさんが選んでくれたものだから、出来そうな気がします」

「ふふ。これは……色鉛筆用かな。ついでにそれも買おう。ユウ、見てごらん、いろんな種類の色鉛筆があるよ」

「本当ですね。十二色、二十四色……三十六色……」

「最初は無難に二十四色にしようね。足りなくなったら、また買い足せばいい」

「はい、そうします」


 塗り絵と二十四色セットの色鉛筆を手に、ランスは店主の元に向かった。二人の様子を微笑ましそうに見ていた店主に、ランスは首を傾げる。店主は、にっこりと微笑むとランスに話し掛けた。


「いやあ、ランスさんがここに人を連れてくるって珍しいですからね。前に一度……あの変わり者の……」

「ポーン」

「そう、ポーンさんを連れて来て以来じゃないですか?」

「そうだったかな」

「今日はずいぶん楽しそうだったんで、こっちまで笑顔になっちゃいましたよ」

「……お会計」

「はいはい」


 代金を支払って、二人は店を出た。優は気になって振り返ると、店主が手を振っていた。優はそれに小さく振って返した。


「あの……ありがとうございます。塗り絵……」

「良いよ。同じ趣味になると良いね」

「ランスさんは仕事が趣味なんですか?」

「うーん。どうかな? けど、趣味が仕事になったのは確かだよ」


 紙袋を抱えたランスは空いた手で優の頭を撫でた。この世界に来てから、何度も頭を撫でられている。ランスの癖だろうかと優は思った。


「さてと……ユウ?」

「はい?」


 優の顔を見たランスは、慌てて言った。


「ユウ、休憩しよう。疲れているだろう?」

「いえ、大丈夫です」

「嘘は良くないよ。顔色が悪い。あの喫茶店で休もう。コーヒーがとても美味しいんだ。ユウもきっと気に入るよ」

「……すみません」


 久しぶりの外出で、優の体力は既に限界が来ていた。何しろ数年ぶりの体験なのだ。外に出ていなかった分、体力も落ちている。現に優の足は震え、頭の中が霞んできていた。


「いらっしゃいませー」


 ドアを開けるとからん、というベルが鳴った。ランスは空いている席をさっと取ると、優に座るよう促した。優はそれに従い椅子に腰掛けた。思わず溜息が出る。その場に崩れそうになるのを優は肘をテーブルについて堪えた。


「ランスじゃないの! 久しぶり!」


 ウエイトレスが水を運んできた。年はランスよりも若く見える。薄黄色の髪を両側で結んでいる可愛らしい女性だった。


「久しぶり。今日のおすすめセット二つ。両方ともホットコーヒーで」

「かしこまりましたー……そちらの方は?」

「新しい友人なんだ」

「えっ。ランスに友達なんて珍しい」

「失礼だな」

「ふふっ。ちょっと待っててね!」


 そう言って女性はカウンターの中に消えて行った。優はぼんやりする頭で二人のやり取りを見ていた。


 ――親しそうだな……。


 まさか恋人? でも、久しぶりって言っていたし……どんどん顔色を悪くする優に、ランスは心配そうに声を掛けた。



「ユウ、大丈夫? 気分悪い?」

「いえ……座ったら、ちょっとマシになりました」

「それは良かった……でも、まだ少し顔が青い。空いているから、ゆっくり休んで行こう」

「すみません。俺……」

「気にしないの。ほら、コーヒーが来たよ」


 先程の女性がトレイを片手にやって来た。その上には湯気が立つコーヒーのカップが二つ置かれている。


「はい、お先にコーヒーね。サンドウィッチはもう少し待って」

「ありがとう」

「そっちの方、大丈夫?」


 顔を覗きこまれて優は焦った。咄嗟に作り笑いをして「はい」と答える。


「ならいいけど……ゆっくりして行ってね!」


 そう言って女性はまたカウンターの奥に消えて行った。優は息を吐く。


 ――綺麗な人だな……。


 ランスと並んだらお似合いなんだろうな、と考えてしまう。そんな自分が嫌になり、また優は顔色を悪くした。

 優は熱々のコーヒーを一口飲んだ。


「美味しい?」

「……はい、とても」


 ぐるぐる考える頭の中では、コーヒーの味はまったく分からなかった。

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