第4話、初めてのモデル

 翌朝、頭を撫でられる感覚に優は目を覚ました。


「……ん、あ、えっ!?」

「おはよう、ユウ。今日も良い天気だよ」


 優の頭を撫でていたのはこの家の主、ランスだった。彼はふふ、と笑ってベッドから離れてカーテンを開けた。窓の外は青空が広がり、太陽はかなり高いところまで昇っている。慌てて優は時計を確認した。時計の針は正午前を指している。完全に寝坊した。急いで立ち上がろうとする優を、ランスが大きな手のひらで制する。


「疲れていたんだね。気にすること無いよ」

「あの……ごめんなさい! 俺、お世話になってばかりで……」

「良いんだよ。そのかわり、約束、覚えてくれている?」

「……絵のモデルになる、ことですよね」

「そう。良い子だねユウ。さあ、ご飯を食べたらさっそく描かせてもらうよ!」

「はい、その……よろしくお願いします」

「ふふ。そうだ、ユウが眠っている間に服を買ってきたんだ。好きなものに着替えてくれる?」


 部屋の片隅には大量のシャツ、ズボン、さらに寝間着までが積まれていた。どれも上質なものだと一目でわかる。優は申し訳なささで胸がいっぱいになった。


「そんな……何から何まで……」

「良いんだ。僕がしたくてしているだけだから。さあ、遠慮しないで着替えておくれ? 僕の天使」


 天使。

 その言葉に優の顔が赤く染まる。昨夜からランスは優のことを天使だと何度も言っていた。そんな急に天使だなんて言われて慣れるほど、優の心は頑丈に出来ていない。

 ランスは足取り軽く部屋から出て行った。それを見届けると、優は一番上に積んであった白いシャツと焦げ茶色のチェック柄のズボンを身につけることにした。

 新しい服を着るのが久しぶりだったので優は小さな感動を覚える。


「ありがとう、ランスさん……」


 小さく呟くと、優はシャツの袖に腕を通した。サイズはぴったりで、そのことにも感動した。

 弾んだ心でキッチンに行くと、パンとチーズにハム、それにマグカップに入った牛乳が用意されていた。既にテーブルに並んでいるそれらはとても魅力的に見えて、ぐう、と優の胃を鳴らす。


「さあ、食べよう。いただきます」

「いただきます」


 手を合わせて、パンに齧りつく。バターがたくさん使われているのだろう、それは中から柔らかい風味が広がる優しい味のパンだった。


「美味しいです……! 昨日のご飯もですが、ランスさんはお料理が上手なんですね!」


 優が言うと、ランスは照れたように頬を掻いた。


「ものを作るのが好きなんだ。絵を描くのも創作だろう? 料理も同じ。作るってことが好きなんだ。と言っても、男の独り暮らしだから、普段は買ってきたお惣菜なんかに頼っちゃうこともあるんだけどね」

「えっ、じゃあ、昨日も今日も俺のために……」


 申し訳ないと、優は眉を下げる。その様子に、慌ててランスが言った。


「確かにユウのためだけど、迷惑とかそういうのは全然感じていないからね? だから、そんな悲しい顔は止めて欲しいな?」


 自分は今、どんな顔をしているのだろう、と優は思った。こんな時、何て言えば良いんだろう……。

 優は出来る限りの明るい表情を作って言った。


「……すみません。その……ありがとうございます」

「良いんだよ、気にしないで! だから今は食べることに集中しよう? ……さぁ、お昼から忙しくなるよ!」

「……はい!」


 二人はパンもチーズもハムもあっという間に平らげた。空腹が満たされて優は幸せそうに腹を撫でる。その表情を見て、ランスは微笑んだ。


「うん。やっぱり天使には笑顔が似合うね」

「俺、笑ってましたか?」

「とても幸福そうな顔をしていたよ。さあ、アトリエに行こう。ユウ、僕は絵にはうるさいから覚悟しておいてね!」

「ふふっ。分かりました」


 二人はキッチンを出てアトリエに向かった。

 これからモデルになるのだと思うと緊張する。だが、空腹と同時に優の心もぽかぽかと満たされるのを感じた。


***


「あの、ランスさん」

「動かないで」

「は、はい……」


 アトリエはキッチンの向こう、ランスの部屋を越えた先にあった。

 今まで広がっていた柔らかな雰囲気とは対照的に、アトリエの中は無機質で冷たい感じがする。優は小学校の時の図工室を思い出していた。固い床に黒いカーテン。何となく不気味な空気が同じだな、と心の奥で思った。

 アトリエの中は混沌としていた。机がひとつ置かれているがその上には油絵の具やパレットがところ狭しと並べられている。床には大量のキャンバスが無造作に並べられ、それがアトリエのスペースをかなり陣取っていた。唯一散らかっていないのはソファー。そこにモデルを座らせるためだろう。ソファーの周りだけは綺麗に物が退けられていて不自然に片付いている。ポーンの家が散らかっていると言っていたのに、アトリエはこんなに汚い。優はそのことを思い出して心の中で苦笑した。

 優はソファーに座らされていた。

 目の前にはクロッキー帳を持ったランスが椅子に座り、真剣な顔でそれに向き合っている。しゃっしゃっという鉛筆が紙を滑る音だけが、アトリエに響いていた。

 絵を描くランスは先程までとは別人のように無口になり、手を動かしている。そのことに優は緊張して、視線をそこら中にさ迷わせた。


「この部屋が気になる?」


 唐突に聞かれ、優の肩が跳ねた。慌ててランスの方を見ると、鋭い緑色と目が合った。


「あの……じろじろ見てすみません。その……アトリエって初めてで」

「そう? モデルとしてスカウトされたりしなかった? こんなに綺麗な容姿をしているんだから」

「そんな経験無いです。俺、ずっと家の中に閉じ込められていたから……」

「閉じ込められていた?」

「両親は、オメガの俺を人の目に晒したくなかったんです」


 言いながら悲しくなって、優は無意識に出た涙をシャツの袖口で拭う。今度は動くなとランスは言わなかった。


「俺、こうやって誰かと関わるの本当に久しぶりで……話し方とかは使用人が教えてくれてたんですけど……俺、ランスさんに失礼の無いように出来てますか?」

「ユウ……ああ、ちゃんと話せているよ。失礼だなんて思っていない。立派だよ、ユウは」


 ぱたん、とクロッキー帳を閉じたランスは立ち上がり、それを自身が座っていた椅子の上に放り投げた。そして、ゆっくりと優の元へ歩く。


「ユウ、ずっと寂しかったね」

「寂しいって言うか……何て言うんでしょう? 自分でも良く分からないや……」


 優の隣に腰掛けて、ランスは優の頭を撫でた。


「孤独は時に人を強くするけれど、孤独だけじゃ人は生きていけない」

「孤独……」

「ユウ、これからは僕が居るからね。僕をどんどん頼って欲しい」

「もうたくさんご迷惑をかけているのに……」

「本当に迷惑だと思っているなら、初めから関わったりしないさ。ユウと僕が出会ったのも何かの縁。きっと運命だよ」

「運命、ですか」

「そう。だから僕のことは、本当の家族だと思ってくれて良いからね」

「家族……ありがとうございます、ランスさん。俺、何も出来ないけど、頑張るんでよろしくお願いします」

「頑張らなくても良いんだよ。天使には伸び伸びとしていて欲しいからね」


 そう言ってランスはウインクをした。どきり、と優の心臓が音を立てる。ランスは優のことを魅力的だ、天使だと言うけれど、優の目からしてもランスはとても綺麗な顔立ちをしている。自分が天使ならランスは神だろうか、なんてことを優は思った。


 ――神様。俺を拾ってくれた、神様……。


 横に座るランスを見つめると、柔らかく目を細められた。まるで三日月のようだ、と優は思った。夜を照らすあたたかいお月様。それ同様、ランスは優の冷たく凍てついた優の心を溶かした。神様、お月様、太陽でも構わない。大きな存在のランスに優の心は吸い込まれていった。


「ランスさん、俺……」

「ユウ……」


 その時、ピンポーンという大きな音がアトリエに響いた。しばらく見つめ合っていた二人だが、二度目のチャイムの音にランスは立ち上がった。


「ごめんね、ちょっと待っていて」

「はい……」


 アトリエから出て行くランスを見送り、優は高鳴る胸を手のひらで押さえた。


 ――何、今の空気……。


 まるで、この世に二人きりみたいになった気分だった。

 ランスが触れてくると胸が高鳴る。微笑んでくれるととても嬉しくなる。


「こんなの、恋してるみたいじゃないか……」


 優は呟いた。今まで誰かを好きになったことが無い優には、恋がどんなものなのか分からない。けれど使用人の竹田は言っていた。「その人のことを大切にしたい、その人と幸せになりたい、そう思うのが恋ですよ、お坊ちゃま」と。


「俺は、ランスさんとどうなりたいの……?」


 ランスは自分を頼れと言った。これはきっと弟みたいに思われているんだろうと優は思う。だから守ってくれるのだ、きっと――。


「俺、ランスさんと幸せになりたい……?」


 その問いかけには誰も答えてくれなかった。鉛筆の音がしないアトリエの中はひどく静かで、どきどきという優の心臓の音だけが大きく響いていた。

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