第16話 ありがとう。


 暖かさを感じていた春のような陽気は、一変して冷たい風が吹いている。

 

 白のパン屋も、そんな寒空の下取り壊されていった。普通の取り壊し方ではない。

 やはりここは、天国というだけ合って光に包まれて消えていった。と言った具合だ。



 跡形もなく消えたその場所は、確かに存在したつむぎの形跡まで消えてしまいそうに感じてしまう。




(結局、あの味は再現できなかった)



 冷たい風で冷えた腕をさすって、温めようとした。桜町に帰ろうと、歩き出した。



 そこに、一度見たことのあるあの光が現れた。金の光で、ふわふわと舞っている。


 手を伸ばすと、私の手に触れるように光たちが降りてきた。




「お迎えに参りました」



 温かい水の中にとぷんっと、落ちていく。私は、その言葉に返事をしたかも定かではない。

 ただ分かるのは、この温かな水の中を抜けたら"松本 紗夜"ではなくなる。



 水の中なのに、苦しさを感じない。急降下しているようにも感じるし、ゆっくりにも感じる。




 なんとも不思議な感覚。その不思議な感覚に、身を任せて瞳を閉じた。




 ――紗夜




 そう呼ばれて、私の背中から誰かの腕に包まれた。




 ――紗夜




 目を開き、後ろを振り返る。




「お母さん……」



 柔らかく笑って、紬は私の頬を指で触れてきた。するりと撫でて、少し離れていく。


 


「私の方こそ、ありがとう」




 紬の口が開いて動くのが見える。でも、もう声は聞こえない。そして、消えていってしまった。

 ガラス砂のように、輝きを帯びながら。




 手を伸ばすほどに、遠く遠く……手の届かないところへ行ってしまう。




 伸ばした手を見ると、自分の手もガラス砂のようになって消えていく。




(最期に、ちゃんと伝えられた。神様、ありがとうございます)




 温かい外の水と溶け合うように、私は感覚を失った。





 




 

 

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