稀代の後継者
西村たとえ
第1話
一切、怒りはしなかった。
正確には、怒り方がわからなかった。
怒りという、身体の芯から沸騰するようなあの感覚は、もはや忘れてしまった。そもそもそんなものは自分に備わっていたのだろうかと考えた。怒りのあぶくの一つすら見えてこない明朗は、自分には何かが欠けているのだろうと感じた。
クラスの中心は、いつでも明朗の担任の教師だった。彼は、いつも軽そうな身をかかえて、快活に教室に入ってくる。イケメンの顔が現れると、生徒の誰かが元気に挨拶をして、それが瞬く間に教室中に広がり、熱気が教室の隅々まで浸透していく。
教室の端の端まで、居心地の良さとやらが伝わるころには、みんな色めき立っていた。イケメンは、音のすべてを吸収するかのようにして、教壇でさわやかに挨拶をする。
そのおかげか、クラスには明らかな悪人などいなかった。みんな、それなりに仲良くやっていた。たまに、女生徒が見知らぬ誰かのことを悪く言っていたのを明朗は耳にしたが、よくある愚痴の類いであり、特に大した内容ではなかった。目に見える暴力など、この教室のどこにもなかった。
なんといっても、この教室は平和であるので、あのイケメンに対しては服従するしかなかった。
しかし、どこかがおかしい、と明朗は感じた。この間の国語の授業では、邪知(じゃち)暴虐(ぼうぎゃく)の権威に対して、勇者メロスは反意を示していなかったか。あのように生きろというならば、自分は先生に背いて生きなければならない。とはいえ、あの爽やかでイケメンな先生が邪知暴虐の主であるかどうかは、まだ中学生の明朗にはわからなかった。
かの大臣のことは教科書の中に確かに見つけたが、悪さの限りを尽くした人物など、教室のどこにもいなかった。明朗は、教科書の大臣の顔を必死に思い浮かべようとするが、いつまでものっぺらぼうのままだった。
明朗は、政治については理解していた。彼は、聡明な生徒である。公民の授業では、積極的に議論を行い、中学生ながら政治や法律とにらめっこしてきた。けれども、悪のことなど結局は何もわからなかった。それでも、悪と戦いたくて仕方がなかった。明朗はメロスになれる素質が自分にはあると信じていた。つまり、彼は成長期の大事な節目を迎えているのである。言い換えると、中二病の真っ最中なのだ。
担任の先生の授業になると、皆の顔が綺麗に黒板へと向かい、明朗はそれがずっと陰鬱であり、休み時間に二つ隣のクラスへと気晴らしに来た。明朗にはアイドルオタクの友がいた。
冬休みであったので、久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。廊下を歩いているうちに明朗は、隣のクラスの様子を怪しく思った。陰気に満ちている。まだ昼休みの時分であり、給食時間の語らいが残っているはずで、クラスの雰囲気は明るいのが当たり前である。しかし、なんだか、クラス全体が、やけに暗い。もともと陰気な明朗も、さらに陰気になってきた。
廊下で逢った隣のクラスの生徒の袖をおもむろに掴んで、何かあったのか、冬休み前に此のクラスに来たときは、授業中でも皆がはしゃいでいて、クラスは陽気であった筈だが、とぼそぼそ質問した。生徒は、俯いて「そりゃあそうだよ……」と答えた。
しばらく歩いて女生徒に逢い、今度はもっと、語勢を弱くして質問した。女生徒は悲しそうに「来年度、あのイケメン先生が、学校を辞めちゃうんだ」と答えた。
「なんで?」
「わかんない」
「それなら、なぜウチのクラスの担任をしているのに、自分のクラスの生徒に真っ先に言わないの?」
「それは、私たちが無理に聞き出したから……」
聞いて、明朗は激怒した。
「呆れた先生だ。放っておけぬ」
明朗は、聡明な一方で、非常に単純な生徒である。頭の中では、思い描いていた構図が今現実となり、あのメロスに想いをはせた。同時に、このきっかけを大事にしなければと思った。彼のようになれると思うと、だんだんと高揚していった。さきほどまでの陰気が嘘のようだった。身体の芯から焚き付けられたこの感覚は久しぶりだった。
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