白銀の奇跡【一】

 明けない夜はない。どんなに明けてほしくない夜であっても、平等に朝は訪れる。

 これからの人生を謳歌する人間であっても、今日これで生を強制的に終了させられる人間であっても。

 琥珀は目を覚ました。正確な時間はわからないが、とうに太陽は昇り始めている。耳をすましても、外の音は拾えなかった。

 もう二度と使うことのない寝台の上を片づけて腰掛、呼び出されるのを静かに待っていた。

 目を閉じていると、思い出すのは紫嵐のことだった。

 大きな体の龍の姿。仏頂面で、「不本意だ」という雰囲気を醸し出しつつも、琥珀の隣にいてくれたこと。木楊への態度を本気で怒られたこともあった。大人の姿だけじゃない。小さな頃、「ラン」と呼んでいた、女の子のように可愛らしい子どもが泣いているところも思い出して、琥珀は自然と唇を綻ばせていた。

 最後に見た彼の顔は、苦しみ、驚いていた。まさかお前が、と、疑いの気持ちもあったに違いない。彼本人に弁解することは叶わないが、弟の遼雲がきっと、意識を取り戻した彼に説明をしてくれる。

 それはきっと、琥珀が命を落とした後のことだろう。

 ふいに腹の虫が鳴いて、琥珀は目を開け、ひとりで声を上げて笑った。

 こんなときでも腹は減るのだから、人間というのはおかしなものだ。

 迎えが来たのは、それからしばらくしてのことであった。乱暴に扉を叩く音に応えると、武装した男たちに守られた奇劉が立っていた。

 瞬間、頭が沸騰しそうになる。だが、琥珀は睨みつけるにとどめた。

 今回の事件の黒幕は、哀れんだ目を向けてくる。ただし、唇には嘲笑が隠せていない。周りにいるのは彼の信奉者ばかりで、取り繕う必要もないのだろう。牢番として琥珀を担当していた遼雲が、一番後ろに控えていることに琥珀は気がついたが、反応をすることを避けた。

「白虎族の琥珀。お前はこれから、市中引き回しの上、火刑に処される。何か言い残すことはあるか?」

 斬首を想像していたため、「火刑」という宣告にはぞくっとした。苦しみを長引かせるつもりなのが、奇劉の顔からわかって、なんと残忍な男なんだろうと思った。

「恐れながら奇劉殿下。あなたは何人の罪なき者を亡き者にしてきたのでしょうか。自分の手は汚さない、卑怯者」

 奇劉の眉がぴくりと跳ね、周囲の取り巻きは激昂して、琥珀に手をあげる。だが、王族らしく優雅な手つきで奇劉は遮ると、「面白い冗談を言う。私は卑怯だと?」と、まったく愉快だと感じていない顔で言う。

「ええ。紫嵐を直接手にかけるでもなく、毒を盛った。しかも、自分の手ではなく、俺に毒入りの菓子を手配して、食べさせたんです」

「毒は女のものだと馬鹿にされてきましたが、誹りを受けるべきは、俺ではなくてあなただ。自分ひとりの力じゃ、何も成し遂げられないかわいそうな第四王子!」

 よくもまあ、これだけ口が回るものだと我ながら思った。目の前に、自分を陥れた存在がいるのだ。この場で斬られるわけにもいかないから、殴りかからないだけで、言ってやりたいことは山ほどある。

 琥珀は最後尾の遼雲にそっと目配せをした。見下してきた自分に馬鹿にされて、奇劉がどんな反応をするのか、何を口走るのかをしっかりと聞き届けるように、と。彼は紫嵐と似て聡明だろうから、きっと琥珀の意図をわかってくれている。

 案の定、奇劉は琥珀に接近した。ひとりではなく、最も屈強な護衛をべったりと隣に貼りつけてのことだから、「女々しい」に説得力が生まれてしまっている。琥珀は笑いそうになった。彼は持っていた扇を閉じた状態で、琥珀の顎を掬い上げる。

「調子に乗るなよ。雑魚が。お前みたいな阿呆には、毒の有能さがわからんのだ」

 わかりたくもない。琥珀は黙って睨みつける。ふん、と鼻で笑うことも忘れなかった。

「自分の拳を振るい、汚名をかぶる勇気もない弱虫め」

 自分は実際、力を振るって名前を奪われることになっても、ランを守った。その自負がある。

 扇で頬を殴打された。硬い骨の部分が強く当たって痛みを覚えたが、これから火であぶられると思えば、些細なものである。それよりも今は、奇劉を怒らせるだけ怒らせて、あれこれと語ってもらわなければならない。

 自分がいなくとも、紫嵐が青龍国で安心して暮らしていけるような国にするため。そのための犠牲になるのなら、構わない。

 何度も殴打され、両頬が腫れることになっても、琥珀は悲鳴ひとつあげなかった。まっすぐに奇劉の目を見つめる。できるだけ、感情をあらわさないようにして。そうすると、琥珀を不気味に思った奇劉が次第に精神を乱されていく。自身の頭を掻きむしり、そのまま何本も束にして引きちぎった。

「どうしてお前たちは私をそんな目で見る!? 私は、私は兄弟の中で一番賢く、王たる器だというのに! 身体が弱いというだけで、なぜ、なぜ……!?」

 両手で顔を覆い、それから再び現れたのは、蛇の目であった。狡猾さよりも、執念深さを感じる男のほの暗い情念をそのまま写し取ったものだ。

「お前たち?」

「お前や紫嵐の母親だ! それから馬鹿な女! 父上の手つきだとたばかって、これ以上、王の息子はいらんというのに……!」

 部屋の隅、遼雲が息を飲んだ。彼の母親のことである。遼雲は身内の存在を偽って、国に奉仕をしていた。もっとも、下っ端兵士である彼のことなど、奇劉たち王族は、気に留めたこともないだろうけれど。

 ここで遼雲の母のことを言うとなれば、すなわち。

「……その女ふたりに、毒を盛ったと?」

 琥珀の問いに、奇劉は後先考えずに――考えたところで、琥珀は死ぬ運命だ。周りを固めているのは、自分の思い通りに動く駒たちだと、彼は思っている――嘲笑し、肯定した。

 自分は関与していないと言っていたのは嘘だったのだ。少年と呼べる年であった彼が、邪魔な妃相手に自らの判断で毒を盛ったのである。

「許されるはずがない。あんたは天帝の罰を受けるぞ」

「罰? 天帝? ははは、そんなものが本当にいるとでも?」

 琥珀は目を伏せた。白虎国、親元でぬくぬくと育ってきたときには、琥珀も同じように思っていた。天帝も黄王も、実際にいるわけがないと。けれど、琥珀は見てしまった。黄王の巫女を務める朱倫が、普段の彼女とは似ても似つかぬ表情と口調で、黄王の意志を告げるところを。

 だが、この男に何を言っても無駄だろう。あれは実際に目にしたものでなければ、神秘性を感じられない。琥珀が口を噤んでいると、それ以上の言葉を持たぬと判じた奇劉は、高笑いをした。

「あと数刻の命だ。民が待っているぞ。あのお可哀そうな紫嵐殿下を殺した男が、火あぶりになるのをな!」

 と、来たときと同じように、兵をぞろぞろと引き連れて出て行った。

 最後尾につけた遼雲が、ちらりとこちらを振り返る。琥珀は口の動きだけで、「頼んだ」と告げた。頷く彼は、ひらり手のひらをこちらに振った。おそらく、逆鱗は紫嵐のもとに返したという報告だろう。

 自分亡きあと、黒麗とともに紫嵐を支えてくれ。

 琥珀は刑が執行されるまでのわずかな間、目を閉じて祈りを捧げる。逆鱗を通じて、どうかこの想いが彼に伝わるように、と。

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