虎の決意【二】

「何かあったか?」

 夕食の卓を囲んでいるとき、突如として紫嵐に問われて、琥珀はまだ噛み切っていない肉を飲み下した。喉に引っかかって、咳払いを数度するも、変な感じがする。

「な、何かって、なにが?」

 ああ、どうして俺はこんなにも嘘が下手なのか。

 愛想笑いを浮かべた琥珀に、上品に匙を使う紫嵐は、じっとりとした疑いの眼を向けた。

「そういえば今日は食後に甘い物が欲しいと我儘を言っていたようだが?」

 全部バレているのではないか、と琥珀は思ったが、自分と奇劉が顔を合わせたのはあれ一度きりだ。その日、黒麗はずっと紫嵐と一緒にいたし、夜に大丈夫だったか尋ねたら、何も心配することはないと言われたのだ。琥珀たちの計画を、紫嵐が知るはずがない。

 琥珀は胸を張った。

「そうだけど? たまにはいいだろ。紫嵐もさ、この国に来てから難しい顔ばかりしているから、たまには一息入れてほしいな、と思ったんだけど……ダメだったか?」

 夫からの心遣いだ、と強調して目をうるうるさせて小首を傾げると、はーっと長い溜息をついたのちに、「お前が食べたかっただけだろう」と言った。ただの甘党、食いしん坊だと思われているのなら、それでも構わない。

 食事が終わってから、事前に打ち合わせをしていた茶と菓子が運ばれてくる。紫嵐の目が少し大きくなった。

 自分の前では甘味をたしなむことはあまりなかった。琥珀の実家で茶を飲む機会があったときに、茶菓子を褒めていたが、あれは社交辞令だと思っていた。王子様の口に合うわけがないと。

 だが、幼い頃の彼はこの焼き菓子が好きだったらしい。あまり交流することはなかった奇劉が覚えているほどには、しょっちゅう食べていた。

 宮中で出されるには少々素朴すぎる見た目だ。糖蜜すらかかっていない。中には胡桃くるみ南瓜かぼちゃの種がぎっしりと入っている。

「な? たまにはいいだろ?」 

 透明な茶器の中で、ふわりと花開く工芸茶。鮮やかな緋色の花を、紫嵐はぼんやりと眺めていた。これは、彼の母親がよく楽しんでいたものだという。

「美味しそうだね。どれどれ……」

 我先にと空気を読まずに手を出そうとする黒麗を、ぴしゃりと叩いて制止した。もうひとりの主役がまだ、来ていない。

 茶を蒸らすための砂時計が落ち切ったとき、扉を叩く音がした。

 来た。

 紫嵐が反応するより先に、琥珀は「はい」と立ち上がり、扉を開けた。相手が誰かも尋ねなかったから、紫嵐はもう、琥珀が何もかもを知っていると気がついただろう。

「……兄上」

「すまない、紫嵐。だまし討ちのような真似をして。しかし、こうでもしないと……」

 奇劉の言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。けたたましい音を立て、紫嵐が立ち上がったからだ。

「私には、話すことは何もない」

 あまりの剣幕に、奇劉も琥珀も、立ち尽くすことしかできなかった。彼は兄の身体を押しのけると、そのまま食堂を出ていく。

「紫嵐……!」

 後を追おうとする奇劉の肩を掴んで止めた。

「奇劉殿下は、行かない方がいいです。ここは、俺が」

 彼が行って弁解をしたところで、彼はまったく聞き入れない。和解するなどもってのほかで、逆効果だ。琥珀もまた、今回の企みの首謀者として彼に謝罪をしなければならないからと、代わりに追いかけた。

 行先は紫嵐の私室である。宮を与えられていない彼は、琥珀たちと同じように、本殿内の客間を使っている。

「紫嵐。入ってもいいか?」

 返事はなかったが、鍵はかかっていないようだ。琥珀は「開けるぞ」と今度は宣言し、恐る恐る部屋の中へと入った。

 紫嵐は、椅子に腰かけていた。机に向かって何をしているわけでもない。ただ、壁の一点を見つめていた。怒りのやり場を見失っている様子に、琥珀は青くなる。

「その……紫嵐」

「兄上たちと関わるなと、言ったな」

 遮る声は、冷たかった。あのときと同じだ。琥珀が愚かにも、木楊のことを傷つけていることに対して激怒したときと。  

 おもむろに立ち上がり、接近してくる紫嵐にたじろぐ。一歩下がる琥珀だが、扉を自分の手で閉じてしまっており、後ろ手で開けることもできずに追い詰められた。

 見上げる彼の顔は、影になっていて見えない。どんな表情で自分を見下ろしているのだろう。

「その……ごめんなさい、勝手なことして。仲良くは無理でも、謝りたいって言ってる人の助けになりたくてさ」

「私がお前に、そうしてほしいと頼んだか?」

 頼まれていない。無言で首を横に振る。ようやくはっきり見えるようになった紫嵐の表情は、感情が読めない無表情だった。

 唇を噛みしめる。

 紫嵐が親族を憎んでいるのはわかる。だが、すべてを拒絶するのは、彼のためにもならない。奇劉はあんなに、涙を流してまで謝りたいと言っていたのに。

 琥珀は奇劉の切羽詰まった表情、得体の知れない自分などを頼るしかなかった状況を思い出して、キッと紫嵐を睨み上げた。

「紫嵐。奇劉殿下は、いいひとだよ。お前に謝りたいって泣いて、俺なんかに仲介を頼んできたんだ。他の兄貴たちとは、俺も話を聞けなんて言わないよ。だけど、奇劉殿下は……」

「うるさい!」

 大きく振り上げられた手に、反射的に目を瞑り、両腕で防御姿勢を取った。殴られると思った。いくら頑健な琥珀の身体でも、自分よりも体の大きな男の、遠慮のない一発を見舞われれば、ひとたまりもない。

 だが、殴打ではなく別の衝撃が、琥珀を混乱に陥れた。

「っ!」

 唇に、噛みつかれた。

 口づけは、二度目だった。彼がランであることを知ったあの夜以降、紫嵐とは一度も、特別な行為はなかった。それどころではなかったからだ。

 愛ある接吻とは言えない。本当に、文字通りに「食われて」いる。刺さる牙が薄い皮膚を突き破って、血の味が口の中いっぱいに広がった。同時に酩酊感を覚え、琥珀はふっと意識が遠くなる。

「私よりも、兄を取るのか? 優しい兄のことを、好きになったのか? 私ではなく……」

 離れた唇の吐き捨てる、独占欲は琥珀の身体を痺れさせ、抵抗をできなくした。

 ああ、毒だ。

 青龍族が肉体に毒を持っている。なんてことはない。血が流れるのも厭わないほどの激情に、琥珀は侵されていく。

 このまま気を失ってしまえればいいのに。

 琥珀の願いは、むなしく宙に消えた。

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