龍の願い【二】

 さて、木楊と別れて三日が経った。

 燦里の実家が用意した船は、個人用とは思えないほど豪華な作りになっていて、客室も四つあり、個人の空間を確保することもできる。至れり尽くせりの旅だが、琥珀は「二度と船になんか乗るもんか!」と、青い顔をして呻いていた。

 これでも天気は良好な方で、波も穏やかだというのだから、恐ろしい。嵐になどなったら、自分はいったいどうなってしまうのか。

 琥珀は寝台に横になっている。ずっと嘔吐感があるのに、実際屑籠を抱えて吐こうとしても、なかなか出てこない。すっきりしない状態が、船に乗ってからずっと続いている。 

 燦里はこの船の持ち主の娘だから、船旅にも慣れているようだ。玄武族はもともと、水と相性がよいから黒麗はぴんぴんしている。口から先に生まれたような男は、船乗りたちに嫌がられたり面白がられたりしつつ、彼らとの交流を楽しんでいる。

「大丈夫か?」

 そして紫嵐といえば、定期的に琥珀の船室を訪れる。放っておいていいと言う気力も、とうに失せた。水は飲めるか食事はできるかと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼もまた、旅には慣れていて、船に乗るのも初めてではないからと、元気だった。

「うー……」

 明後日には朱雀国に到着するらしいが、おそらくその日一日は動けずに、迷惑をかけるに違いない。先に謝っておくべきか。紫嵐や黒麗はいいが、燦里は早く朱雀の姫に会いたいだろうから、怒られそうだ。

 彼女の元に行って、頭を下げなければと思うのに、目が開かない。暗闇の中、額にひんやりとしたものが押し当てられる。

 すると、胸の奥でむかむかしていたつかえがとれたような気がして、おや、と琥珀は目を開いた。額に載っているものに手をやって確認し、今度は目を丸くする。寝台の傍らに座る紫嵐を見れば、「せわしない奴だ」と呆れた様子であった。

 琥珀の手には、返却した紫嵐の鱗がある。不思議なことに、これに触れていると、船酔いが少しばかりマシになったような気がした。

「これ……」

 伴侶となる者の証というだけではなかったのか。青龍族の生態は、相変わらずわからない。不思議な顔で鱗を透かしたり傾けたりして見つめる琥珀と目を合わせず、紫嵐は逆鱗について説明をした。

「祈りを籠めた逆鱗は、伴侶を癒す力があるんだ」

 へぇ、と感心した琥珀は、「ん?」と、あることに気がつく。

「ってことは紫嵐、俺のために祈ってくれたのか?」

「……まあ、お前があまりにも辛そうにしていたから、軽く、な」

 ぶっきらぼうな口調に、じんわりと喜びが胸に広がっていく。心配してくれたのだ、と。恋だとか愛だとかはなくとも、琥珀のことを少しは想ってくれているのだと思うと、なんだか鱗の効果がより強まってきた気がして、吐き気など完全にどこかへ行ってしまった。

「しばらくそのまま持っていろ。お前の守りになるだろう」

「うん。ありがとう」

 少し元気になった琥珀は、起き上がって水を飲む。紫嵐は自分の部屋に戻ることなく、淵明のところから借りてきた史料に目を通している。よくもまあ、船の上で読書なんてできるものだ。想像しただけで、琥珀は再びうぷ、と胸にこみあげてくるものがあり、ぎゅっと鱗を抱きしめた。

 気分を紛らわせるため、迷惑は承知で紫嵐にお喋りしようと持ち掛けた。断られる前にさっさと言葉を紡ぎ始める。

「なあ、最初から聞きたかったことがあるんだけどさ」

「なんだ?」

 反応があることに安堵する。

「どうして紫嵐は、黄王になろうと思ったんだ?」

 愛されず、妬まれ、兄弟やその母親たちから命を狙われる日々は、どれほど負担だったであろうか。琥珀には想像することしかできないが、きっと世界のすべてを憎んだに違いない。

 対して黄王の仕事は、世界の調停。土地や国だけが世界ではない。世界を作っているのは、人だ。人を愛せない紫嵐が黄王になりたいというのが、ずっと意外だった。とはいっても、最初に疑問に思っていたのは、琥珀でなく木楊であったが。

『紫嵐様は、他人を寄せつけない方でいらっしゃいます。誰かを愛したことなど、ないのではないでしょうか』

 黄王は高潔で、慈愛に満ちていて、公平でなければならない。生きとし生けるすべての者を愛することのできる者が志すものではないのか。琥珀から見て、紫嵐はそういう性質の人間ではない。黄王になれば、一段高いところからすべてを見降ろさなければならない。自分を傷つけた青龍の王族であっても、平等に扱わなければならないのである。

 その苦痛を慮って、琥珀は疑問をぶつけた。もしも黄王になることに明確な理由がないのなら、やめさせたいと思った。紫嵐が余計に傷つくことになるだけだと思って。

 紫嵐は深く考える。答えを待つ間、琥珀は彼の返事をあれこれといくつも想像した。きっと、素直に話してはくれないだろう。はぐらかされたら、自分は馬鹿だからきっと、逃げられてしまう。再び「そういえば」と疑問を思い出したときには、とっくに彼は、自分の手の届かない存在になり果てているかもしれない。

 お前には関係ないと、冷たく言われておしまい。そんな回答を想像して、嫌だな、と胸のあたりをぎゅっと握った。無意識の行動だった。吐き気とは違う苦しさを覚える。形ばかりの伴侶とはいえ、紫嵐の行く末を心配しているのは、本当なのに。自分の思いやりや信頼を、なかったことにされるのは嫌だった。

 何度想像しても、負の反応ばかりが脳裏に浮かぶ。こうやって黒銀の鱗に祈りを籠めて渡してくれても、琥珀が紫嵐にとって、特別なわけではない。体調を崩した仲間への思いやりがない男ではないのだ。

 だが、琥珀の心配をよそに、紫嵐は覚悟を決めた顔で、寝台の空いている場所に腰を下ろした。ゆっくりと座っても、衝撃は多少ある。それ以上に、紫嵐がこうして距離を縮めてくることに、驚いた。

「紫嵐?」

「私が黄王になれたとしてもなれなかったとしても、一番迷惑をこうむるのはお前だろうから、先に言っておく」

 紫嵐は黄王の代替わりに関する事実を明かした。淵明や梨信あたりは知っていただろうが、木楊ですら知らないだろう。なぜなら、それを知っていたら大勢が黄王になりたいと思うだろうからだ。

「黄王になるときに、ひとつだけ、どんな願いも叶えられるのだという」

 それは、天帝からの賜物とも、詫びともいえるものなのだという。貴山でひとり、世界中を見渡して孤独に生き続けなければならない、人の世の理を外れる黄王となる者に対しての、最後の慈悲である。あるいは最後の一押しであるとも。

 例えば病に苦しむ子を救い、困窮した親に莫大な財産を与え、そうして人の世への憂いを絶ち、黄王は立つ。黄王となった者がどうなるのかの手記は当然ながらなく、人でなくなった彼が、人であったときと同じ感情を持ち合わせるのかどうかは不明だが、少なくとも心残りはなくなった状態で、安心して山に向かう。

「紫嵐の願いごとって……」

 ドキドキと、心臓は嫌な音を立てる。自分から聞いておいて、たぶんこれは、聞かなければよかったと思うような回答が返ってくるのだと、半ば確信していた。

 紫嵐の目は、遠いところを見つめていた。こっちを見ろよ、と琥珀は念じる。だが、琥珀の方を見たと思った目は、何も映していない。瞳の奥に見えるのは、ゆらりと燃える絶望と憎悪の炎だった。

「決まっている。私を迫害し、母を追い詰め殺した連中への、復讐だ」

 能力は高い紫嵐だが、第五王子と継承順位は低く、王家の鼻つまみ者である。貴族たちの支持もほとんど得られない。たったひとりで母の復讐を遂げるのは不可能であると、早くから悟っていた。

 絶望した彼が、不可知の力に縋るのも、無理はない。復讐が完遂した暁には、未練なく黄王になり、孤独な生を送る覚悟だってとうにできている。

 他に手段はないのか。どうにもならないのか。

 琥珀は言いかけて、口を噤む。

 ならないのだ。

 紫嵐が受けてきた苦しみを想像することしかできない琥珀に、何を言われても彼はぶれない。家族に愛されてきた自分には、到底彼の悩みに共感することはできないのである。

「私が黄王になったら、青龍国はまず間違いなく荒れる。継承権を持つ王族は、軒並み斃れるだろうからな。お前は巻き込まれないように逃がすつもりだが……上手く逃げ延びて、国へと帰れ」

 鈍く光る目を、恐ろしいよりも悲しいと思う。

「黄王に、なれなかったら?」

「わかるだろう?」

 刺し違えてでも、復讐を果たす。そうするしかない。正攻法はすでに試している。お互いの命を盤に上げ、殺し合いをするしかない。

「その場合も、お前は逃げろ。たまたま鱗を剥がしただけの相手のことなど忘れて、あの両親のもと、木楊と協力して、幸せな家庭を築け」

 まるで、すでに死が確定しているかのような言い草に、琥珀はいい気はしなかった。

 けれども、もっと俺を頼ってほしいとは、口が裂けても言えなかった。子どもの頃、ランのために戦うことができたのは、琥珀が無知であったからだ。相手も子どもであったからだ。

 大人同士の、貴族同士の戦いには、知恵が必要。よいものも悪いものもひっくるめて、思考を巡らせなければ、勝つことができない。琥珀には逆立ちしてもできないことだ。

「……あと少しで、この旅も終わる」

 それは船旅が、ということか。それともともにいる時間は短いという示唆か。

 琥珀は鱗を握りしめたまま、ただ頷くことしかできなかった。

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