龍の願い【一】

 琥珀たちの結束が深まったその翌日、淵明の部屋からは、黄王即位にまつわる伝承を書き写した帳面がようやく発見された。劣化していて読めなくなっている部分も多かったが、手袋をしてじっくりと文字を読む紫嵐の目の奥には、熱い塊が燃えているように見え、琥珀は隣に座り、彼の動向を見守った。

 ちなみに中をそっと覗き込んだが、まったくもって何が書いているのかわからなかった。今は使わない字もあるし、続け字になっていて読めない。淵明が走り書きをしたものだというが、本人もあまり読めていないのではないか。

 しばらく黙って読んでいた紫嵐が、ゆっくりと息を吐いて、冊子を閉じる。眉間を軽く指で揉むと、「貴重なものをお見せいただき、ありがとうございました」と、頭を下げる。

「いやいや、時間を取らせたうえに、肝心の書きつけも半分くらいは読めないお粗末な状態で、申し訳なかった」

「いえ。少なくとも次に向かうべき場所はわかったので、助かりました」

 黄王になるための旅路、次の目的地について紫嵐は言った。勝手についてきて、研究室に置いてあるものに触れてみたり、茶を啜ったりしている黒麗を見て、うんざりした顔になった。

「朱雀国だ。そこの巫姫みこひめに会わなければならない」

「え? ああ、朱倫しゅりんちゃんかあ。お前、苦手だもんな」

 友人同士の気の置けない会話だが、ここには同じく朱雀国出身の女・燦里がいる。 

 カッと目を見開いた彼女は、黒麗たちをぎろりと睨みつけ、「誰が朱倫ちゃんですか! 朱倫様とお呼びなさい! 偉大なる時期女王陛下ですよ!」と、叫んだ。

 琥珀と木楊――兄の件は紫嵐がしっかりと落とし前をつけていたので、今日は小さくなりつつも一緒についてきた――は、何がなんやらわからず、思わず顔を見合わせた。

「そうは言ってもさ、朱倫ちゃんとは古い仲だからあ」

「私たちは巫姫と友人だから、呼び捨てにすることを許されている」

 ぐぬぬ、と押し黙った彼女は、納得がいっていない。

「なあ、木楊」

「はい」

「朱雀国の巫女さんって、そんなに偉いの……?」

 こそこそしたやり取りだったが、燦里は聞き捨てならないと矛先をこちらに向けた。

「まあ、あなた! 知らないんですか!? 朱倫様といえば、朱雀国の次期女王で、黄王陛下を祀る神殿の巫を務めておりますの。その聡明さ、美しさといったら、この世のものとは思えませんことよ」

 すっかり心酔している様子の彼女に、琥珀は乾いた笑いで「ソウネンデスネー」と、片言で相槌を打つことしかできない。この堅物そうなおっかない女をこうさせるとは、いったい朱雀国の次期女王とやらは、どれほどの女傑なのか。

 黒麗は「久しぶりに朱倫ちゃんと会えるね~」と楽しそうだが、紫嵐は苦虫を噛み潰したような顔をしている。その様子が、何もかもを物語っているような気がする。

「っていうか、黒麗もついてくるつもりなのか」

 あれ? と琥珀が疑問に思って尋ねると、「もちろん」と返ってくる。

「せっかく久しぶりに会ったんだから、ここでお別れは寂しいじゃない~? ねぇ?」

 同意を求められた紫嵐は、むすっとして「私は寂しくない」と言う。ふたりの関係は、自分と木楊よりもちぐはぐである。気安そうに見えて、紫嵐はときどき、黒麗にどう反応すべきか迷っている節がある。本当の親友ならば、そんなことは考えないだろうに。

 冷たいこと言わないでよ~、と縋る黒麗を、腕を伸ばして拒絶しつつ、咳払いをした紫嵐は、「それで、朱雀国へ向かうわけだが」と、話を進める。

 北の玄武国から南の朱雀国を、直接結ぶ道はない。東西の青龍国・白虎国も同じである。黄王の住むと言われている貴山がそびえているためである。その山頂は常に白い雲に覆われ、実際の標高はわからないままの険しい山だ。

 そう考えると、この狭い部屋の中に、四国すべての人間が揃っていることは、どこか感慨深い。

「ってなると、青龍国か白虎国を通るしかないわけだよな?」

 どちらかを経由して朱雀国まで行くわけだが、紫嵐は即答した。

「白虎国に決まっている」

 誰が命からがら逃げてきた国にわざわざ出向くものかと、彼は呆れ顔である。ちょっと聞いてみただけじゃないか、と唇を尖らせる琥珀の背中に、木楊がそっと手を当てた。視線を向けると、はにかんだ笑みを浮かべる。

 しかし、白虎国を経由するにしても、青龍国の刺客が紫嵐の辿った旅路をなぞっていた場合、鉢合わせする可能性もある。青龍国と比較すると、山岳地帯や砂漠など、厳しい環境に取り囲まれているのも、懸念材料のひとつであった。他の順路など、ぱっとは思い浮かばない。

 決まっている、と言いつつ、早速出発するぞと言わないのは、紫嵐自身にも迷いがあるせいだろう。母国から逃げてきたときと違い、今度は複数人だ。旅の一団の人数が増えれば増えるほど、危険は増す。特に、木楊は戦う術を持たないため、誰かが守らなければならなかった。

「そんなに、朱雀国に行きたいのですか?」

 燦里の問いに、紫嵐は大きく頷いた。はぁ、と彼女は溜息をつく。

「あなた方は、幸運です」

 なんでも、彼女は里帰りをしなければならない予定があり、明日の朝、朱雀国へ向かうのだという。朱雀王家に連なる彼女の生家は、わざわざ娘のためだけに、立派な船を用意してくれているという。

「一緒に乗っていくといいでしょう」

 海路で朱雀国へと向かえば、追手の目を撹乱できるだろう。琥珀たちにとってはありがたいことだが、燦里はこんな、男ばかり四人ものせていいのだろうか。その辺りを聞いてみれば、「ふん」と気に入らなさそうである。

「それでも、荒くれ者揃いの船乗りたちよりは、ましな同行者ですわ」

 確かに、紫嵐や木楊は賢いし、彼女の旅の供にはぴったりだろう。黒麗の中身のないお喋りも、海の上で退屈しのぎにはなる。

 琥珀自身といえば、まぁ、芋の皮くらいは剥けるし。

「俺、船に乗るの初めてだな」

「私もです。船酔いしそうで不安ですね……」

 木楊と初めての船旅について話をしていると、紫嵐が突然、「木楊はここに残れ」と言い出した。

「は? なんでだよ!」

 反発したのは本人ではなく、琥珀である。せっかく和解できて、これから新たな主従関係を形作っていくのだと考えていたのに、水を差された。

 食ってかかる琥珀越しに木楊を見やる紫嵐の目は、平坦だった。

「淵明殿はもうお年で、この研究室をひとりで維持するのは大変だ。木楊は、燦里殿の代わりに、ここで彼の手伝いを」

 厄介払いか? それにこの学校には、木楊の兄がいる。ひどい言葉をぶつけ、弟などとはちっとも思っていない様子だったのは、記憶に新しい。

 常に揺れる船の旅に連れていくことと、そんな兄弟がいる街に置いていくこと、どちらが木楊のためになるというのか。

「もちろん、淵明殿の助手なのだから、研究のためにお前も学問に励まなければならない。そのための講義なら、いくら聴講してもかまわないと、許可を得ている」

 紫嵐の言葉を聞いて、木楊が旅の足手まといだからお払い箱にするわけではないと、琥珀は悟った。

 紫嵐は、木楊の賢さや学問への態度を評価した。燦里の代わりというのは、口実に過ぎない。最初から、淵明の目に適ったときには、学校に残そうと思っていたに違いない。そのために彼は、琥珀たちの知らぬ間に、淵明の説得に努めたのだろう。

 それこそが、王族の先見の明。人の適性を見極めて、ふさわしい場所へと送り込む能力は、継承順位は低くとも、王の器である。

 その隣にいるのが自分でいいのかと思い悩む琥珀をよそに、木楊は自身の処遇を紫嵐に奏上していた。

「しかし私は、琥珀様を支えるようにと奥様にも……」

「そうだ。お前は確かに、琥珀の従者だ。だからこそ、ここにとどまらねばならぬ」

 ときには主人に諫言し、足りない部分を補わなければならない。

「お前の武器は、その頭だろう。磨け。琥珀のために」

 獣の性を持たず、腕っぷしには期待できない。琥珀に足りない頭脳を補うためには、もっともっと、学ばなければならない。

「捨てるのではない。期待しているのだ。そうだろう、琥珀」

 突然話を振られて、「へ?」となりながらも、木楊のすがりつくような視線に、琥珀はひとつひとつ考えながら、口を開く。

「木楊。俺は、馬鹿だからさ、今までお前がいてくれたことのありがたさ、半分もわかっちゃいなかった。この旅の中でも、気づかぬうちにたくさん助けられてきたんだと思う。これから朱雀国、それに青龍国――新しい国に向かうのにお前がいないのは、怖いよ。でも、お前がここで俺のため、俺たちのために勉強しているんだって考えたら、俺も頑張れる」

 話をするときに、こんなに心を砕いたのは初めてかもしれない。

「だから、戻ってくるまで淵明先生のところで待っていてくれないか? 旅の中で、俺も絶対に成長して、お前の自慢の主人になるから。木楊も、もっともっと、俺の最高の従者になってほしいんだ」

「琥珀様……」

 頼むよ、とそっと彼の手を握ると、震えて冷たかった。ここまでよくついてきてくれたと思う。琥珀だって、両親の命すら狙われるかもしれないと脅されなければ、玄武国くんだりまで来たくはなかったのだから。

 それでも琥珀が紫嵐の伴侶に収まったのは自業自得とも言えたし、こうなったら行きつくところまで行きついて、本当に黄王なんて存在がいるのかどうかを確かめてやろうという気にもなっている。

 木楊は違う。いつだって、誰かの事情に振り回されている。本当は、上の学校でもっと勉強したかったはず。琥珀が勉強したくないと、最低限しか行かなかったから、従者の彼だけが進学することは許されなかった。自分が父に願えば叶ったのかもしれないが、琥珀はそこまで木楊のことを考えていなかったし、察しも悪かった。

 木楊は、しばらくの間俯き、黙っていた。いつしか手の震えもおさまり、彼は顔を上げた。見つめるのは琥珀ではなく、その後ろにいる紫嵐だった。

 琥珀は、自分の従者のこんな顔を見るのは初めてだった。真顔はぼんやりとしているように見え、おろおろしていることが多い。紫嵐相手には、自分の興味のあることを話すときは別として、やはり緊張を隠せず、怯えたようにも見える木楊。

 それが、今は堂々と紫嵐を真正面から見据えている。きりりと眉も上がり、凛々しい表情で、琥珀の手を逆にがっちりと握り返してくる。

「紫嵐様。琥珀様を、無事に私たちにお戻しくださいますか?」

 もしも紫嵐が否と答えたら、木楊は食ってかかるだろう。そういう気迫が、ひしひしと伝わってきた。強い瞳に、紫嵐は大きく頷く。

「無論、私の目的を達した暁には、琥珀をご両親の元に返すことを約束する」

 それはつまり、紫嵐が黄王となったときということだ。琥珀はまだ、彼が黄王になりたいと思っている理由を知らない。なったところで何がしたいのかも、追及することができないでいる。

 文字通り、雲の上の人となれば紫嵐は命を狙われない。だが、琥珀のことはどうするつもりなのだろう。逆恨みや八つ当たり、自分が標的になる可能性はじゅうぶんに考えられるし、琥珀でも思いつくようなことを、この男が考えていないわけがない。

 なのに紫嵐は、絶対に大丈夫だと請け負うのだ。根拠などないことは木楊も気づいているだろうに、彼は頷き、琥珀の手を離した。

「そのご覚悟が聞きたかったのです……私はここで、おふたりのお帰りをお待ち申し上げます」

 微笑む木楊の顔に、情けない部分はひとつもない。

 琥珀は、しばらくは木楊とこうして触れ合うことも、言葉を交わすこともなくなるのだと思うとなんだか名残惜しく、突貫で燦里に引き継ぎを受ける木楊の傍から離れなかった。

 翌日、皆とまで見送りに来た木楊はやっぱりべそべそと泣いていて、琥珀は「こっちの方がらしいんだよなあ」と苦笑しつつ、彼を強く抱いた。

「今までありがとう。そしてこれからも、よろしく」

 言いながら、声が震えないようにするのに苦労した。

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