二 、ミサキ
ミサキは仕事終わりに職場が入っているビルの一階でコーヒーを飲んでいた。
普段そんなことはめったにしないのだが、心身共に疲れていて、何となくそのまま家に帰りたくない気分だったのだ。
ミサキの上司は意地悪で何をしても叱られた。
すっかりミサキは自信を失って落ち込んでいた。
ふうぅとひとりで溜め息をついてると、向かいの席に誰かが腰を下ろした。
「やあ、どうしたの?元気ないね」
顔を上げると、いつか公園であった人がそこに座っていた。
名前も知らないその人は親し気な顔でミサキを覗き込んでいた。
心の奥底でまた会いたいと思っていた人。
誰にも打ち明けられずにずっと独りで想っていた人が目の前にいて自分に話しかけているという事実が信じがたく、彼女はどぎまぎしてしまった。
「あ、あの…どなたでしたっけ?」
緊張のあまり、ミサキはすっとぼけてしまった。
「え、俺のこと覚えてないの~? 超ショック…」
「冗談ですよ。覚えています。公園で会った人ですよね」
ミサキがそう言うと、目の前の彼は少し嬉しそうに頬杖をつきながら言った。
「君、冗談とか言うんだ~。かわいい~」
彼は相変わらずな調子でミサキは恥ずかしくなって目を伏せた。
「こんなところで何してるんですか?」
「散歩だよ。たまたま君を見かけからさ」
「こんな時間にこんなオフィス街で散歩?」
それを聞くと彼はあははと笑った。
「ごめん。ウソ。仕事でちょっとね」
この近辺で仕事をしているような人には見えないけれど…。ミサキは少し疑いの心を持ったが、人を見かけで判断するのはやめようと思いなおした。
その後、彼が何か話をするのかと思ったが、そういうわけではなく、ずっとニコニコしながらミサキの顔を見ているだけだった。
気まずくなったミサキは「そろそろ帰らないと…」と言って席を立った。
すると彼も慌てた感じで立ち上がり「送っていくよ」と言った。
いくら好意を持っている相手とは言え、その申し出には軽々しく了解できなかった。
「いえ…せっかくだけどそれはちょっと…」
少しはその気のある男性からの誘いをどう断ればよいのかよく知らないミサキはドギマギしながら言った。
そんなミサキの心情を察したのかどうかは解らないが、彼はあっさりとした感じで笑った。
「だよね~。あはは。なんか君、ずっと前から知ってるような気になっちゃってさ。俺、ガキのころから馴れ馴れしいのが欠点で」
ミサキは大丈夫という意味を込めてブンブン首を横に振った。
「じゃあ、連絡先、交換してくれない? また会いたいんだ」
彼は携帯電話を取り出すと、連絡先を交換するためのコードを表示させた。
ミサキは頷くと、それを自分の携帯でスキャンしお互いの連絡先を交換した。
彼の名は トオル と表示されていた。
「トオル…くんっていうんですね」
「うん、トオルでいいよ。君はミサキちゃんだね。よろしく~」
そう言ってトオルくんは軽快に去って行った。
それからトオルくんは頻繁にメッセージをくれるようになったが、再び姿を見ることはなかった。
何しろ忙しいのだということだった。
ミサキは職場下の喫茶店に毎日立ち寄り、トオル君がいないかこっそり期待することを楽しみに過ごした。
これは、新しい恋のはじまりかとミサキは感じていた。
だた、これでまで何でも相談してきたカオルやサキコには相談できずにいた。
以前、初めてトオルくんに公園であった際に、彼の話をしたら散々な言われようだったからだ。
いくら親友でもトオルくんことを悪く言われるのは嫌だった。
彼が信用ならないのは解っているし、遊ばれてているだけという自覚もあった。
だけど、それでも彼に相手にされるのが嬉しくて、何がどうなるかはわからないけれど、交流を続けてみたいと思っていた。
そうして物事は急転する。
トオルくんとの再会から数日たったある日。いつものように喫茶店に行くと、トオルくんがいた。
彼はミサキの姿を見つけると片手を挙げて彼女を呼び寄せた。
「よかった~来ると思ったんだ」
「連絡くれればよかったのに」
「偶然会えた方が盛り上がるじゃん」
盛り上がるって…。彼はいつもこのような思わせぶりな言い方をする。
それから小一時間、トオルくんとミサキは喫茶店で他愛ものないお喋りをした。
そして帰る時間になるとまたトオルくんは送って行くと言ってくれたがミサキは断った。
このまま彼と帰り道まで一緒にいたら家に来ないかと誘ってしまいそうだったのだ。
そしたらきっと彼は来るだろう。いや来ないかもしれない。
どちらにしても、今のちょうどよい関係を壊してしまいそうでミサキはいろいろ躊躇していた。
ミサキに断られると、トオルくんは少し名残惜しそうにしながら帰って行った。
そういえば彼がどの辺に住んでいるのか知らなかった。一人暮らしをしているのか、それとも家族と暮らしているか…ミサキは彼のことは何も知らないことに気が付いてしまったのであった。
トオルくんと別れてトボトボと終電の迫る路地を歩いていると、急に後ろから声をかけられた。
「すみませーん。ここから駅ってどう行ったらいいでしょう?」
振り返ると、とてつもなく気味の悪い男が立っていた。
異常なほどに猫背で、全身真っ黒な服だった。
頭には深々と帽子をかぶり、ニヤニヤといやらしい笑みをたたえた口元だけが見える。
「え、駅ですか? ここをまっすぐ行って…」
ミサキは目の前の男に警戒しながらも、普通の人だったら失礼になると思い、できるだけ平然と答えるようにつとめた。
すると急に男が腕を掴んで来て、ミサキはあっという間に狭い路地へと連れ込まれてしまった。
悲鳴を上げる隙もなかった。
口を手で押さえつけられてそのまま後ろの壁に押し付けられた。
男は掴んでいるミサキの手をひっぱり、何かを探すように彼女の腕を眺めた。そして言った。
「お印はねぇな。ってことはまだ手をつけてないのか。じゃあ俺が先に頂いてもマナー違反じゃないよな、へへへ」
男は不気味に笑うと、ミサキの手首をベロリと舐めた。
それでようやくミサキも気が付いた。
この男はヴァンラスだ!!!!
ミサキの暮す領域では完全なる他人事としてホラー小説にしか出てこないような悪しき存在。
「おやおや、その様子だと俺の正体に気が付いたみたいだね。そうだよ、俺様だ、ガジュー様だよ」
名前を聞いたところで誰なのかさっぱりわからなかった。
だが、ヴァンラスであることは確かなようだ。
ここには絶対に入って来れないはず。政府が徹底的にガードしていたのではないだろうか。
いや…ミサキは解っていた。
私のせいだ…。
おばあちゃんの鏡…。世界中の鏡が反射をやめてしまったあの時、変わらずにミサキの顔を映していた鏡だ。
あそこから入ったってこと?
あれ以来、恐ろしくなってずっと引き出しの奥に隠して鏡は一度も開いていない。
こんなことなら壊しておくべきだった…とミサキは思ったが、時既に遅しである。
目の前の男を見ると、今にもミサキの手首にガブリといきそうな場面であった。
全てがスローモーションに見えた。
そんなふうに全てがゆっくりに見えている中、飛ぶように目の前を何かがかすめ、それと同時にミサキの手を掴んでいた男が後方にすっ飛んだ。
「てめぇ。俺のもんに勝手に手をだすんじゃねぇよ」
第三者の声がした。聞き覚えのある声だった。
見上げると、そこにはトオルくんが立っていた。
こちらに背を向けミサキを守るように立ちはだかっていた。
向こうへすっ飛んで行った男も立ち上がり、こちらを睨みつけていた。
「どうやって入ったんだ、ガジュー」
トオルくんが言った。
この気味の悪い男はトオルくんの知り合いだったのか…?
トオルくんが堅気ではなかったらどうしよう…と、ミサキは的外れな心配を巡らせていた。
トオルくんと気味の悪い男の会話は続く。
「お前が作ったバックドアからだよ、間抜け」
「ここの担当は俺だ。勝手に荒らすな」
「父上にどう釈明するつもりだ。入れないだなんてウソの報告をして」
「ウソではない。俺も今日始めて入ったんだ。偵察してたんだよ」
「見え見えなウソをつくなケイプリアン。全部報告してやるからな」
「お前こそ。これは重罪だぞ」
それを聞くとミサキを襲った恐ろしい男はチッと舌打ちをして姿を消した。
どこかへ走って行ったのではなく、文字通り消えてしまったのだ。
ミサキは完全に度肝を抜かれてその場にへたりこんでいた。
…あの気色悪い男…。
トオル君のこと、ケイプリアンと言った? ケイプリアンと言ったの?
世間知らずの彼女でもケイプリアンという名は知っていた。
ヴァンラスの道化。笑いながら殺すという悪魔のような奴。
数々の領域がそいつによって滅ぼされたと聞く。
学校の授業で画像を見たことがあったが、顔の上半分を隠すような仮面をつけていたので顔は知らなかった。
彼の顔を見た者は誰もいなかったのではないか?
トオルくんはミサキの前にかがみこむと、さっきの男に掴まれた腕を調べ始めた。
ミサキが恐怖を感じて腕を引くと、彼はパッと手を離した。
「すまなかったな」
トオルくんは顔を曇らせてそう言い捨てると消えてしまった。
彼もまるでそこに居なかったかのようにスッと消えてしまったのだ。
人懐っこいトオルくんがあんな表情をして消えてしまったことにミサキはショックを受けた。
彼女はたった今、このような場面を目撃しても、トオルくんがあの恐ろしいヴァンラスだとは信じることができなかった。
しかもよりによってケイプリアン? あり得ない。そんなことは断じてあり得ない。
彼女の脳はその事実を受け入れることを拒否した。
もう、トオルくんには会えないのだろうか。
トオルくんがヴァンラスだったということよりも、そちらの方が彼女の胸を苦しませた。
それ以来、トオルくんからのメッセージはパタリと途絶えた。
まもなくしてヴァンラスの侵攻が表沙汰になり、ミサキの暮す領域も戦場となった。
仕事はなくなり、物資は全て配給、不要不急の外出も厳しく制限された。
ミサキはトオルくんのことや、あの気味の悪い男との一件を誰にも話さなかった。
特に国防省に勤める家族にはとてもじゃないが言えなかった。
もちろん、おばあちゃんの鏡のことも。それが存在するという記憶ごと、ミサキは引き出しの奥の奥に仕舞い込んだ。
自分のせいでこの世界が大変なことになってしまったという自覚はあったが、それ以上にトオルくんを守らなければならないと考えてしまっていた。
家族からは再三シェルターに避難するように言われていたが、自分だけコネで助かるのは本望ではないと断り続けた。
それは建前であって、本音はシェルターに入ってしまったら二度とトオルくんには会えないと解っていたからだった。
弟のナオキは特にミサキのことを心配してしょっちゅう顔を見に彼女のアパートへ訊ねに来てくれていた。
その度に彼女はヴァンラスとの闘いの様子をそれとなく聞いて、トオルくんが何をしているのか探ろうとした。
ナオキも国防省の職員であるので、何か知ってるかと推測していた。
だが、弟の口からケイプリアンの名はおろか、他のヴァンラスの個人名を聞くことはなかった。
極秘事項で話せないのか、それとも本当に知らないのかは解らなかったが、なんとなく弟は本当にケイプリアンについては何も情報を持っていないと感じていた。
直球でケイプリアンの噂を何か聞いてないか確認したい気持ちが高まったが、察しのよい弟に勘繰られるのが怖くて聞けなかった。
ケイプリアンはこの戦いに参加していないのではないか?
あの気味の悪い男に襲われた時、何かウソの報告がどうのこうの言っていなかっただろうか?
彼は何かルール違反のことをして仲間に捉えられているのでは?
ミサキの頭の中はそんな考えでいっぱいになっていった。
ある時、ミサキは我慢の限界となり、トオルくんにメッセージを送った。
幸い彼のアカウントは生きているようだった。
「大丈夫?」
まずそれだけ送った。
何時間たっても彼がそのメッセージを開封した状態にはならなかった。
「トオルくんが心配」
また送ってみた。
今度も反応はなかった。
もうこのアカウントは見ていないのかもしれない。
ミサキは読まれていないと解ると、少し大胆な気持ちになった。
「トオルくんに会いたい」
そう送ったとたんに開封マークがついた。
そして数秒後に窓をコツコツと叩く音がした。
行ってみると、ベランダにトオルくんが立っていた。
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