わたしは中毒症。
濱田ヤストラ
わたしは中毒症。
僕が彼女に初めて出会った日の夜。
彼女は急に、僕の名前を呼ぶ。
「ねぇ、あかる君」
その笑顔は、何とも言えず幸せそうで。
かつ、グロテスクで、欲望深い印象を受ける。
彼女は静かに、ずっとつけていた真っ黒なマスクを顎まで下ろす。
深紅に染まった、何もかもを食い尽くすかのようなくちびる。
徐々に吊り上がっていく彼女の口角を見ながら、僕は息をのんだ。
そして、彼女の綺麗な口が開く。
「ゆか、欲しいの。あかる君の髪が」
******
僕は、生まれてこのかた彼女がいたことがない。
別にそれがなんだ、と思っていたが、大学に入り周囲からからかわれるようになってしまった。
そんなことをからかったりしている時間があれば勉強やバイトに時間を費やせばいいし、そもそも彼女がいるからなんだというのだ。彼女がいないことを馬鹿にするようなやつは、彼女をアクセサリーのようなお飾りとしか見ていないのではないか、そう思っていた。
とある日。
僕があまりにも色恋沙汰に興味を示さないものだからといって、ゼミの同級生が飲み会に誘ってくれた。
……きっと、飲み会とは名ばかりの合コンのような場なのだろう。実際、彼らは僕に声をかけた後他の女子にも声をかけていた。
誘ってくれたのは嬉しいのは嬉しいのだが、彼女を作る気なんてさらさらなかった僕は、少しの不満を抱きながらその飲み会とやらに参加することにした。
******
少しまだ、肌寒い季節。
3月とはいえ、まだ初旬だ。時刻も午後7時。冷たい風が身に凍みる。
数人のゼミ生と僕が飲み屋の前でたむろしているわけだが、これは他のお客さんが入りにくくなっていないのだろうか。営業妨害になっていたらいやだな。そんなことを考えつつ、僕は愛想笑いを浮かべた。
すると駅側の道路から、手を振っている女子が数人、こちらへ向かってきているのが見えた。
なんとなく、皆あか抜けているように感じる。言い方を変えると異性慣れ、都会慣れしているようだ。どこ出身だとか、話したこともないので知らないのだが、どこかから都会に出てきて暮らす、というのはそういうことなのだな、と思う。
都会に染まるのはいいことなのか悪いことなのかは置いておいて、僕はあまり都会には染まりたくなかった。そもそも人が苦手だし、自分の理解者とだけ話せればいい、というタイプだったから。
ならどうして飲み会なんかに参加するって言ったのか、という話だが。
数人の、まさに都会のあか抜けた若者といった感じの人間が数人の中で、僕は一人だけ浮いているように感じる。田舎者が都会に出てきたばかり。おしゃれな西洋料理の具材に紛れ込んだ、掘りたてで土まみれのさつまいもみたいな。
なんだか、居心地が悪い。
ただ、女子のグループの中に一人だけ、不思議な雰囲気を持つ子が混ざっていることに僕は気付いた。
ピンクのセミロングの髪をツインテールにし、先の方はパーマがかかっているのかくるんと巻いている。髪を束ねているゴムはファーのような見た目をしていて、もこもこしている。大きな目の下には口元を隠す真っ黒なマスク。服装はというと、白いフリルのついた黒色のワンピースを着ている。膝上の短い丈で、膝まである黒い編み上げの厚底ブーツを履いている。背負っているピンク色のリュックには、悪魔の羽のようなモチーフがついていた。
なんというか、すごい浮いている気がする。
いわゆる、地雷系女子というやつだろうか。言葉だけ知っていたが、実物を見たのは初めてだった。他の女子はほとんど黒髪か茶髪で、服装も落ち着いた感じのものを着ているが、彼女だけ派手というか、個性的な服装だと思う。
「……なぁ、村上」
一人の男子が話し掛けてくる。
何、と一言返すと、あのさ、と手を口の横に添えてひそひそ話を続けようとしてくる。
僕、君と話すの初めてなんだけど。
「あのピンクの子、めちゃくちゃかわいくね?」
俺、ゼミ生でこんなかわいい同級がいるって知らなかった。
そう言って彼は、視線を彼女の方に向けた。口元がふやけているのがわかる。ちょっと気持ち悪いな、こいつ。
確かに彼女は顔の作りも綺麗だと思う。スタイルも、着ている服を考えると良いのだろう。どうして口元にマスクをずっとしているのか、そこがなんとなく気になった。
******
「かんぱーい‼」
届いたグラスを持ち上げ、盛大に声を上げる。
僕はなんだか恥ずかしくて声があまり出なかったが、それを咎める者もなく。
なんてったって、皆目の前の異性に釘付けだからだ。
僕の声の小ささなんて、目の前の異性とどう関係を築くかを前にしたら途端に小さなファクターとなりうるだろう。
皆席を変えながらグループを作ってお酒を酌み交わし、つまみを頬張っている中、僕は一人静かにチューハイのグラスを傾けていた。
ぼーっと周囲を見渡すと、女子の元々座っていた席の方に一人、ぽつんと座っている子が視界に入った。
さっきの子だ。
カクテルだろうか、見たことのない色のついた液体をちびちび飲みながら、誰とも話さずおとなしく座っている。
僕と一緒なのかな。誘われて、断り切れなくて参加したのかな。
なんて考えていると、途端に男たちが彼女の隣を取り囲むように座った。彼女は困ったような顔をして、愛想笑いをしているようだった。口元は見えないが、雰囲気でそう感じた。
「村上もゆかちゃんのとこ行ってみたら?」
急に隣からそんな声をかけられ、僕はいいよ、やめとく、と返した。これ以上人が増えたら、彼女はますます困ってしまいそうだったからだ。
しかし、周囲の男たちは僕をはやし立てて、彼女の近くに連れていった。
……どさくさに紛れて自分たちも一緒にだが。
「ゆかちゃん、君めちゃくちゃかわいいよね?」
「同い年?年下に見えるわー」
「本当に20歳以上?明らかJKなんですけど」
男たちの質問……というか不躾な内容の言葉に、彼女は適当にそうですねー、なんて返しながらただ困ったように愛想笑いをしていた。
ただ一瞬だけ、彼女と目が合った気がした。
その瞬間、何か狂気のような、背筋が凍るような怖い感覚を感じたのだ。
……なんだ、今の感覚は……。
違和感なのか、はたまたこの感覚が正しいのか。
僕は分かりかねていた。
******
「お疲れー‼」
しばらくして、飲み会は終わった。
どうしてだろうか、こういった会ではあるあるの光景なのだろうか。
参加していたほとんどの人間が、それぞれ男女がペアになって、夜の街へ消えていくではないか。
確か今日初めて会った人同士ばかりだったはず……僕みたいに人づてに誘われた末端の人間が参加しているし、相当な人数だったから不思議で仕方ない。
初対面の人間と一日も経たないうちに一対一で話すなんて、僕には考えられなかった。
「なーゆかちゃーん」
酔っ払いの声が聞こえ、振り返ると、彼女が2人の男に絡まれていた。
「ゆかちゃん、誰かとどっかいくの?」
「もし行かないならさー、俺らと飲み直さない?」
あ、これやばいやつじゃね?
このままいったら彼女、かなり危険な気がする。
かといって僕が助けに行くのは危険な気がするしな……今後のゼミでの生活に関わる。
あれこれ悩む間もなく、彼女はあっけらかんとこう言い放った。
「私、村上くんと約束してるから」
……え、僕?
というかいつの間に?約束?そんなの聞いていない。
混乱して訳が分からなくなっている間に、彼女は僕の手を取った。
「行こっ、村上くん!」
そのまま腕に抱きつかれ、僕は彼女の引っ張るまま路地へ連れ込まれた。
一体どこへ連れていかれるのか、知りもしなかった。
******
「え、ここは……」
薄暗い路地を抜け、彼女に手を引かれるまま僕は小走りした。
なんだか少し緊張する。女性に手を握られるということが初めてで、それ以前に女性と話す機会なんて少なかった僕は、これからどんなことが起きるのか気が気ではなかった。
すると、彼女がふと足を止めた。
そしてこちらを振り返り、目元だけで僕に微笑む。
「はぁー、助かった!ありがとうね!」
あ、なんだ。
僕、あの状況から逃げるためのダシに使われただけじゃないか。
どうしてか、落胆してしまった自分がいた。何を期待していたのか分からないが。
続けて彼女はあっけらかんとこう言った。
「ありがとう、あかる君!」
「あ、うん、いいよ……」
……あれ?僕、今何で名前で呼ばれた……?
いや、待て、彼女とは今日初めて会ったばかりで、それこそそこまで言葉も交わしてないわけで。なのになぜ、彼女は僕の名前を知っている……?
「不思議でしょ?」
彼女が嬉しそうな声色で言う。
僕が彼女に目線を移すと、彼女は僕の方をまっすぐ見つめていた。
彼女と合わせてしまった目がそらせないほどに、まっすぐに。
逃げられない。
僕は一瞬で、そう判断した。
彼女は再び僕の手を取り、夜の街の中を闊歩していく。
「ま、待って待って!どこ行くの?えっと……」
「最上ゆか」
「え……」
「ゆか、でいいよ?」
最上さん……もといゆかさんの目元がほころんだ。
その目元だけでも、彼女がとても美人なのが分かる。しかし次の瞬間、その目がぐり、と大きく見開いた。
「あかる君とはこれからずーっと一緒にいるんだもん、名前は知っててもらわないとね」
……え?
何を言ってるんだ彼女は。
ゆかさんは、すごく嬉しそうにきゃっきゃと笑った。
その声は鈴のように軽やかで。
でも、その目を見開いてこちらをじっと見つめ続けているという状況と照らし合わせると、狂気のような何かを感じざるを得ない。
ゆかさんは、言葉を続けた。
「だって、あかる君ぜんっぜん気付いてくれないんだもん!」
いきなり夜道で大声を出され、僕は少しきょろきょろと周囲を見渡した。幸い、こちらをずっと見ている人はいない。ちら、と見ている人はいたが、すぐに目を逸らす。
彼女はそのままのトーンで言った。
「ゼミの席!ゆかずーっとあかる君の後ろに座ってたんだよ?それに、行き帰りでもあかる君の後ろを歩いてた!なのに、なんで?ゆか、そんなに影薄い?」
いや、十分影は濃い。が、僕は全然そんなことに気づいていなかった。
ゼミで僕と一緒になるときは毎回この格好だったのだろうか。だとすると、僕があまりにも周囲を気にしなさすぎ、ということもあり得る。
だが、次に彼女が放った言葉に、僕は背筋が凍る。
「大変だったんだよー、あかる君の髪の毛集めるのって」
僕は唖然とした。
何を言ってるんだこの女は。
僕の髪の毛を……集める……?意味が分からない。
確かに席や床に僕の髪が落ちることはあるだろう。だが、なぜそれを集める必要がある?
どうしたのそんな顔して、と嬉しそうに言う彼女に、僕は言葉を返した。
「どうって……そりゃ驚くだろ!気持ち悪いし‼」
思わず、少し大声になってしまった。
すると最上さんは、瞳に涙を溜めてこう訴えた。
「なんで……なんで……そんなに……怒るの……?」
彼女の表情がどんどん曇っていくのが分かる。
そしてその大きな瞳から涙があふれだし、嗚咽が聞こえる。
ああ、泣かせてしまった。
……いや、そりゃあのリアクションになるだろ、僕が普通だ。
普通だと、信じたい。
そんな風に思う程には、彼女との対話で僕の感覚は狂い始めていた。
「ご、ごめん、そんな怒ったわけじゃ……」
なぜか彼女を慰める言葉をかけてしまった僕に、彼女はあかる君は優しいね、という言葉が返ってくる。いや、違う、そうじゃない、そうじゃないんだ。僕は君を、気持ち悪いと思っている。それは紛れもない事実なんだ。
彼女はすぐに、目元をほころばせる。
「ありがとう、あかる君。やっぱり大好き!」
なにがやっぱりなんだろう。
というか、今日初めて話したばかりの人間に向けて大好き、って。
この女、どんな頭してるんだ?
僕がこんなことを考えているとは、彼女は思ってもみないだろう。
彼女は、行こ、と再び僕の手を取る。
行くってどこへ、と聞いた僕に対し、彼女はこちらを振り返ってこう言った。
「ゆかの部屋、特別に見せてあげる」
もはや展開が早すぎて脳みそが混乱している。
僕のこんがらがった脳に、彼女の言葉が反芻するように響いてきた。
「ゆかがあかる君をどれだけ好きか、教えてあげる」
******
僕は、彼女の部屋の中にいた。
どうしてこうなったのか、意味が分からないが、彼女の言っている通りに行動したら、いつの間にかこうなっていた。
ふわふわのファー生地のピンクのハート型のラグの上にちょこんと座り、彼女の部屋を見渡す。
三段になっている棚は白で統一され、ハート型の机も真っ白。壁も白で統一されている。
僕が座っているピンクのラグとカーテンだけがピンク色だ。カーテンは遮光のものだろうか、街灯などが全く入ってこない。
すると、彼女は黒いネコ型のマグカップにコーヒーを入れて持ってきてくれた。
白い机に黒い猫のマグカップは映える。
……ってそんなことを考えている場合じゃない。
どうしてこうなった……どうして僕はここにいるんだ……。
僕はなんだか居心地が悪くて固まってしまっていた。
だがそんなことはお構いなしに、彼女の言葉は続く。
「あかる君、コーヒーはブラックだったよね?」
だから、どうしてそんなことまで知ってるんだ、この女は。
僕は疑問ばかりが膨らんで止まらない頭を冷静に保つために、頭を少し振った。
するとだよね!と嬉しそうに彼女は言った。
そうじゃない、そうじゃないんだ……僕は君を肯定したかったわけじゃないんだ……。
出されたコーヒーを飲みながら、僕は彼女の言葉を聞いた。
「あかる君を好きになって、ゆか色々頑張ったんだ!」
メイクでしょ、服装でしょ、ダイエットでしょ、と指折り数えている。
そんなこと、気にしたことなかったのに。というより、僕は君の存在に今日気付いたばかりなのに。そう伝えたい。
「一番頑張ったのがこれ‼」
彼女はそう言って、先が見えないカーテンを一気に開いた。
白い模造紙が貼ってある。
そこに飾り付けてあるのは——毛。
何月何日、という表記の下に、髪の毛が一本ずつセロテープで貼られている。
しかもその日にちは僕がゼミに行っている時だけではなく、休日だったはずの日付まである。
まさか……これが全て……?
いや、まだ分からない。というか、そんなことできるはずない。
だが、彼女の言葉が僕の心を奈落へ突き落とした。
「あそこの電気屋さん!店員さんに声かけられてすっごい大変だったんだよ!」
……は……?
電気屋、って、まさか僕のバイト先の……?
なんで、なんで把握している……?
「まさか、つけてたの」
「当たり前じゃん!ゆか、あかる君のお家も知ってるよ?」
言葉を遮った彼女は、とんでもないことを口にした。
僕の家が、この女に知られている。
もうどうしようもないじゃないか。
もしかしたら、留守の間に家に入られていたかもしれない。
そんなことを考えていると。
「あ、でもさすがに誰もいないお家には入ってないけどね」
当たり前だろそんなこと。
僕はいよいよ常識が何なのか分からなくなってくる。
そして、彼女は続ける。
「あかる君の髪ってすごいさらさらだよねー」
他の奴と違って染めたりしてないの分かるもん。
そう言って、模造紙に貼ってあるうちの一本を愛しそうに撫でた。
こいつ、狂ってる。
というか、これ以上ここにいたらだめだ。
そんな危機感を感じた僕は、逃げ出そうと立ち上がる。
しかし立ち上がろうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、ラグの上に倒れこんだ。
彼女は心配そうな声でこう言った。
「あかる君大丈夫⁉」
そう言って近づいてくる彼女に対して脳が激しく危険信号を鳴らしているのに、体が全く言うことを聞かない。
彼女は僕の体をゆっくり起こしながら、こんなことを口にした。
「あー、やっちゃったかな、ゆか、入れすぎたかも」
入れすぎ?
何をどこへ入れた?
……まさか……。
「ゆかの飲んでるお薬、コーヒーに入れてみたの!あかる君途中で帰っちゃうかなーって」
彼女は嬉しそうにそういうと、僕の体を膝に乗せながら、優しく僕の髪を撫でた。
「あかる君、もっとお話しよ?もっと一緒にいよ?ゆか、もっとあかる君といたいよ」
僕は視界が歪む中。
しゃきん、という刃物の音を耳元で聞いた。
「ねぇ、あかる君」
その笑顔は、何とも言えず幸せそうで。
かつ、グロテスクで、欲望深い印象を受ける。
彼女は静かに、ずっとつけていた真っ黒なマスクを顎まで下ろす。
深紅に染まった、何もかもを食い尽くすかのようなくちびる。
徐々に吊り上がっていく彼女の口角を見ながら、僕は息をのんだ。
そして、彼女の綺麗な口が開く。
「ゆか、欲しいの。あかる君の髪が」
******
「ん……」
少しずつ、瞼が開く。
周囲を見渡すと、白い棚に白い机、壁も真っ白。
ピンクのカーテンが揺らめいている。
僕はピンクのラグから体を起こした。そして、ショッキングすぎて忘れようとしたわずかな記憶を辿る。
ここは……そうだ、最上ゆかの自宅だ。
そう、僕は彼女にここに連れ込まれ、そして……。
その先は忘れた。いや、忘れたい。思い出したくもない。
だって、だって。
あの揺らめくカーテンの向こうには——。
「あ、あかる君おはよー」
彼女の声が聞こえる。
キッチンスペースから声をかけたようで、今度は二つマグカップを持ってこちらにやってきた。忘れたい記憶にある、黒いネコ型のマグカップ。
「はい、コーヒー」
彼女は僕の目の前にマグカップを置く。
僕はなんだか嫌な予感がして、手を付けるのをためらっていた。
すると、何も入れてないよ、と彼女の声が聞こえた。
彼女を信じていいのか……?
そう思いつつ、出されたコーヒーを少しだけ口に含む。
……特に、気持ち悪くはならない。
彼女は嘘は言っていない……のか……?それとももっと時間が経ってから……?
「ゆか、あかる君に嘘つかないよ?そんな悪い子じゃないもん!」
彼女はにっこりとほほ笑んで、僕に言った。
いや、嘘というか、自分の部屋に無理やり引きずり込むのはいいのか……?
そう言いたくて口を開いて声を出そうとするが。
声が、出ない。
口がぱくぱく開くだけで、声という声が全く出ないのだ。
呻くような声も出ない。
彼女はまだ効いちゃってるかー、と申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、ゆかには全然効かないからあれくらい大丈夫かな、って」
少し泣きそうになって僕の方を見る。
いや、泣きたいのは僕なんだが。
そんな思いをよそに、彼女はごめんね、と繰り返す。
そうじゃない、そうじゃない。
謝るなら、この状況を作ったことに関して謝ってくれ。
そんなことを明朗になりきれない頭で考えていると、彼女はこんなことを口にする。
「でもこれであかる君とゆかは一緒だよ?だってほら」
彼女の指さす方を見ると、そこには見覚えのある白い模造紙。
髪の毛が数本ずつ貼られている中で、昨日の日付のところを見る。
……束のような、髪が貼ってある。
恐る恐る腕を上げ、頭の髪の右側を手でかき上げる。
——ない。
そこにあったはずの髪の毛が、ない。
地肌に触れられるほど短くなったそれがどこへいったのか。
僕の中で、話がつながった。
あはははは、と彼女は嬉しそうな高笑いを浮かべ、こう言い放った。
「あかる君の髪の毛、もーらった!」
……狂ってる。
彼女は自分の私利私欲のために、僕の髪を勝手に切り落としたのだ。
そして飾っている。他の髪と同じように、日付だけが書かれた模造紙に、大量に。
……あれ、なんだ。
髪の束の上に、日付以外の文字が書かれていることに僕は気づいた。
……『あかる君と初めてお話した記念日♡』……?
……話すことが、そんなに嬉しかったのか……?
「ゆかね、ずーっとあかる君とお話したかったの」
不思議そうに模造紙の文字を見つめていたのに気づいたのだろう。
彼女は僕の方をじっと見つめながらこう言った。
「大好き、あかる君の髪が」
そう言って、僕のものだったであろう髪の毛の束から数本を手に取った。
そして。
それを彼女は、少しずつ口に含んだのだ。
もしゃ、もしゃもしゃもしゃ。
心地の悪い咀嚼音が、部屋に響き渡った。
「やっぱりおいしーい♡」
彼女は満面の笑みでこう言った。
やっぱり……ということは……まさか過去にも……?
いや、ありえない、考えたくない。
僕の脳が拒絶する間に、彼女はこんな言葉を放った。
「ずーっと砂の味とか埃の味してたから、もっとおいしく感じる」
僕は、脳が溶けていく感覚を覚えた。
昨日、飲み会に行かなければ。
僕が、このゼミを選択していなければ。
この都会へ、進学していなければ。
そんな考えが、ぐるぐると頭の中を駆け巡った。
「あかる君」
彼女は僕の耳元で甘ったるい声で囁く。
「だーいすき♡」
彼女の陶酔しているかのような光を失った瞳に、僕は身震いした。
僕の日常が壊れていく音がする。
思うように動かない身体で逃げようとも、きっと彼女に捕らえられるだろう。
段々脳も麻痺していっている感覚がはっきりと分かった。
そうだ。
僕の現実が、どんどん彼女によってねじ曲がっていく。
「あかる君が死ぬまで、一緒だよ」
彼女の言葉に対して、もう抵抗する術は残されていなかった。
うなだれた僕は、再び彼女の顔を見上げる。
……笑顔だ。
太陽のような、まっすぐな笑顔を僕に向けている。
……もういいや。
僕の中で、何かが弾けた。
口なんて動かそうとしてももごもごと動くだけで声を発することはできない。
なら、もう仕方ない。
彼女と、いるしかない。
それは強迫観念だったのかもしれない。
それ以降、僕は彼女の家から出ようとすることをやめた。
「あかる君」
髪を梳く指の感触。
そして、そのまま口に含まれる感触。
不快な咀嚼音が耳に、脳内に、響きわたる。
そして、僕を笑顔で見る彼女の顔は、女神のように美しくて。
ふと、携帯の着信音が鳴り響く。
彼女……ゆかは僕の携帯を手に取り、舌打ちをした。
「……お母さんだって。切っていいよね」
ゆかの問いに、僕は力なくこくん、と頷いた。
そうだよね!と元気に返したゆかは携帯を操作した。着信音が鳴りやむ。
「もう邪魔だから、電源落とすね」
笑顔で言ったゆかは、僕の携帯を睨みながら電源を切った。
もう、いい。
逃げたって、無駄なのだから。
ゆかが僕に飽きるまで、僕はここにいるしかないんだから。
わたしは中毒症。 濱田ヤストラ @shino_joker
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