初めての生物、初めての戦い

 自分の部屋でいきなり強い光に包まれたかと思うと気付いた時には見知らぬ森の中にいた。


 必死に帰ろうと森の中を駆けずり回るも一向に森の中から出られず迷い彷徨った。


 夢ならどれだけ良いかと心の中で願うも、これは現実だと五感が訴える。


 そんな非日常的な出来事にパニックになるのをどうにか落ち着かせて、これからの事明日の事を前向きに考え始めた矢先にそいつは現れた。


 現実だと受け入れていた自分の認識がまたも怪しくなるが、今はそんなことを考えている暇はない。


 なぜならそいつが手に持つ物が、夜空の微かな光に妖しく照らされているからだ。


 自然の獣が決して持たない筈の人類の叡智。


 狩りの基本、確かな殺意を切っ先に乗せて俺に向けている。


 「ぁ、ぅ……」


 ───銃刀法違反だろ!


 そんな冗長的なことが頭に浮かぶも、口に出す余裕はなく、かさついた唇は言葉にならない譫言を呟くのみに終わる。


 腰が抜けそうになるのをどうにか堪えられたのがせめてもの救いだった。


 「ギィィィイイイ───!」


 そいつは小さな体からは信じられないほどの跳躍力を持って俺に飛び掛かってきた。


 「うわッ!!」


 俺はそれを転げるようにして避ける。


 何とかすぐに起き上がることが出来たが、危険はそう変わらない。


 避けられたそいつは不機嫌そうに喉を鳴らすと、ナイフを振り下ろして突き刺した地面から目を離し、その鋭い目を俺へと向けた。


 その殺意に満ちた目に体が竦みあがりそうになるが、ここで身動きが取れなくなればそれはすなわち死を意味している。


 恐怖とパニックで思考が上手く纏まらない中、俺は本能に従ってどうにか正しい行動をとり続ける事に成功していた。


 奴の目の中に殺意と共に共存する嗜虐心を感じ取る。


 だからそいつは俺をじっと観察しているのだろう。


 獲物が次はどう動くのか、どんな風に醜態をさらして自分を楽しませてくれるのか。


 そいつの目は捕食者としての傲慢を雄弁に物語っていた。


 完全に俺を狩るつもりだ。


 狩りを成功させるだけの自信が奴には確かにあるのだろう。


 当然だ。


 人を簡単に殺せる武器を持ち、矮躯からは信じられないほどのバネを有していれば何も待たない非力な現代人など、奴からしたらただのおもちゃに過ぎないだろう。


 だからこそ、そいつの傲慢性が俺と奴との間に僅かな時間を生むことになった。


 それは思考の猶予としては十分だった。


 ───逃げないとっ


 心のそこで浮かび上がるどうにか言葉にできるかできないかの感情。


 しかしそれは俺の体を動かすための次の方針としては十分だった。


 俺の僅かな身じろぎで考えまで感じ取ったのか、奴の体が俺へと傾く。


 (逃げないと!!)


 ようやくしっかりとした言葉になった感情に従うように体を動かそうと力を籠める。


 それを見逃すことのない奴は最初に見せた跳躍力で再び俺に向かって飛び掛かってくる。


 早い。


 間に合わないかも知れない。


 初撃を躱せてもその後普通に追いつかれて背中にナイフを突き立てられるかもしれない。


 しかし背中を向けて逃げるしか俺の中には選択肢が存在しなかった。


 だから俺の体が恐怖の感情で突き動かそうと必死に暴れている。


 いや俺がその感情を持って全身に力を込めて訴える。


 奴が眼前に迫った。


 眼前に迫る凶刃に俺の思考が再び鈍化する。


 本能が訴えてくる。


 鈍化した思考の中でも俺自身が逃げろと訴え続ける。


 本能が体を突き動かした。


 逃げるには遅すぎるタイミング。


 しかし別の行動理念であればこれ以上のない絶好機。


 いつの間にか足元の石に手が伸びていた。


 俺の本能が選んだのは──────狩猟。


 被捕食者など受け入れられないとでもいうかのように俺の体は反撃の体勢を取っていた。


 自分の動きに驚きはない。


 そこまで思考が追いつかない。


 本能によって支配された俺の体と思考は無意識の只中で狩人であることを選択した。


 眼前に切っ先が広がる。


 奴の醜い笑みが癇に障る。


 顔を僅かに逸らす。


 切っ先は頬を捉えきれず、僅かに裂くのみに留まった。


 奴の表情がゆっくりと変化していくのを見逃さない。


 握った石を振りあげる。


 反撃を貰うなど考えていなかったのだろう。


 油断の中、回避などという選択肢は最初から存在していなかったのかもしれない。


 驚愕に染まった醜い顔面に拳大の石が食い込んでいく。


 黄色い歯が砕け、鼻が折れ、困惑染みた醜い目元がひしゃげていく。


 不思議とスローモーションに流れる一連の流れを俺は淡々とした感情で眺めていた。


 奴からくぐもった苦しそうな声が漏れ出す。


 顔面横を殴られた奴はそれに逆らうことなく横手に倒れる。


 血を流すその表情は傑作だった。


 愉悦から驚愕、困惑を綯い交ぜにして、いまでは怒りの感情まで顔を覗かせ始めていた。


 立場が逆転したような錯覚に陥りそうだ。


 沸々と湧き上がる優越感と生き物を殴ったという罪悪感。


 矛盾したその感情を吟味している暇はなかった。


 俺は感情の整理も直視も間に合わないまま次の行動へと移っていた。


 流れるように当然に。


 握りの緩んだ手をナイフ事蹴り上げる。


 動きの継ぎ目は最小限に、怒りを浮かべ始めた奴の顔面を踏みつける。


 苦しそうな声が上がる。


 とても醜いものだった。


 頭を地面に叩きつけられてふらつき満足に立ち上がることのできない奴に馬乗りになってひたすらに石で殴り続けた。


 眼は潰れ液体が漏れ出し、鼻から白い骨が突き出し、歯を失った口の中はいくつもの裂傷で漏れ出す息と共に血吹くを吹いている。


 それでも異常な生命力で命はなかなか潰えない。


 このままでは埒が明かない、石を握る俺の手も肌が裂けて血が流れ始めている。


 それよりも時間が掛かりすぎてしまいそうだ。


 俺は殺す手順を変更。


 手足に石を振り下ろし、骨が折れた手応えを感じたら、次の四肢に。


 すべての四肢の骨を折り終えた俺は馬乗りになっていた奴から降り、転がったナイフを拾いに行く。


 ナイフの柄を掴み持ち上げる。


 心臓が僅かに跳ね上がる。


 妖しい銀光を放つナイフから目を逸らして奴に再び近づいた。


 そこにはすっかり怒りの感情をひっこめた奴がそこにいた。


 代わりに表情を満たした感情は怯えを越えて恐怖だった。


 俺の中から湧いてくるあらゆる感情が無意識に抑え込まれる。


 まるでまだ終わっていないと本能が諫めてくるような不思議な感覚。


 冷たくなっていく感情に合わせるように、俺は奴の喉に切っ先を突き立てた。




 ◆




 「うっ……」


 胃の中が混ぜっ返されるような不快感に襲われた俺は木陰で胃液を吐き出した。


 食べたばかりのカロリーバーが少し混ざっている。


 初めて虫以外の動物を殺した。


 草食動物だとか、四足の獣という訳じゃない。


 よりにもよって二足で歩く人型の生物を。


 俺の人生の中で培われた倫理観が激しく抗議してくるかのような錯覚に陥る。


 状況を考えれば仕方がなかったことだし、何より正当防衛だ。


 生きる人間にとって正当の権利を行使したに過ぎない。


 過ぎない筈なのに、胸の奥につっかえる気持ち悪いものが消えてくれない。


 いくら頭の中で正当性を並べ立てて自己の正当化を図っても、誰かに責め立てられるような気持ちだった。


 「最悪だ……少ない食料を食べたばかりだってのに」


 精神に重たくのしかかったものから意識を外すように、切実な問題に対して愚痴を零す。


 幸いな事に食欲はない。


 腹が空腹を訴えてくるような苦しさは今のところは感じなかった。


 大きく息を吐いて俺は樹に凭れ掛かる。


 疲れた。


 ここに来て、体力も精神も大きく削られてしまった。


 正直なにもしたくない。


 視界の端にぼんやりと見える物から逃げるように顔を背けた。


 今は直視できない。


 自分が殺した生き物の処理などする体力もない俺に眠気が襲ってくる。


 限界に達した体と大きくすり減った気力。


 強い緊張感から解放された俺は眠気に逆らうことが出来ずに徐々に眠気に呑まれていく。


 現実から離れていく意識の中、うっすらと先ほどの戦闘がリフレインされる。


 俺は忌まわし気にそれを無視するように川に意識を移した。


 ─────あぁ、喉が渇いた。無駄に汗をかいて無駄に戻してしまった。起きたらすぐに水分を撮らないと本当に死んでしまう。


 俺は命の危機が未だに去っていないことを自覚して、陽が昇った後の方針を決定する。


 そんなことを考えていると、ふと妙な感覚を感じた。


 手が熱い。


 視線を右手に落とす。


 そこには無意識のうちに握られ続けたままのナイフがあった。


 妖しく夜空に照らされたナイフの銀面には自分の顔がぼんやりと映し出されている。


 俺はその顔が無性にむかついて、ナイフをかなぐり捨てたい気持ちに駆られるが、全身を飲む眠気と倦怠感がそれを許さなかった。


 ナイフに映った自分の顔から目を離すことができないまま瞼がゆっくりと閉じられていく。


 悪態の一つでもついてやりたい。


 なんでそんな顔してやがると。


 寝ぼけ眼の幻覚だと信じたい。


 しかし、意識を手放す直前までそいつの表情は変わらなかった。


 そいつは、俺の内心を無視したかのように笑っていた。

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