肺に残った紫煙
ぴのこ
着火
紫煙を
煙は街灯に照らされて生き物のように蠢き、やがて夜闇に散って消えていく。口の中の苦味を噛み潰しながら、俺はぼんやりと思う。
彼女は今も、この煙を味わっているだろうか。
この煙草を初めて吸った場所もここだった。五年前。大学三年の初夏。まだ六月だというのに太陽は致命的な熱を街に落とし、日が沈んでもその爪痕が消えない。そんな年の夜だった。
大学から三駅離れたこの街が、俺のインターン先だった。駅から徒歩十分ほどの貸会議室で行われた一日インターンは散々な結果だった。優秀そうな他の学生たちに気圧され、俺はろくな発言もできないままインターンを終えた。嘆息しながら駅への道のりを歩く俺の視界に、一軒の煙草屋が飛び込んできた。正確には、その軒先で煙草に火をつける彼女が。
「…■■くん?」
煙草屋の灰皿の前で喫煙していた彼女を目に留めて足を止めると、彼女もまた俺に気づいた。彼女は俺と同じ文学部の同級生で、共通のゼミに所属していた。ゼミでは話すが、個人的に話したことは無い。その程度の仲だった。
彼女は一瞬驚いた顔を浮かべたが、すぐに表情を笑顔に変えた。花が咲いたような笑顔だなと、ぼんやり思ったのを覚えている。
「偶然だねえ!就活の帰り?すごいなあ、私まだ何もしてないや」
それ、と俺が煙草を指差すと、彼女は悪戯ぎみに笑みを漏らした。
「みんなには内緒だよ。みんな吸わないからさあ、私も吸わない体で通してるの。吸ってるイメージ無かったとか言われそうだし。■■くんもそう思ったでしょ?」
彼女は「■■くんも吸わなそうだよね」と言いながら半分ほど残った煙草を逆向きに持ち替えると、俺の唇に押し当てた。俺はなぜか反射的にそれを吸ってしまったが、煙を飲み込むことはできず煙を吐き出すだけに終わった。
「布教!どう?悪くないでしょ」
俺は煙草を根元まで吸い尽くす彼女を見つつ、苦味に顔をしかめて確信した。
この味にハマることはないなと。
駅へと向かう道すがら、彼女ととりとめのない話をした。卒論の文章をいかに水増しするかとか、去年の哲学の講義の期末レポートがアニメの考察で笑ったとか、別れた元彼がしつこいだとか。彼女はよく話してみれば楽しく、妙に気が合った。
先のインターンで生まれた、鬱屈した感情が散らされていく感覚があった。
そんな風だったから、付き合うまでに時間はかからなかった。履修が被っている講義では、並んで座るようになった。彼女はすぐに居眠りするので、講義後に俺のノートの写真を撮るのが習慣になっていた。
大学の休み時間を一緒に過ごすのが楽しかった。前に言っていたどこそこに来週行ってみようか、なんて話をよくしていた。予定を合わせやすくするために、三年の秋学期は全休の日を二人とも水曜日に調整した。水曜には俺が取りたかった講義があったが、その学期は諦めた。
「ね、明日のゼミ、サボっちゃおうか」
まだ残暑の残る九月下旬の水曜日。箱根神社の第二鳥居付近の喫煙所で、彼女は囁いた。彼女と同じ煙草を吸う俺に。あの夜のような、悪戯ぎみな笑顔だった。
喫煙所のパーテーションの隙間からは青々と光る芦ノ湖が見えた。日帰りで行こうと彼女が言った箱根旅行だった。
「せっかく来たんだもん。すぐ帰るんじゃもったいないよ」
俺はといえば、その言葉に一にも二もなく同意した。翌日のゼミでは俺の発表の番だったが、そんなことは些細な問題だった。今、この瞬間が少しでも長く続けばいいと、ただそれだけを思っていた。
箱根観光を済ませると小田原に向かった。帰りの時間を気にしないのなら時間はたっぷりとあった。夕食に食べたアジフライ定食は絶品だったが、その後に彼女が食べたいとねだった揚げカマボコバーはさらに美味かった。揚げ物を食べたばかりの腹に揚げ物を入れるのは苦しかったが。
ホテルの部屋には簡易サウナがついていた。彼女はそれを見るなり実験台とばかりに俺をサウナに突っ込んだが、サウナは一瞬にして高温になったので俺は耐えられずサウナを飛び出した。彼女はそんな俺を見て腹がよじれるほど笑っていた。
せっかくのサウナは結局使わず、互いにシャワーを浴びて部屋の灯りを少し暗くした。
あの旅行が、俺の幸せの絶頂だった。
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