鏡の中の瞳さん

水野 文

第1話

 二時限目が終わった休憩時間、あり得ないことが起きた。次の授業までのわずかな安らぎの時間に、彼女がやってきたのだ。教室の生徒は、彼女が話しかけた相手に注目している。それが僕である。多くの視線が僕と彼女に向けられていた。正直言えば、あまり好ましくない感じだ。


 彼女の名前は清水千夏きよみずちか。幼稚園以来の幼馴染みだ。とはいうものの、全ての学年が一緒のクラスというわけではない。小、中学校で同じクラスになったのは、たったの二回だ。赤い糸で結ばれているというドラマのような展開は無く、自分でもそれほど親しい仲だとは思っていない。じゃあ、いまはどうなのかというと同じ高校でクラスは隣ときている。ほぼ知らない仲と言ってもいい。それだけじゃない。僕は何より千夏が苦手なのだ。千夏は小さな時から何かと要領が良かった。同じ歳の子供より物覚えがよく、器用で、おまけに気が利いていた。先生にとっては理想の生徒だ。そのうえ、美人タイプときた。可愛いではなく美人だ。周りの女子でさえ、千夏を敵に回すことはしなかった。そんな完璧ともいえる千夏の相手をしようとは、とうてい思わなかった。


小林こばやしくん、現国の教科書を貸してくれない?」


 理由は分かった。隣のクラスの現国の授業は、僕のクラスより一時限早い。ゆえに教科書の貸し借りも成立する。ただ、大きな疑問が残る。なぜ僕から借りるのか分からない。休憩時間は短い。考えている間にも時間は過ぎていくし、何より周りの好奇な目が辛かった。僕は、現国の教科書を千夏に手渡した。千夏は教科書を持ち上げ、「ありがとう」と言ったかどうか分からなかったが、軽く頭をさげて教室を出ていった。見計らったようにチャイムが鳴り、その場は幕を閉じた。


 授業が終わり、教室が騒がしくなる。千夏が顔を覗かせていた。


「ありがとう、助かったよ」


 その一言だけで教科書を返してきた。笑顔の挨拶など期待はしていない。相変わらず素っ気ない態度である。


 千夏の印象は小さな時から変わっていない。半ば強引にとでもいうのか、自分の思いどおりに事を運ぶことにはけていた。実際、千夏に対して周りの人は何も言わずに巻き込まれていった。彼女にはそれだけの魅力があるのだ。僕はといえば、そんな魅力を持つ千夏には近づき難く、距離をおいて眺めていた。


 一度、その距離が近くなる出来事があった。幼稚園の演劇発表である。演目はシンデレラ。なにをどう転んだのか知らないけど、僕が王子様役に選ばれた。いうまでもなく、千夏はシンデレラの役を得ていた。


 一世一代の舞台だと喜ぶ親の期待にこたえるがため、家でも台詞せりふを覚えて何度も練習をした。千夏の家にも行き、お互い役をまねた衣装を着て練習もした。その甲斐あって、本番の一週間前には先生からも褒められた。


 なのに、なのにだ。千夏はその日のうちに王子様役をやると言いだしたのだ。当然、先生は説得したが、結局、千夏が王子様役となりシンデレラは他の女の子がやることになった。僕はといえば、シンデレラをいじめる次女の役におさまった。必死で覚えた台詞は、たった一行「お姉さん、舞踏会にいきましょう」に変わった。


 そんな間に合わせのような演劇にもかかわらず、千夏が演じた王子様にみんなの注目が集まり、終わったときには他の親たちからも拍手をされていた。僕が王子様のはずなのに、あれほど一緒に練習をしたのに、千夏が王子様の衣装を身につけて注目を浴びていたのだ。その光景は、幼い僕の心に爪痕つめあとを残してくれた。以来、千夏にはこちらから近づくことはしなかった。もう、千夏に振り回されて割を食うのは、嫌だったのだ。


 忘れかけていたことを思い出した頭を振りながら、現国の教科書を開けた。ページをめくると水についての論評が書かれている。読むだけで眠たくなるのだから、先生の話を聞けばなおさら心地よい現実逃避に誘われるはずだ。僕の目は、教科書に向けられていた。文字を読んでいるのではない。ある一か所に集中していた。教科書の左上にある少女のイラストだ。印刷されたものではなく、シャーペンで細い線を何本も描いて表現された少女の横顔を、僕は見つめていた。何かをジッと見ている少女。肩まである髪、キュと閉じている柔らかな唇、何より少女の瞳が僕を引きつけた。


「なんだよこれ」


 ふと我に返って、冷静になる。誰にも貸したことのない教科書にある手描きのイラスト。自分が描いたものでなければ、犯人は一人しかいない。


(ふざけてる)


 思わず消しゴムを持ち、少女の顔に滑らそうとしたが、消しゴムが触れる寸前に手が止まった。「もったいない」そう思ったのは事実であるが、それよりも遠くを見る少女の瞳が気になっていたという方が、手が止まった理由として正しかった。


(この子は、何を見ているのだろう。何を見てその表情をしているのだろう)


 僕の頭の中は、少女の瞳でいっぱいになっていた。おかげで現国の授業は眠気に襲われることはなかったが、先生の言葉は全く頭に入ってこなかった。


 翌日も現国の授業があった。僕は彼女がいるページを開けた。ちょうど授業をしているページだから、自然に会うことができる。昨日は、彼女の瞳の行き先を考察していたが、今日は違った。そもそも、彼女は何者であるのかという疑問が浮かんできた。まず、彼女の横顔は千夏が描いたのだ。だとすれば、これは千夏が知っている人物である。同じクラスの子なのだろうか。構図からすれば、千夏の左右どちらか前の位置になる。この子はそこにいるのだろうか。


 真剣に考えてみるが、自分のクラスでさえ全員の顔を把握していないのだから、隣のクラスのことなど知るわけがなかった。「もし、本当にいるのなら見てみたい」そう思う自分がいた。いや、この気持ちはなんだろう。そう、聞いてみたのだ。「その瞳で何を見つめているのか。どうして、何か初めて触れたような純真な顔をしているのかを」そんな言い訳をしながら、千夏が描いた少女の瞳に引きつけられていた。

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