第4話 焦げ臭くない街

 結論から言うと、僕たちが何らかの病気にかかっている可能性は消えてしまった。

 次の週の放課後、二人でバスに乗り隣街の耳鼻科に向かったはずだった。医院近くのバス停で降車した途端に、今までずっと付きまとっていたはずの灰の匂いが突然消えたことに気づいたのだ。

 二人で顔を見合わす——

「……センパイ、流石に私、怖くなってきました」

 お調子者の海未香の顔が段々と青くなっていく。僕だって同じ感情だ。

でも予約をしてしまったのはしょうがないので、診察だけは受けることにした。

 医師の先生に起こったこと全部話したけれど、途中からオカルト話を聞いているかのようなはてな顔になっていた。とりあえず、また来てくださいとのことだった。

 そしてまたバスに乗り……たくはなかった。久々の澄み切った空気。冬の寒さで絞られたような空気がかき氷みたいで美味しかったから、しばらくその状態を維持していたかった。

 公園のブランコに乗りかかる。僕らはずっと年甲斐もなく高い所までトばして、耳朶が痛くなるまで冷たい風を浴び続けた。

「そういえば、こんなんでしたねー、いつもっ」

「もう、帰りたくなくなっちゃったかい?」

「まさか、って否定できないのが、辛いところですねー」

 バスに乗ってる間に治ったなら最高の終わりだ。でもそれは一抹の望みで、家や学校がある町に帰った瞬間に熱気が戻ってくる可能性の方が高い。気がする。

 正直なところ辟易してる。慣れていってる自分が気味悪いし、身体が脅かされてるような不安にも駆られる。あのゴワゴワとした匂いが当たり前になってしまったことが既に気持ち悪い。だから、帰ってそれを確かめるのが怖い。

「でも今日、うちパパがケーキ買ってきてくれるんですよ」

「イチゴは?」

「最初に食べます……いやパパのことだからモンブラン買うんじゃないですかね。ちなみに、私はあのぐるぐるマロンパスタのことケーキだって認めてません」

「何の話―」

「……帰らないといけない理由ですよ」

 海未香はローファーの先を地面に擦り付け、徐々にブランコの速度を下げていった。

「ママはホントにごはん得意で、パパは仕事いっぱい頑張って、それでも余裕そうにおやつ買ってきてくれるんです。私割と甘やかされてるって自覚あるんですけど、でもちゃんとありがとうって思ってるんです。でも」

 完全に動きを止めた海未香に合わせて、僕もブランコを止めた。

「美味しいもの用意して待ってくれてるのに、焦げ臭いせいで嬉しくなくなって……それで、なんか、ちゃんとありがとうって思えなくなってるの、キツイんですよ」

 ……前に喫茶店行ったときは、本当に美味しそうにパフェを食べていた。見ているこっちも笑ってしまいそうなぐらいに。だからあの笑顔が作り笑いだとは思えない。

「あのですね、先輩。ホント、今空気良すぎて、色々出ちゃいそうだから言うんですけど」

 いつも顔を見合わせて話しかけてくるはずの海未香は、このときだけは髪の毛で横顔を隠していた。誰にも見せたくないかのように。明るい素振りをしていた彼女の声も段々と引き攣っていき、小さくなっていった。その言葉を確かに耳に聞き入れようと、少しだけ海未香の方に寄る——

「あの、匂い。多分——私の家が、一番濃いです」

「え……?」

「濃い、だけじゃなくって。もうずっと、今まさに燃え盛ってる最中みたいな状況で、苦しくて……帰りたいのに、帰りたくないって言うか」

「それは、いつからなの」

「わからないんです」

「わからない?」

「いつのまにかそうなってたんです。私が生まれたときからそうだったみたいに……実はあれが普通で、おかしいと思い始めた私の方がおかしいんじゃ、って。パパもママも全然気にしてないし」

「それはちゃんと両親の方には言ったの」

「……」

 なるほど……ますます、不可解度が上がった。海未香が実は家族に対して大きなストレスを抱えていた、とかならまだ原因の探りようがあるだろうけど。特定の場所でだけ、匂いが強くなる。それらが海未香にとって関わりが強い場所であったなら考えやすい。だけど、海未香が常連だった喫茶店に初めて訪れたはずの僕も同様に濃い焦げ臭さを嗅ぎ取れたことがますます謎を深ませてくる。

「今日は、このまま?」

「帰りますよ」

「……口を出せる立場ではないのは承知だけど、今日ぐらいは泊ってもいいんじゃないの。くま酷いよ」

「え、隠せてなかったですか」

 慌てて目元を隠す海未香。

「このまま帰っても余計悪化すると思う」

「……そう言われましてもね」

 倒れてしまいそうな危ない足取りで、海未香は地面に置きっぱなしだったカバンを持ち上げた。

「パパとママに心配させるのが一番嫌いなんですよ」

「僕の勘違いだったらあれだけど……海未香。色々、一人で背負い込んでないよね」

「まさか」

 そう返した海未香の顔が作り笑いだってことは見るからに明らかだった。

「念のため聞くけど、今日病院に行くって話はちゃんと両親には言ってるんだよね」

「……」

「……そういうことね」

 仲が良すぎるからこそ、変に気をつかってしまっているようだった。

 そして、カバンを片手にひらひらと公園の出口へと足を向ける。

「やっぱり帰りますよ。寝たら治ってるかもしれないですし! 今日こそは!」

「待って海未香」

 立ち上がって追おうとするも海未香は逃げるように歩いていく。その後ろ姿を見て、なんとなくこれ以上海未香を止めようとするのは行き過ぎじゃないかと思って……小さすぎる懸念で、何も言えなくなってしまった。

 夏の暑さとも火の熱さとも遠い、柔らかい粉雪がまだ降り続ける、それは寒い夜の公園での話だった。

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