最後の春、焦げ臭い校舎にて。
境 仁論(せきゆ)
第1話 焦げ臭い教室
気づいたときには、いつの間にか、周囲が焼け焦げた匂いで充満していた。
「——也。夕也——
「あっ……はい!」
先生の声で感覚が引き戻される。目を窓から教卓の方へ戻すと、先生は如何にも不思議そうな顔で自分を見ていた。
「気抜けてんぞー。もう進路決まってるからってー」
「すみません、気を付けます」
気楽そうな注意に小さく会釈する。小さく笑った彼は気を取り直して生徒の名前を呼び続けていく。そして、隣、前後の席……果ては教室の一番隅っこの席に座る同級生から、小さな敵意のような視線を向けられた。
「えーっ、みんな大変だと思うけど、副職とかせずに、ちゃんと授業聞いてな、試験に繋げるようにしような。先生の話なんて聞いてられんとは思ってるだろうけど、俺たちもみんなに合格してほしくて必死なわけだからさ」
そう言い残して朝のホームルームは終わり。一時間目は移動もなし、この教室での授業なのですぐにみんな準備に取り掛かる。
改めて教室中を見渡すとクラスメイトの三割ぐらいは登校していない。どれも先に合格を決めていった同級生だ。基本的に学校に来るのはまだ試験の始まらない国立志望の人たちで、私立とか推薦で決まった人は学校側からも登校義務が解かれている。一応僕もそれに該当してはいる。
けど、それでも学校に通い続けてるのは単に自分がクラス委員長だからってだけだ。卒業するときまで、その責任を全うしておきたい……というのは建前で、本当は残り少ない学校生活を最後まで送っていきたいという、余韻めいたものが理由なのかもしれない。そりゃ、クラスメイトから嫌味を言われる羽目になってるけど。
でも今日は、そんな青春の終わりには似つかわしくない異様なナニカが鼻腔を支配していた。
「……ねえ、最近さ」
「なに?」
「教室、焦げ臭くない?」
「……はあ?」
「なんか、急に灰みたいな匂いがさ」
「知らないよ」
ぶっきらぼうに返される。
周りを見るもみんな教科書に向かってばかりで、誰もこの匂いを気にかけていないみたいだった。なんなら先生だって入室してから一度も触れずにホームルームを終わらせた。
「……はい、授業始めますよー」
世界史の先生が入ってくる……も、この匂いには一切触れない。そのまま、何事もないように授業が始まる。
本当に僕だけしか気づけていないような状況で、少し不気味だった。
黒板を走るチョーク。いつまでも低調なままの先生の解説。ノートを開く音。カチャカチャと筆箱を漁るような音。
僕も何となくノートを開いてはいるものの、内容自体はもう習ったもの。基本的には昔やった内容の繰り返し。退屈……じゃない。こういった静かな教室の空間が、いつかは帰りたい記憶になると思うと家にはいられなかった。
カチカチとシャープペンシルが芯を伸ばす音が連続する。
こうして聞こえる音を、先生の話を半分も聞かずに拾っていた——でも、やっぱり今日はやけに気になってしまう。
喉をひりつかせるような火の匂い。
パチパチと焼け落ちる何かの音が、僅かに空気中に紛れ込む。
幻聴……幻想。この三十分の中だけでも数回、夕方の暗くなった教室を幻視した。窓の向こうで、揺れるようなオレンジが教室を彩らせる。
ゆらゆら、パチパチ、ぼうぼう、うわあ。
首を振る。
……ダメだ。今日は全然話を聞けない。保健室? いや、体調が悪いわけじゃない。そこまでする必要は、ないだろう——.
自習。すっかりそんな時間も多くなってしまった。去年だったら教室に活気があって、隣の教室から先生が怒鳴り込んできたものだったけれど、今は活気というより、熱気の方が籠っている。いや、僕がずっと感じてる焦げ臭さの方ではなく。試験が近いという緊迫感の方だ。本当にみんな静かにチャートを解いていて、なんとなく居心地が悪い。一応何人かが僕に質問しにきたりするので暗い気持ちになってしまうことはないのだけれど。
席を立つ——トイレに行く素振り。ずっと同じ場所にいると、自分の妄想に自分から焼かれそうな気がしたから。
廊下を歩いていても聞こえるのは先生方の声ばかり。すっかり人の賑わいがなくなって、それこそ死に際の静けさのような寂寥を覚えてしまう。
「お」
掲示板に今月の学校新聞が貼られてる。うちの学校の新聞部、今の部長になってから結構過激だからな……その分内容も段違い面白くなったけど。確か、音琴千咲、って子だったかな。一年生のうちに部長になってそこから今年も続投か。それまでの経緯は噂程度で小耳に挟んではいるけど……しぶとく生きそうな子、というイメージがついた。
『期待の新2年生! その目的は!?』
……二年生の方に転校生が来たのか。変な時期だけど。今月号はひたすらにその子を特集してるみたいだ。写真を見ると帽子を深く被っていて如何にも気が弱そうな女の子だけど、ちゃんと許可は取ってるのかな。
……僕らが卒業しても学校そのものが無くなるわけじゃない。次の世代たちが僕らの教室を引き継いで、同じように次の一年間を過ごしていく。そうわかってはいても寂しさは拭えないままで、廊下を振りむいた。歩いてきた道を思い出すように。
それは、白い道だった。真っすぐで、無機質な。でも思い出しかない場所だった。
同年代で犇めき合っていたはずの廊下。それが今は、広く感じられる。
「……うっ」
幻視——まただ。また、よくない光景と匂いだ。
白かった廊下が瞬く間に燃え広がって、吸う空気全部が燃やされて……最悪に焦げ臭い。咄嗟に口を覆うも一秒後にすぐ嘘だと自覚する。
「ほんとおかしい……」
やっぱり休んだ方がいいかもしれない。大人しく保健室に……
「おっはーユーヤ」
「ん……おはよう、え」
聞きなれた挨拶に振り向いた。でも、周りには。
「……あれ?」
誰も、いなかった。
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