Jelly Cute Fish

刀柄鞘

第1話

Jelly Cute Fish



「ねえ、そこの可愛いお姉さん。こんな時間に一人で歩いてたら危ないよ。終電大丈夫? もしないんなら俺の家、近いんだけど来ない? もしもーし、聞こえてない?」

 無視無視無視! 目も合わさない、声も出さない、何も反応しない! ただ歩いて素通りが鉄則。ほんとにもう終電も危ないし。

 久しぶりのナンパに遭遇しながら、私は心の中で対処法を唱えた。肌寒くなってきた秋の夜でも鳴き続ける男達の姿はまるで鈴虫みたい。風情なんて欠片もないけど。

 大学の頃の友達と飲んだ帰り道。帰りを切り出せず、いつものようにずるずるとノリに流されこんな時間になってしまった。

 時刻ももう日を跨ぐ直前だというのに、渋谷の明かりは一向に消えそうな気配もなく、耳に届く喧騒は寧ろ、人の多い昼間よりも喧しいくらいだ。

 こっちに来て五年。もう対処にはある程度慣れた。けど一人でこんな時間に遭遇するのは初めてで、しかもこの人、圧があるっていうか、ちょっとしつこい……。

「ちょっとお姉さん、つれないね」

 そう言いながらナンパ男は私の進路を塞ぐようにして壁に手を押し当て、強引に私の歩みを止めてきた。

 さっきまでは面倒くさいなくらいに思ってたのに、ここまでされるのは初めてで、自分の体が一気に冷めていくのが分かった。

「終電だから急いでるの? 俺の家ならゆっくりで大丈夫だから、ほら」

 男が私の右手首を掴んでくる。私の都合などお構いなしというように。

「ちょっ、や、やめてくださいっ」

 咄嗟に掴まれた腕を振りほどく。ここで抵抗しないとダメだと思い、なんとか声を絞り出しながら。

 睨みつけるように見上げた男の顔は、まるでおもちゃを取り上げられた子供のようで、思い通りにいかない不機嫌を隠すことなく、私を見ていた。

 けれど中身はどうあれ、相手は大人の男性。私の中から恐怖が消えることはない。

「いいから、ほら、一緒に来てよ」

 ただ取り繕うだけの、苛立ちを隠せない笑顔のまま、男はまた、私の腕に手を伸ばしてくる。その顔と腕に怯えた私の体は硬直し、抵抗しない私の腕を男が掴もうと──。

「もー、こんなとこで何してるの? せっかく迎えに行くって連絡したのに」

 男よりもほんの一瞬、甘い声と共に、私の左腕に何者かがすごい勢いでしがみついてきた。何も構えてなかったので勢いのまま右側に倒れそうだったが、なんとか踏ん張り、声の主の方へ顔を向ける。

 そこには一人の少女がいた。水色と白を基調としたフリルの多い服に身を包み、鼻は高く、ぷっくりとした唇と涙袋にたれ目気味のメイクは、いわゆる天使界隈というのが一目で分かる。

 高めのゆったりとしたツインテールに、少しウェーブがかった触覚、私から見て右方向へふんわりと流された前髪は天使というよりも、まるで広大な海を揺蕩うクラゲのようで、所々に施された触手のような水色のメッシュは、触れれば痺れてしまう、そんな危うさを孕んでいる気がした。

 もちろん私はこの子とは知り合いじゃないはずなのだが、彼女は優しく、けれども一向に腕を離そうとはしてくれない。すると彼女は突然正面に立って、抱き着くように私の首に手をまわし、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 何が起きているのか分からず、段々近づくその美貌に、緊張した私は目を逸らすことしかできない。

「困ってるんですよね。私に合わせてください」

 顔を横に向け咄嗟に目を瞑っていた私の耳元から彼女の小さな声が響いた。その言葉でようやく彼女の真意に気付いた。ま、まあ、こんなきれいな顔がゆっくり迫ってきたら誰でも緊張しちゃうでしょ。

「ねえ、早く帰ろうよ。それとも何、この男について行こうとしてたの? もしかして浮気?」

 彼女は顔を少し離してからそう言うと、ナンパ男を睨みつけた。

「え、え? いや、そういうのじゃなくって」

 ナンパ撃退の十八番とはいえ予想外の設定に、私の挙動は完全に彼女に浮気を疑われうろたえる人間そのものだっただろう。ここまでの演技ができたら、もしかしたらどこかの主演女優賞も狙えるかもしれない。

「へぇ~、君たちってホントに恋人なの? もしホントならキスとかできるよね」

 下卑た笑いを浮かべながら、ナンパ男はお決まりのセリフを口にした。マンガとかではよく見るけど、まさか本当にこんなことを言う人がいるなんて。それにナンパ男もこんな状況に慣れているのか、勝ち誇ったような薄ら笑いを続けてこちらを見ている。

「はぁ~、しょうがないな」

 その声は私の耳元、つまりは現在進行形で私を助けてくれている、見ず知らずの彼女から発されたものだった。

 咄嗟に視線をナンパ男から彼女の方へ切り替える。視界の端に映るナンパ男も驚いたようで、薄ら笑いが完全に消えるようだった。

「見世物なんかじゃないけど、そこまで言うなら」

 そう言うと彼女は先ほどのようにゆっくりと、けれど私の唇に自らの唇を重ねようと真っ直ぐと迫ってくる。え、ちょっと、私たち赤の他人なのに! まだ心の準備が!

 意を決したのか現実から逃げるためか、私にも分からないまま体が反射的に目を瞑る。

 直後。「ぐえ」と潰れたカエルのような悲鳴と共に、ナンパ男がうずくまった。

 彼女の右足が、男の一番の宝物めがけて振り上げられたようだ。私たちには一生計り知れない痛みが直撃した男は、何とか倒れることなく踏ん張るも、患部を押さえつけたまま動くこともままならないでいる。

「さ、言い訳は家で聞くから。行こ」

 それだけ言って彼女はその場を立ち去るために私の腕を引いて歩き出す。一瞬振り返って中指を立ててた気がしたけど、見なかったことにしておこう。

「あ、あの、助けてくれてありがとうございます」

 私の言葉に、少女は歩きながら顔だけをこちらへ向けてにっこり微笑んできた。

「全然いいですよ~。あ、でも、一つだけお願って言うか……」

 もうナンパはいないのになぜか私の腕をつかんだまま、少女は上目遣いで媚びるように私を見つめてくる。その瞳は綺麗な二重瞼でぱっちりと開かれ光を反射しているはずなのに、これ以上覗き込むと吸い込まれそうで──。

「今日、お姉さんの家、泊めてくれないですか?」

 は?


 いつも通りの手つきで鞄から鍵を取り出し、扉を開ける。いつもと違うのは、私より先にドアをくぐる人間がいることだ。

 結局あの後、終電に間に合うよう小走りで改札を通ると、当然のように彼女はついてきていた。曰く、

「誰かさんのこと助けてたら終電なくなっちゃって。タクシーで帰るお金もないですし。それに、もう改札通っちゃったんで、ね?」

 とのこと。

 そんなこと言われても、私だって今日会った人を家に上げるのは抵抗あるし、それに親御さんだって心配するだろうからと、タクシー代を渡そうとしても、

「あ、私今大学通うために独り暮らしなんで大丈夫ですよ。お姉さんもお金勿体ないですし。それに、戻ったらさっきの奴に会うかもしれないじゃないですか? まさか、一人でどこかに寝泊まりしろなんて言わないですよね?」

 私とほぼ身長の変わらない彼女が顎を引き、少しひざを折って、わざとらしく上目遣いで問いかけてくる。ぴえんの顔文字そっくりだ。

 ここまでされたらもう私には断り切れず、流されるように家まで連れてきてしまった。

「ごめんね海月みつきちゃん、あんまり広くなくて」

「全然気にしないですよ、美穂みほさん。っていうか、一人暮らしにしては広い方ですね」

 施錠をしながら、私は彼女、海月ちゃんへ声をかける。リビングと廊下を隔てるドアを開きながら、海月ちゃんは返答をした。

 帰りの電車の中でお互い簡単な自己紹介をした。苗字こそ教えてくれなかったものの、彼女は名前までクラゲで、実は本当にクラゲなんじゃないかとさえ思ってしまったのは内緒だ。私だって、何かクラゲに恩返しされるようなことをした記憶もないし。

「お父さんが過保護でね。『美穂には安全で快適に暮らしてほしい』って。だからオートロック付きのこんないい部屋に住まわせてもらってるんだ」

「美穂さんは……愛されてるんですね、お父さんに」

 彼女の言葉と偽りの笑顔に、私は何も返せず、一瞬気まずい空気が流れた。初めて会った人を家に上げてるだけで変な気分なのに、この空気は耐えられない。

「あ~、ちょっと空気悪くしちゃいましたね。そんなに気にしないでください。自虐ネタみたいな感じですから」

 気の知れない相手の自虐ネタは笑えない。友達でもたまに笑っていいか微妙な時もあるのに。でも海月ちゃんも触れて欲しくなさそうだし、ここはスルーすべきだろう。ブレーキをかけながら話題のハンドルを思い切り回し、気まずさの崖をギリギリで曲がりに行く。掟破りの地元走りは私にはまだ早い。

「そ、そう? なんかこっちもごめんね。シャワーだけでいいなら先に入って。廊下に出て右側のドアだから。あ、メイク落としとか、洗面台にあるの何でも使っていいからね。服とかも用意しとくから」

「ありがとうございます」

 それだけ言って海月ちゃんはリビングから廊下に通じるドアを開けた。しかしそこでふと立ち止まり、悪戯っぽくこちらを振り返り微笑んだ。

「あ、もしかしてこれ、そーゆー意味ですか? それなら一緒に入ります?」

「なっ、ち、ちがうから。いらないなら私だけで先に入るけど⁉」

「あははっ。ごめんなさい、冗談ですよ。あ、でも家に連れ込んだからって、のぞきとか絶対やめて下さいね」

「そんなことしないってば!」

 私の言葉を聞いて、彼女はドアを閉めお風呂場へ向かっていった。ギリギリで崖を曲がり切ったと思ったのに、まさかS字カーブだったなんて……。

 海月ちゃんがシャワーを浴びている間に、タオルや寝間着、寝るところを用意していると、三十分もしない内に、彼女は乾ききってない髪にタオルを乗せ、リビングに戻ってきた。

「シャワー、お先にありがとうございます。……どうかしました?」

 彼女は首を傾げ私を見つめてくる。

「いや、なんだか印象変わったねって思って。あ、もちろん悪い意味じゃなくて、可愛いのは可愛いんだけど、その、なんかカッコいいっていうか、凛々しい感じなんだね」

 女の子のすっぴんについて何か言うのが失礼なのは分かってる。私だって、いくら同性でも知らない人に、もし褒められたとしても、純粋にいい気分になるとは言い切れない。それでもつい口から出てしまうくらい大きく印象が変わった彼女は、可愛いというよりも、キレイになっていた。

「あ~、そうですよね……。やっぱり美穂さんもそう思いますよね……」

 ごまかすように笑いながらも少し俯いた彼女の表情が、私が地雷を踏み抜いたことを物語っている。しかも、さっきよりも大きな地雷を。

「そ、そうだよね。ごめん、急に。あ、えっと、その髪、やっぱり、メッシュだったんだ。初めはてっきりエクステかなって思ってたんだけど。すごい、可愛いよね~……って?」

 恐る恐る、探るように話題を変える。地雷除去機に生まれ変わったら優秀であろう今の私には、気まずさを回避するために牛歩の如く会話を続けるしかない。

「あ、そうなんですよ、これ。最近染めてみたんです」

 海月ちゃんの声色が戻った気がした。どうやら今度こそ地雷は回避できたらしく、一安心だ。

「私、昔から可愛くなりたくて。だからイメチェンって感じで、可愛い服に合うようなメイクも頑張って、思い切って髪も染めて。可愛くないですか? クラゲみたいで」

 そうやって聞いてくる海月ちゃんの緩んだ表情は、とても穏やかで。思えば会って二時間も経ってないくらいだけど、彼女の純粋な笑顔は初めてだ。私を助けてくれた時も、からかってきた時も、さっきだって、私には作った笑顔に見えた。でも、今向けてくれた表情が、きっと彼女の本当の笑顔なんだろう。

「うん、めちゃくちゃ可愛いよ。私もクラゲみたいだって思ってたし」

 私の素直な感想を聞いて、彼女は小さな声で「ありがとうございます」と呟き、ほんの少し顔を逸らした。

「それじゃ、私もシャワー浴びてくるね。ベッドでも布団でも、好きな方で寝てていいから」

 部屋の隅にある私のベッドと、その隣に用意した布団を指差し、これ以上変なことは言わないようにと、私は海月ちゃんを一人残して、一日の汚れを洗い流しに行く。

シャワーを浴びている間は考え事が捗る。半自動的に体は動くし、目を瞑るから外からの情報も入ってこない。強いて言うなら、ただ一定の水音が私の鼓膜に伝わるくらいだ。

 なんだかおかしな出会いだったけど、あまり海月ちゃんのことを悪い子だとは思えない。もちろんナンパから助けただけで他人家に上がろうとするのはちょっと変な話だが、私のせいで帰れなくなったわけだし、一人暮らしの大学生ならこんな時もあってもおかしくない。というかむしろ心配になる。知らない人の家に上がるのもそうだけど、それだけじゃない。でも、それは部外者の私にはどうすることもできない。分かりきっていることだ。

 いや、それよりも明日の心配だ。自分はもちろん、海月ちゃんは学校はどうするんだろうか。流石に家にいられるのは困るし、でも八時には私も出ちゃうしな。まあそれまでには海月ちゃんも起きてくれるか。ってか今何時だろ? たぶん一時半くらいだよね……。爆速で用意しても五時間くらいしか眠れないじゃん。……まあ帰るって言えずに流された私が悪いけど。

 現実に戻ってきた私は、多少雑に寝るまでの工程を済ませ、できる限り多くの睡眠時間を確保するべくリビングへ戻った。

「あれ、海月ちゃんまだ起きてたんだ。ならちょうどよかった」

 戻ると、海月ちゃんは私のベッドに腰かけ、スマホをいじっていた。

「なんですか?」

「いや、明日、っていうか今日のことなんだけど、私八時にはここ出るから、一緒のタイミングで出てもらってもいい?」

「そうですよね。もちろん。八時には出るんですね、分かりました」

「ありがとうね。それじゃもう電気消すけど、ベッドと布団どっちがいい?」

 言いながら、私は自分のスマホのアラームをセットする。

「布団で大丈夫です。美穂さんはしっかり休んでください」

「ごめん、じゃあ私がベッド使うね」

 まさか気を遣ってくれるとは思ってなかったからちょっと驚いたけど、私は彼女の優しさを受け止めることにした。

「いえ、こちらこそ、家に上げていただいて」

「まあ、初めこそ抵抗あったけどそんなに気にしてないから大丈夫だよ。それじゃおやすみ」

「おやすみなさい」

 電気を消し、部屋には暗闇と静寂が訪れた。お互い変に気を使わないようにと、私は布団と反対側、壁の方を向いて包まるように横になった。

 やっぱり、海月ちゃんの印象は、私の中で大きく変わった。服の印象もあったと思うけど、会った時やここに来たばかりの時はちょっとうるさくて変なからかいをしてきたりする、あんまり関わってこなかったタイプだと思ってた。でも、シャワーから出てきてから、メイクを落としてからの彼女は、虚飾が剥がれたみたいに大人しく、育ちが良さそうな雰囲気さえあった。

 彼女のことは気になるけど、きっと関わるのも最初で最後だし、彼女も同じことを思っているはず。ただ偶然助けてもらった、変な人。彼女からの認識もそれぐらいだろう。むしろ地雷を踏み抜いたんだし、嫌われてたっておかしくない。

 いつもみたいに、深く考えず、ゆったり生きていけばいい。彼女と会うのも、彼女と別れるのも、そういう流れだったっていうだけだ。

 私はそこで思考に蓋をして、眠りに落ちるのを待つ。早く寝たいときは決まって海を想像する。波が寄せ、引く。揺れて、流れて、力も要らない、考えも要らない。浮いているのか沈んでいるのか。ただ、果てしなく広い世界を揺れているだけ。

 眠りに沈んでいく私のお腹に、小さなクラゲの触手が二本。抱きしめるようにまとわりつく。否、これは腕。求めるように力強く、弱弱しい程優しい、海月ちゃんの腕だ。

「どうしたの? 海月ちゃん」

「……ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとう」

 私を抱きしめて離さない海月ちゃんの腕をさすりながら、私も言葉を返した。

「……いえ、そうじゃないんです。こんな私を見てくれて、可愛いなんて言ってくれて、ありがとうございます」

 私に巻き付く彼女の腕の力が、ほんの少し強くなった。

「可愛い子に可愛いって言うのは当たり前でしょ。特に頑張ってる子は可愛く見えるの。あ、もちろん、メイクしてても、してなくても、どんな海月ちゃんでも可愛いよ」

「……私からしたら、美穂さんも可愛いですよ」

 海月ちゃんの呟きは確かに私の耳に届いたけど、何も聞こえなかったふりをする。

「じゃあ、おやすみ」

「はい」

 初めて会った人でも、褒められれば純粋に嬉しいこともあるんだと、それを知れた不思議な日だった。

 翌朝、アラームで目が覚めると、私のベッドに潜り込んでいたはずの海月ちゃんの姿はなく、家中どこを探しても、彼女はいなかった。あれは酔いが見せた幻だったのかとも思ったけど、綺麗にたたまれた寝間着と、机の上に置かれた置手紙が、私の記憶を真実にしてくれた。置手紙には『始発で帰ります。ありがとうございました。』と、デフォルメされたクラゲの絵が、薄くも丁寧な字で書かれていた。


 人生に一度、しない人の方が多いような体験を、私はした。でも、何か大きなものが得られたわけでも、生活が激変するわけでもなく、私は今日も、ただ揺られるように日々を過ごす。

「次は渋谷、渋谷。お出口は右側です。東急……」

 揺られて押されて、辿り着いたのは渋谷駅。

 半年前のあの日から変わったことといえば、ぼんやりと彼女の影を探すようになったことだろう。海に浮かぶクラゲのようなあの姿を。

 乗り換えまでの短い道のり。けれど、私があの子と出会ったのも、この道だ。

 彼女のことが気になっているのかも分からない、多分、久しぶりに再会してもあまり話すこともないだろう。そもそも三時間足らずしか話したことのない彼女を、果たして知り合いと呼べるのかさえも怪しい。でもなぜか、私の目は彼女の影を追っていた。

「ねえ、そこのお姉さん。今日、お姉さんの家行ってもいい?」

 若い女性の声が聞こえた。変な誘い文句だな、なんて思いながらも、見向きもせずにその場を通り過ぎようとした。けれどその発された甘い声は私の記憶の海をたどって、私の体を振り返らせた。

「ね、早く帰ろうよ。それとも何? もしかして浮気?」

 そこに立っていたのは間違いなく海月ちゃんだった。しかしその様相は大きく変わっていて、服は全身黒のコーディネート。メイクもほとんど施さず、大きな触手にも思えた高めのツインテールは重力に従いあるべきところに下ろされ、あの水色メッシュまで黒に染まっていて、面影らしい面影は、右方向へ流された前髪と触覚、美人という印象を与える整った素顔、そして声くらいだ。

「久しぶりだね、美穂さん」

 海月ちゃんの浮かべる表情は、どこか作られたような、引き攣った笑顔で、何かがあったことを察するのに時間はかからなかった。

 けれども私は努めて明るく振る舞う。触れることが正しいのか分からなかったから。

「うん、久しぶりだね海月ちゃん! 今日はどう──」

 そんな私の言葉を遮るように、抱き着いてきた海月ちゃんの体は、静かに震えていた。


 玄関を開き、海月ちゃんを家の中に入れる。うちに着くまで、海月ちゃんとは一言も話すことはなかった。気まずい空気が耐えられないけど、もし前みたいに、何か海月ちゃんの大事な部分に踏み込んでしまったらと考えると、話しかけることさえできなかったから。

 リビングへ行っても相変わらず彼女は何も話しかけてこない。ただ、ベッドを背もたれに、床で三角座りをして正面を向いているだけ。けれどその瞳の端には、真珠のように大きな粒ができていた。

「ねえ、海月ちゃん。何があったの?」

 私は美月ちゃんのすぐ隣へとベッドに腰かけ、声をかける。きっと家庭のこと。しかも、彼女の服からするに、私には本当に何もできないことかもしれない。でも、家にまで上げて、彼女のことをほっておくなんてことはできなかった。

 少しの間私たちを満たした沈黙は、私の素っ頓狂な声で泡のように消えた。

「キャッ」

 何も言わず座ったままだった海月ちゃんは、急に立ち上がったかと思うと、いきなり私の両手首を抑え、ベッドに押し倒した。

 一定の層に需要があるこのシチュエーションも、相手が女の子で、しかもさっきまで泣いていた子ともなれば誰も手放しで喜ぶことはできないだろう。かくいう私も、だ。

「海月ちゃ──」

「美穂さん。私のこと、抱いてくれる?」

 何も言えずにいる私へと、私の顔に落ちるその粒が、痛みさえ覚えるその握力が、彼女の言葉の重さを物語る。

「ねえ、美穂さん言ってくれたよね。可愛いって。どんな私でも可愛いって。ねえ。だったら抱けるでしょ。お願い。お願いします……」

「ちょ、ちょっと一回落ち着いて、ね? そうだ、一緒にシャワーでも浴びよ。ほら、前言ってたでしょ」

 唐突な言葉に私の頭は上手く追いつかない。それでも彼女をはねのけようとすると、力を入れづらいはずの体勢なのに、驚くほど意外に、海月ちゃんの手を振りほどけた。

「あ、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 手を振りほどかれた海月ちゃんは、怯えるように、俯きながら震えた体で言葉を繰り返している。

 そんな彼女をなだめるように、私はベッドから起き上がり、彼女を包むように抱きしめる。それでも彼女の震えは止まらず、私にはただ背中をさすり続けて待つことしかできなかった。

 五分程経ってからようやく震えも収まりだし、彼女の呼吸も落ち着いていった。

 それを見計らって、私はもう一度海月ちゃんに声をかける。

「何があったか、教えてくれる?」

 私の言葉に反応してコクリと頷く海月ちゃんを見て、私も少し安心した。

「急にごめんなさい。でも、私、もううちに帰りたくなくて」

 落ち着いたとはいえ、まだ涙ぐんだ海月ちゃんの声が、嫌に痛々しく私の胸に刺さる。

「前にも言いましたけど、私、昔から可愛くなりたいんです。でも、母は私にそれを許してくれない。生まれた時から父はいなくて、女手一つで私を育ててくれたんですけど、男に目をつけられないように、女の子らしくない恰好をするようにって。挙句、男と関わらないようにと、中学校からは殆ど強制的に女子校に行かされました」

 黙って彼女の話を聞く。それが私にとって、今とれる唯一の間違いじゃない選択肢だと思う。

「もちろん学校は楽しかったんですけど、それでも私の鬱憤は溜まっていきました。高校に入ればクラスの皆がメイクも覚えてくる頃なのに、母はそれすら許してくれない。それがもう、私には限界でした。母の目を盗み、学校も休んで、なりたい私になろうって。密かに練習していたメイクをして、可愛い服を着て、髪も染めて」

 話してるうちに落ち着いてきたのか、海月ちゃんの言葉からは震えが消えていた。

「そうやって家を飛び出して、これからどうしようって。そんな時に、美穂さんに出会ったんです。あの日、美穂さんはただ純粋に私のことを可愛いって言ってくれた。素顔を見ても、どんな私でも可愛いって。その言葉だけで救われた気がして、でも家に帰ったらすべてが元通り」

 そう言いながら海月ちゃんは長く垂れたきれいな黒髪を手で掬い上げて見つめては、離した。

「私、もう嫌なんです。もう、帰りたくない」

「でも、もう海月ちゃんは大学で一人暮らしなんでしょ? じゃあ、もう自分の好きなようにできるんじゃないの?」

 今にもまた泣き出しそうな彼女を慰めようと、けれど私には上手い言葉が見つからずに、とりとめのない言葉だけを放ってしまった。

「それも、言わないとダメですよね。ごめんなさい。実は私まだ高校生なんです」

 海月ちゃんの話と状況から薄々分かってはいたのに、やっぱりわたしは衝撃を隠せず、言葉に詰まる。

「あの日だって、美穂さんを助けようとしたんじゃなく、泊まる場所を見つけたと思って、この人なら何とかなるかもって。今日だって、美穂さんなら助けてくれるだろうって。最低ですよね私。ただ自分のためだけに美穂さんに近づいて、あのナンパ男と一緒ですよ」

「そんなことないよ」

 俯きながら、懺悔するように吐き出した海月ちゃんの言葉を、私は否定する。

「そりゃ、びっくりしたよ。ていうかびっくりしてる。海月ちゃんが未成年ってことは、私は今まさに誘拐犯ってことだ」

 暗い空気を吹き飛ばすために、私は精一杯言葉を選んで明るく振る舞う。でも、彼女に嘘はつきたくない。彼女に示すためにも。

「……」

 けど海月ちゃんは何もしゃべらず、ただ俯いたまま。やっぱり私はこういうのがへたくそだ。

「でも、海月ちゃんが私を助けてくれたことは事実だし、そのおかげで私は海月ちゃんに出会うことができた。海月ちゃんは自分のことを責めちゃってるのかもしれないけど、私はそんなこと思ってない。私にとってはどんな海月ちゃんでも、可愛いし、好きだよ。だから、自分のことを責めないであげて。」

 俯いたままだった海月ちゃんがゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめてくる。

「でも、美穂さんにそう言ってもらっても、私はもう家に帰れない。帰りたくない! それとも、私が成人するまでここに泊めてくれるの⁉」

 感情任せに叩きつけられた言葉は、今までずっと美穂ちゃんが吐き出せずに溜まっていた言葉なんだと思うし、その気持ちも理解できる。けど、大人として、私は彼女に道を示さないといけない。流されるだけじゃダメなんだ。

「それはダメ。海月ちゃんなら分かるでしょ。もし、というか確実にバレるけど、そうなったら私が警察に捕まって、海月ちゃんも家に帰される。そんなんじゃ何も解決しないよ。むしろそれなら、海月ちゃんだけが我慢してた方が、私に迷惑掛からないよ」

 海月ちゃんは何も言い返せず、ただ私を見つめてくる。その瞳の中にはもう怒りはない。ただ悲しみと、絶望だけ。私にはそう見えた。

 でも、今更私が海月ちゃんを見捨てることなんてできない。私だってもう犯罪者だし、ここから穏便に済ますには……。

「だから一度、話をしよう。海月ちゃんのお母さんと」

「でも、母はもう私の言うことなんてきっと聞いてくれない。大好きだった、美穂さんに褒めてもらった髪だって、染めさせられたから」

 自分の髪を撫でながら、海月ちゃんは思いの丈を吐露する。

「でも、私が可愛いって言ったのは、髪だけじゃない。顔だけでも、服でも。海月ちゃんそのものが、可愛いんだって、そう言ったんだよ。だからお母さんも、きっと分かってくれるはず」

「そんなはず──」

「お母さんは、今の海月ちゃんを見れてないんだよ。それがあなたのためだと思って。だから見せてあげて。ずっと避けてきた、今の海月ちゃんを」

 私の言葉に、海月ちゃんは納得したようで、少しして落ち着いてから、自分のスマホを手に取り、電話をかけ始めた。

「もしもし、お母さん。うん、私。うん、ごめんなさい。それで、大事な話があるんだけど明日──」


 翌日。私たちは水族館にいた。ガラガラの電車に揺られながら到着したが、平日の真昼間ということもあってか、ほとんど人がいない。

 仕事は休ませてもらった。今朝の急な連絡で申し訳ないけど、病気だから仕方ないはず。思えば私、今まで一度も仮病なんてしたことなかったな。学校は行くものだって言われてたから、ずっとなんとなくで学校行ってたっけ。

 チケットを二枚、大人用と高校生用のものを買い、入場する。親子には見えないだろうけど、私たちはどう思われているんだろうか。姉妹にしてもこの時間は変だし、変質者、なんて思われているかもしれない。まあ、実際今は犯罪者ではあるんだけども。

 水族館に入っても、私たちは立ち止まることなくすいすい歩いていく。入ってすぐにある下の階まで続く大きな水槽も、川みたいな展示も、シラスの成長過程の展示も、横目にしながらただ進み続ける。

 そんな私たちの歩みは、ある展示エリアで止まった。大きなプラスチックの模型が光る、クラゲコーナーだ。

 大きなクラゲからとても小さなクラゲまで、いろんな種類の子たちが仄暗くも青く輝く海のような、宇宙のような、水槽という小さな世界を自分の力で自由に泳ぎ回っている。

 するとふと、後ろから声がしてきた。その声に、私たちは振り返る。

「海月、あなたこんなところに呼び出して、どうしたの?」

 そこにいたのは、一人の女性。歳は四十歳くらいで、落ち着いた服装に落ち着いた雰囲気。そして口にした名前からして、この人が海月ちゃんのお母さんだ。

「わたしがどれだけ心配したと思ってるの⁉ それに、その人は誰? まさかあなたが、うちの海月を誑かして」

 海月ちゃんのお母さんは、娘へと駆け寄ってその手を取ると、続けざまに私を睨みつけてきた。仕方ない。実際私は未成年の海月ちゃんを家に泊めていたのだ。

「ちがうの、聞いてお母さん、私は──」

「海月は黙ってて。あなた、こんなことしてどうなるか分かってるの?」

 私はあの日、海月ちゃんに助けられた。ダメだと分かっていても流されてしまう。昔っから、一人じゃ何も決められず、人の意見ばかり聞いてきた。

 今までの私なら、ずっと海月ちゃんを家に泊めて、ここに来てなかったかもしれない。来たとしても、お母さんに言われるがまま、すべてを受け入れようとしていたかもしれない。でも、いつまでもそのままじゃダメなんだって、ずっと頑張ってきた海月ちゃんに教えられた。だから私も、私の意志で、海月ちゃんを助けたい。その為に私にできることは──。

「はい。分かっています、お母様。でも、許してほしい、認めてほしいんです。だって私たちは、真剣に交際しているので!」

 私の一世一代の大宣言に、海月ちゃんのお母さんも、海月ちゃんも固まってしまった。

「そ、それとこれとは別でしょう!」

「ち、ちがうのお母さん。私が美穂さんに泊めてってお願いしてたの」

 打ち合わせもしてないのに、海月ちゃんは私に綺麗に合わせてくれた。

「だからって、未成年だと知ってて家に泊めたことは変わらないわよ」

 それはもっともだ。現に私も、知らなかったとはいえ、そして知ってから、罪を犯したという自覚はある。でも、私がここで捕まっても、問題は解決しない。解決できるのは、本人たちしかいないから。

「だって……。だってお母さん、私のこと、自由にさせてくれないじゃん。髪も服も全部決めて。私だって、自分の好きな、可愛い姿になりたいの!」

「それはあなたのためを思ってよ。あなたのお父さんみたいな、最低な人間と出会ってほしくないから」

 海月ちゃんのお母さんから、衝撃的な言葉が飛び出した。すぐさま首を振り海月ちゃんの表情を窺ったけど、どうやら彼女も知らなかったようだ。

「私だって、初めはあの男のことを愛していた。でも、結婚してからは段々豹変していって、ついには私に手を上げてきたの。だからあなたには、そんな思いをして欲しくなくて」

 初めて知った、知りたくなかった真実は、きっと彼女にとってとても大きく重い。

 そのはずなのに、海月ちゃんは、強く、自分の言葉を紡ぐ。

「そんなの、そんなの私には関係ない。私のためって言うなら、なんで私の好きにさせてくれないの! それに私には、美穂さんがいる!」

 昂った感情は、他の人の感情も動かす。海月ちゃんの想いは、お母さんを。お母さんの想いは、海月ちゃんを刺激する。

 このままじゃ、せっかく時間を取ったのに二人ともちゃんと話ができない。だから、私が。

「お母様、私は海月ちゃんの可愛さを好きになりました」

「ほら、可愛い恰好をしたから、こんな犯罪者に目をつけられてしまうのよ」

「いえ、それは違いますお母様。私が好きになったのは、彼女自身の可愛さです。顔だけでも、センスだけでも、心だけでもない、彼女のすべてが、私には可愛かった。それは海月ちゃんの過去も含めた全てです。つまり、今の彼女は、もう十分可愛いんです。地味な恰好でも、派手な格好でも、彼女は可愛いんです。あなたなら分かっているんじゃないですか? 母親であるあなたなら」

 私だけは落ち着いていようと、そう心がけていたのに、強くなる語気を止められなかった。でも、後悔はしてない。

「そんなの、そんなの分かってるわよ。でも、そうでもしないと、私にはこの子を、海月を守れないのよ」

「お母さん、私のことを見てよ」

 海月ちゃんの言葉に何かを気付かされたのか、お母さんはハッとした表情を浮かべ海月ちゃんを見る。

「私、可愛くなりたい。自分の好きな服を着て、好きな人と過ごしたい。もう私、自分で考えられるし、自分のことも守れる。ダメな時は助けだって呼べるし、助けてくれる人もいる」

 そう言いながら海月ちゃんは横目に私を見てきた。やっぱりこの子は強いな。

「私ね、卒業したらやりたいことがあるの。好きな人と二人で、私が考えた、私が一番可愛いと思う服を着てお出かけするの。それは誰かに見てもらいたいからじゃない。私が可愛くなりたいから」

 海月ちゃんの描く未来は、可愛いに溢れている。

「ねえお母さん。私が小学生の頃、よくここに来て話してくれたよね。クラゲはただ流れに身を任せてるだけじゃないって。自由に、自分で泳いでるんだって。私、その話をしてくれた時のお母さん大好きだったんだ。とっても可愛かったから」



 もうすっかり冬も過ぎ、暖かい風がビルの間を吹き抜け、一人の少女の髪を靡かせる。

「ねえそこのお姉さん、今一人なの? てか服可愛いね、天使界隈ってやつ? 俺と一緒に天国見ない? なんちゃって」

「可愛いですよね、この服。でも、天使って言うよりクラゲをモチーフに作ってみたんです」

 男に声をかけられた少女は、視線を変えることもなく、何の気なしにその言葉をふんわりと受け流した。

「え、これ君が作ったの? すごい可愛いよ、ちょっとその辺のカフェで話聞きたいな」

 そんな少女の言葉に手ごたえを感じたのか、男はなおも言葉を続ける。

 すると男の背後から、するりともう一人の女性が現れ、少女の腕に抱き着いた。

「もー、こんなところで何してるの、海月? もしかして浮気?」

「そんなわけないじゃないですか、美穂さん。さ、早く帰りましょ。ていうか、その服買ってくれたんですか!」

「え、あ、もしかして君たちそういう感じ? 絶対俺と──」

「ええ、私たち、付き合ってるんで」

 揺蕩う二匹のクラゲは、流されることなく、自由に、優雅に、自分たちの力で広大な海を泳いでいく。

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Jelly Cute Fish 刀柄鞘 @310_310

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