もののけ

律王

『もののけ』

『もののけ』


学校帰りの夕暮れ時。夕陽に照らされオレンジに染まった道に、影で闇を落としていく。

「健太ー!」

不意に大声で名前を呼ばれる。振り返らなくとも声の主はわかる。島田だ。3年生の時に家の向かいに越してきて以来、2年間ほぼ毎日を一緒に過ごしている。といっても、ここ数日は用事があると言って先に帰ってしまっていたのだが。

「なんだよ、島田。」

「ちぇ、2年経ってもまだ苗字なんだから」

島田は口を尖らせる。

特段名前を呼ぶのが煩わしいとか、そういうわけではないのだが、2年間名字で呼び続けたせいか、名前を呼ぶのが恥ずかしいだけなのだが。健太は苦笑する。

「ま、いいや。それよりもさ、白いお化けの話、知ってるか?」

島田が目を輝かせながら聞いてくる。この目をしている島田は止められない。こちらがなんと答えようがずっと喋り続ける。

「知らないよ。興味もない。」

一応冷たくあしらってみるのだが、やはり無駄だったようだ。島田は身振り手振りを交えながら話しだした。

「昔、遠くの街にある兄弟が住んでたんだ。お兄ちゃんが勇希、弟が勇翔って言うんだけどさ。」



細長い月が顔を出し、太陽が隠れるのを待ち侘びるある夏の夕方、少年二人が帰路を早足に歩く。

「お兄ちゃん、こんな遅くまで遊んでて、怒られないかな。」

「しょうがないだろ。元はと言えば、ボールを木に引っ掛けたお前が悪いんだから。」

そんなことを言いながら歩く兄弟は、ふと足を止める。目の前には、白いモヤのような生物が揺れている。勇翔は恐怖に身をすくめ、助けるように勇希を見るが、勇希は顔を引き攣らせている。その目は、怯えているようにも、戸惑っているようにも見えた。

その間にも生物はこちらにじわじわと寄って来ている。その足取りは重く、砕けた脚を引きずるように左右にゆらゆらと揺れている。

「…海斗…?」

ふと勇希が呟く。その声に反応するように生物の歩みが止まる。もう一度その生物に目を向けると、確かに白いモヤのようなものの中に、真っ白な肌が見え隠れしている。しかし、その腕や脚にはおおよそ関節と呼べるものはなく、遠目にはゴムのようにも見える。決して人間と呼べるものではない。それでも、勇希は何度も「海斗…?海斗なのか…?」と呼び続けている。

「海斗って誰…?」

「何言ってんだよ!昔、お前も一緒に遊んだだろ!」

突然の勇希の怒号に、勇翔は怯えながらも記憶を探った。しかし、どれだけ探しても、一緒にいた記憶など見つからない。

「僕、知らないよ…?」

勇翔は恐る恐る勇希に言うのだが、勇希は耳も貸さず、しきりに何かを呟いている。

不意に、生物がこちらを指差した。そして、身体を震わせる。まるで笑っているようだ。

数分ほど続けていただろうか。生物は突然、弾けるように目の前から消えていなくなってしまった。恐怖から解放されたからか、勇翔は身体中からドッと冷や汗が吹き出し、その場にへたり込んでだ。

勇希は呟くのをやめ、ただ虚空をじっと眺めていた。その口元には、微笑みとも思える引きつりが残っていた。

勇翔は今だ呆けている勇希の手を引っ張り、急ぎ帰路に着いた。

家に帰ってからも、兄は口を噤んだままであった。部屋に篭ってしまい、出てこない。いつもは飯時になると我先に食卓に着くにも関わらず、今日に限っては、何度声をかけても返事すら返さない。扉を開けようにも、鍵がかけられていて開けられない。仕方なく、勇翔は一人で食卓についた。

その刹那だった。ガシャン、ガシャンと部屋から音が聞こえる。その音は次々と姿を変える。ギシ、バリン、ガシャン、まるで部屋の全てを無くしてしまいたいように、その音は続いた。

これはただ事ではない、父もそう思ったのだろう、扉に体当たりを繰り返す。扉ごと破るつもりなのだ。

バン、と音を立てて扉は開いた。中を覗き込むと、壁には穴が空き、棚や机は割れ、凹み、窓は割れている。そしてその中心に、兄が立っている。いや、立っているのだろうか。手足は弛緩し、口元は緩み、涎を垂れ流している。壁や窓を破壊した時に負ったのだろうか、手はズタズタに裂けている。しかし、そこから血は一滴も流れていない。

突然、兄は笑い出した。こちらを指さして肩を震わせている。その姿は、夕刻に遭遇した生物と酷似していた。

ひとしきり笑い終えた兄は、窓に向かって歩きだし、窓枠に足をかけた。勇翔たちが止める間もなく、兄は宙に身を投げる。

グチャ…

嫌な音が空に響く。しかし、そんなことは気にも留めず潰れた足をズルズルと引きずりながら暗闇に消えていった。

しばらく兄を、いや、兄であったはずのものを目で追い、ハッと我にかえった。

「早くお兄ちゃん追いかけようよ!」

勇翔の必死の訴えに、両親はキョトンとした目を向けている。

「何してるの!早く行こうよ!」

どれだけ勇翔が呼びかけても、両親は動こうとしない。

「…勇翔、あなたにお兄ちゃんなんていないじゃない。」

母が、ずっと閉じていた口を開く。

「何言ってるの、お母さん…お兄ちゃんだよ!名前は…」

そこで、勇翔は言葉に詰まる。

「名前は…名前は…」どれだけ探しても、兄の名前が出てこない。

少しずつ、しかし確実に、自分の中で兄の記憶が抜け落ちていっているのを感じた。

「さ、勇翔、ご飯にしましょ。」

母は何事もなかったかのように食卓に向かって歩きだした。

「…うん、わかった。」

勇翔も食卓に向かう。何か忘れてしまっている気がするのだが、夕食を食べ終えた後は、そんな気も忘れてしまい、ただ食後の甘味を楽しみにするばかりであった。



「でも、最近、そいつはお兄ちゃんのこと思い出したらしいぜ。暗い帰り道でお兄ちゃんに会ったんだってさ。」

そこまで話し終えて、島田は満足げな笑みを浮かべた。

「げ、こんな時間じゃん!ごめん健太、用事あるから先帰るわ!じゃーな!」

夕陽をその背に受けながら駆けていく島田の背中は、まるで霧のようにぼやけていた。全く、騒がしいやつだな、などと考えながら再び帰路に着くと、名札が落ちているのが目に入った。どうやら自分と同じ学校のものらしい。健太は拾い上げて名前を読む。

「島田…勇翔…?」どうやら自分と同じ学年らしいのだが、そんな名前の生徒には覚えがない。

(まあ、明日先生に渡せばいいか。)

健太は名札をズボンのポケットに入れ、また道を歩きだした。



勇翔は暗くなった通学路を一人で歩いていた。曲がり角を曲がった時、横目に何か白いものが動いたのが目に入る。

(野良猫かな…?)

しかし、それを見た瞬間目を逸さなかったことを後悔した。3年前の恐怖がまた全身を駆け巡る。

ずり、ずりと、かつて勇希だったそれは近づいてくる。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」

勇翔の必死の呼びかけに反応するように、それは足を止めた。そしてまた、3年前と同じようにこちらを指さした。しかし、今回は笑っていない。むしろ、勇翔を憐れむような、愛でるような、そんな眼差しである。

同時に、兄が震えた理由も分かった。

笑っているように見えたあの生物。その生物が指を指した理由が。

勇翔が最期に聞いた言葉。

「次はお前だ」

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もののけ 律王 @MD_aniki

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