死にたがりのヤンニョムチキンとシュレディンガーのヤンベチュキムチ

@sasa930

第1話

それは、砂塵舞い血飛沫飛び散る遠き日の青春であった。

それは、兄が指揮していれば負けるべくもない戦であった。


「お前のせいではない、気に病むことはない。今は一人でも多くの兵を脱出させることだ」

援軍に駆け付けた兄は弟を叱咤し全軍を鼓舞した。弟は弾かれたように立ちあがった。兵達の目には涙があった。しかし冷静を取り戻した彼らの心に浮かび上がるのは、否定しがたいユダの存在である。

情報が漏れていなければありえぬ敵将の対応、敵兵の配置、はたして、誰が裏切ったのだろうか。

疑念は猜疑をうみ、あるものは功名に、あるものは保身に走った。統率を欠いた軍はあっけないほど簡単に瓦解し、日が落ちるまでに勝敗は決した。

「弟よ…あとは私に任せて先へゆけ…我らが志を絶やさぬことこそ、そなたの役目よ…」

ヤンベチュが血だるまになりながら血反吐を吐くように私に言う。刀折れ矢尽き、彼が振り回している槍は敵から奪ったものであった。

「殿下、ここは危険です!早くあちらに!」

兄の側近タコライスも叫ぶ。

「でも、兄上が…」

「ヤンベチュ様の意志を無にしてはいけません、さ、早く船へ!!」

攫われるように船に移動し、錨があがったその瞬間、兄が平衡を崩すのが見えた。沈みゆく日輪が映すのは弓を構える敵兵の影と、英雄の背中へ突き出た鏃の鈍い光であった。日が落ちる速度で、兄はゆっくりと敵影に呑まれていった。


「兄上!あにうえーーー!!」


はっと目覚めた。目に映るのはいつもの天蓋である。


「陛下、いかが致しましたか?また悪い夢でもご覧になりましたか」

タコライスが駆け付ける。

「タコライス、お前、老けたな」

「は?」

「いや、大事ない、目覚めの水をもて」


思えば兄を知る臣はもはやタコライスくらいであろう。それほどこの十年の新陳代謝は激しかった。敗戦を機として従来の武断政治から文治主義へ大幅な転換が起こったのである。王宮に使える彼らは剣を折って筆をとり、力のかわりに弁証を用い、兵ではなく論を戦わせた。その過程でかつて軍功をあげたものの多くは下野していった。


下男が神経を張りつめて集めた朝の雫、その甘露に咽喉を潤わせながら、ヤンニョムは鎮めたテノールで呟いた。

「なぁタコライス、兄様はまだ生きておられるのではないだろうか。」

「死体は見つかってはおりません、ですが、、あの死地において生き残ったとは考えづらいかと。先日の地鳴りを気にしておられますか」

「地鳴りだけではない。余が即位してから天は鳴り地は轟き民の心は荒んでいった。年序の逆様に天がお怒りになっておられると考えれば、、、」

「天災は賢帝の御代にもあったこと。あまりお気になさいますな。」

宥めるタコライスは、次の言葉に身を凍らせた。

「もし兄上が死んでいたら、戦場に兄を見殺しにした罪は万死に値する。兄上が生きていれば、余は王位を簒奪した罪を贖ってやはり死なねばなるまい。タコライス、眠りの毒をもて。」


10年かけて平行世界から戻ったヤンベチュが目にしたのは、逞しく成長した弟とかつての右腕の、安らかな死顔だった。

「このシュレディンガーのヤンベチュ、必ず弟をこの世界に連れ戻してみせる。」


英雄の一昔の流離と、それに倍する流浪の旅の、ここが特異点であった。

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