Queen

トランプ

　月の見えない厚く雲がかかった夜だった。

　国道の混雑をようやく抜けた後、コンビニに寄ってから家まで帰った。空腹のはずだが食欲が沸かない。

仕方がないので、ポテトチップスの袋を開けて何枚かつまんだ。

喉が渇いていたので、冷凍庫から氷を取り出してグラスにいくつか放り込み、カティサークでソーダ割りをつくった。

　TVのどのチャンネルからも騒々しい雑音が飛び交っている。

出演者が何かのジョークでけたたましい笑い声をあげて、ビールのコマーシャルに切り替わったところで電源を切った。

　表の通りを走る車の走行音。近所の家から漏れ聞こえてくる夕食どきのざわめき。

それらをBGMにグラスを口元へと運んだ。

＊

　その日君は、やはり約束の時間を15分ほど過ぎてやってきた。

ショッピングモールの巨大な駐車場の向こうから立花きららが駆け寄ってくる。

早めに家を出たつもりだったんだけど、と悪びれずに言ってのけた。

　地方都市の郊外にある瀟洒な煉瓦造りの一軒家。

雑誌に紹介されたこともある本格的なイタリアン。

平日の昼とはいえ事前に予約した数組でテーブルは埋まってしまう。

前日に電話をかけてみたところ偶然にも一組キャンセルで空きが出ていた。

　僕らは予定が合う時はこうしてたまに顔を合わせて話をする。

たいていは当たり障りのない日常の一コマ。

何かが変わるというわけではないけれど、口に出して言葉にすることで事象が整理される。

それがきっかけで些細な別の道筋が見えてくる。そういうことってある。

　君が娘の担任についてあれこれと熱心に話すのを傾聴した。

時々相槌を打ちながら、その合間にフォークでパスタを口へと運びながら。

　デザートはレモンシャーベットにミントが添えられていた。

爽やかな後味に合うように、アイスティをふたつ注文する。

　この後は何か予定があるのか、と頃合いを見計らって尋ねる。

3時に宅配便が届くけれど再配達にしてもいい、と君は答える。

いずれにしても子どもが帰ってくるから5時までには家にいないとね、と言い添える。

車で待ち合わせしたショッピングモールの駐車場まで送るから、そこで適当に時間を潰そう。

＊

　比較的空いている幹線道路を走る間、僕たちはあまり口を開かなかった。

雨を降らすかどうか決めかねている、どっちつかずな空模様。

オーディオからは低い音でピアノとチェロのデュエット。ミニマルな伴奏の小作品。

僕は時間が止まったように流れる瞬間が好きだった。

　信号が赤から青に変わる。

＊

　中層階にあるヴィレヴァンを冷やかして、ゲーセンは高校生でいっぱいだったからパスして、

H&Mとユナイテッド・アローズを少し時間をかけてまわった。

君は冬物に合わせられるニットを、僕は靴下を一足買い求めた。

「ここは私が払う。だからランチは奢りね」

　はいはい、りょーかい。

歩き回るのも疲れるのでけっきょくスターバックスに座ることする。

カフェインレスのラテをホットでふたつ注文する。

窓側の席をとっている君の元へとそれを持っていく。

「ショッピングモール広いね、ぜんぶ見て回ったら1日かかりそう」

　そして多分、隅々まで見て回ったとしても、僕たちはそのディティール忠実に再現できないんだろうな。

僕たちは通り過ぎる日常をあっけなく簡単に見落とす。

そんなことないと思うのなら試してほしい。

例えば、そうだな。家から会社まで向かうまでの道筋。最寄り駅まででもいい。

それを正確に地図に書き起こすことができる？

僕はやってみたことがあるけど、うちのアパートから出て最初の信号までの道も正確には思い出せないんだ。

ひとつめの角にあるのが左官屋だったのか金物店だったのか、自販機はコカ・コーラの赤か伊藤園のお茶だったか。

ねぇ僕たちは現実をありのままに見ているようで、そうじゃない。ごちゃまぜの記憶の中から都合よく任意の一コマを見繕って、それっぽく並べ替えてるだけなんだ。

　ちょうど裏と表の絵柄がまったく違うトランプのカードみたいに。

表はきっちり格子の決まりきった退屈な幾何模様。

スペードのクインの隣にはジャックが収まっていると思いたいけれど、引き抜いてみれば冴えないダイヤの3で、クインの隣にはクラブのエースが並んでいる。

「この場合トランプは何のメタファーなの？」

　取り立ててなんの意味もない。単なるたとえだよ。

そこからジョーカーの新作は肩透かしだった、というレビューをYouTubeで見た話に移り、映画の話になった。

最後に見た面白かった映画でリメイクやシリーズもの以外だったのは何だったのか真剣に議論した。

＊

　遅くならないうちに解散して、それぞれの車が停めてある場所へと向かった。

宅配便の受け取りには間に合うかわからないけれど。

　君から受け取った靴下の袋の中に、買った覚えのないタオルハンカチが入っていた。

フォーマルでもカジュアルでも使える中性的な柄と色。

車を停車したままLINEを送る。

　＞今日は忙しいところありがとう

　＞ハンカチは忘れもの？

すぐに既読がつく。

　＞こちらこそ

　＞あ、伝えるの忘れてた

　＞よかったら使ってね

大事なことは冗談みたいに。ふざける時は真剣に。

そして隠すほどではないことは秘密に。

いつもの君らしいやり方にふっと笑みが溢れた。

＊

　厚い雲が折り重なっている空を、ベランダから見るともなく見ていた。

月明かりか一番星が見えたらいいのに。

手の中には残り半分になったウィスキーソーダのグラスがある。

あと半分しかないのか、まだ半分もあるのか。どちらなのかはわからない。

　通り過ぎるヘッドライト。カーテン越しに見える光と影。

それらを背景にグラスを口元へと運んだ。