あなたはおじさん「オジサン」じゃない

黒ノ時計

第1話 彼はただのオジサンだ

 彼はいつも、目覚めると必ず知らない天井を知ることになる。ついでに、ベッドの寝心地も決まったものは特にない。


 彼は過去と一緒に自分自身を何処かに置いてきたしまったらしく、物を片付けるのが苦手なように所定な位置というものを持たない。


 そして、彼はそんな性格ゆえにいつも持っているのはたった一つの黒いヴァイオリンケースと黒い革財布、それから最新の黒いスマホだけだ。


 定住を持たないというのは、つまり家がないということだが金さえあれば案外何とかなるものだ。風呂屋はあるし、泊まろうと思えばホテルなんて借りずとも公園があり、着替えなどランドリーへ適当に放り込んで使い回せば良い。


 食事だって最近はコンビニなんかで事足りるし、スーパーの一番安い惣菜でも夕食になる。彼に至っては、別に買わずとも獲物を取る手段は幾らでもある。


 流浪の旅を続けて流れ着いた、今日の寝床も実に硬い。最後の記憶は、ふらっと立ち寄った少し古い公園のベンチと暗い視界に浮かぶほんのり銀色に光る三日月。


 山の中を三日三晩歩き続けてやっとこさ都会に出たは良いものの、流石に見るに耐えない格好だった為に服屋で服を新調し、電車を使って何駅か乗り継いだ先。駅の名前すら知らず、適当に降りたせいで行く当てもなく、無計画だったがゆえに腹を空かせて倒れたところがここだった。


「あー……。腹、減ったな」


 ぐぐぐ~~~~~~。思い出したように鳴り響く腹の音により、増々発した言葉に重みが増していく。


「カレー、食べたい……」


 うわごとのように呟くが、まさか空からカレーが降ってくるわけもない。それならまだ雨粒の方が有難いなどと思いつつも、残念ながら開いた方には雨粒一つすらも流れ込んでこない。


「今日の天気は……。晴れ、なのか?」


 晴れでも曇りでも、今の彼にとってはさして変わらない。


 雨さえ降ってくれれば飛び起きるのに……。


 この世の終わりを嘆くように溜息を吐き、再び眠りにつこうと意識を奥に潜めていく。いっそ世界が終われば楽なのに、などと冗談にもならない妄想を夢に見ることを願いながら……。


 ビビビビビビビビッ!


「なななななんだ何だ何だ!?」


 突然、耳元で鳴り響いたやかましくも甲高い連続音にびっくりした左耳奥がキーンと悲鳴をあげる。終末世界にでも浸っていた気分から一転、非日常へと放り出されたような跳躍力で地面に転げ落ちた。


「何をするのかな!? 人がせっかく気持ち良く寝てたのに!」


「オジサン、生きてたんだ」


「……?」


 そこに居たのは、赤いランドセルを背負った黒い髪のショートカットな女の子だ。その可愛らしい背負い物からは巻かれた黄色い旗が覗かせており、その手には車の形をした既に役目を終えたらしい防犯ブザーが握られていた。


 それを見て、彼は一瞬にして何をされたのか理解した。どうやら、目の前の女の子に冗談半分で叩き起こされたのだ。


(この国では確か、小学生というものだったはず……。子供のしたことではあるが、流石に注意しないわけにはいかないな)


「お嬢ちゃん、ちょっと良いかな?」


「……どうしたの?」


 彼女は不思議そうに首を傾げる。どうやら悪気というものがないらしい。


「人が気持ちよく寝ていたのに、どうして起こしてくれたのか教えてくれないかな?」


「……? だって、そこのお婆さんが座りたがってたから」


「お婆さん?」


 少女の指差した、彼のほぼ真後ろに当たる位置へ振り返っても既に誰も居なかった。しかし、こんな幼気な少女が悪戯に他人の眠りを妨げるために耳元でブザーを鳴らすとも思えず、彼は小さく溜息を吐きながら少女の背丈に合わせるため腰をかがめて向かい合う。


「それは、済まないことをしてしまったね。お嬢ちゃんじゃなく、本当はそのお婆さんに言うべきだった。私が悪かったよ」


「その……、私もごめんなさい!」


 彼が微笑みを浮かべながら謝ったのを受けて、何を思ったのか少女も思い詰めたように声を張り上げて九十度に腰を曲げた。こんな立派な最敬礼をできる小学生も珍しいが、何より不思議なのは彼女がどうして謝ったのかだった。


「君が謝ることが、何かあったかい?」


「えっと……。私も、悪いことをしたから。おじさん、せっかく寝てたのに起こしちゃって……。しかも、お婆さんもいなくて、だから……」


 たどたどしく言葉を繋ぎ合わせて謝る様子は、やはり年相応だと彼は思い口角を少し上げる。そして、少女の髪の表面に触れる程度にゆっくりと撫でて「良いんだよ」と割れ物を扱うような声音で言った。


「お嬢ちゃんの言いたいことは伝わった。だから、もう気にしなくても大丈夫だよ」


「で、でも……」


「むしろ、君のくらいの歳でこんなにもしっかりと謝れるなんて偉いね。よしよし、偉い偉い」


「んん……」


 彼女はされるがまま、というよりむしろ自分から甘えるように頭を押し付けてきた。なので、暫くは撫でてやっていたが、髪に手を添えたまま気づいたことがあった。


「それで、質問なんだけど……。お嬢ちゃんを立派な子に育ててくれたお父さんとお母さんは一緒じゃないのかい?」


「えっと、その……。お父さんとお母さんじゃなくて……」


「由美!」


 そこへ、少女の名前と思われるものを叫びながら近づいて来る女性がやってきた。その人物は今時では珍しいセーラー服というのを着ており、胸元に着けた大きな赤いリボンの揺れ具合だけを見ても彼女の慌てようがよく分かった。


 息を切らしながらようなく二人の前にたどり着くと、幾度か深呼吸をして息を整えてからその少女に近づき文字通り彼から攫って肩を優しく抱いた。


「もう! トレイに行くから少しだけ待っててって言ったのに、出たらいなくなってるんだもの!」


「でも、公園からは出なかったよ?」


「……全く。でも、無事で良かった」


 彼女はそれから少女……由美のことを抱きしめて背中をゆっくりと丁寧に擦った。そのセーラー服の女性の行動は少しばかり大袈裟ではないかと彼は思いはしたが、それだけ由美という少女の身を大事に思っていることも分かり微笑ましい気分にさせられた。


 だがそれも束の間、今度はセーラー服の女性が怖い顔をして彼に近づくと「ちょっと!」と大声で怒鳴りつけた。


「あなたがこの子を誑かしたんでしょ!」


「誑かしたって……。いや、私は……」


「どう見ても誑かしたって感じよ! だって、あなたの恰好は如何にも誘拐犯って感じだもの。むしろ、どういう理由で私の大事な妹の髪を触るのかしら!」


「ええっと……」


 彼は改めて自分の恰好を見てみたが、ヨレヨレのシャツに締まりのないネクタイ、ボサボサの髪、そして口元に生えた無精ひげ……。


 買ったばかりのシャツやネクタイは恐らく持ち主の正確に似てしまったのだろう。購入してから一日以上経っている上、あちこちを動き回っているのでもしかしたら汗もかなりかいている可能性がある。


 髪は寝起きのせいで寝ぐせがついているだけだとしても、髭に関してはそこまで気を配る余裕もなかったこともあり言い訳のしようもない。


「私、警察に連絡しますからね!」


「あ、いやそれだけは……!」


「待って、お姉ちゃん。この人、悪い人じゃないよ?」


 何とか弁解しようと乱雑に髪をかきながら女性に近づこうとしたとき、由美がセーラー服のスカートの裾を引っ張りながら女性がスマホを操作する手を止めさせた。


 女性は妹の前にしゃがむと、優しい声音を出しながら問う。


「何を言ってるの? 脅されて、言わされているのよね?」


「違うよ」


 由美は首を振りながら真っすぐな瞳で答える。大人とは思えないくらい信念深い……とでも表現すれば良いのか?


 見知らぬ彼と普通に対話し、その上で頭を下げたときと言い……。由美は歳不相応にかなり密度の高い人生を送ってきているらしいことが、彼の目からは感じ取れた。


「私ね、偶々お婆さんが困っているのを見かけてね。それで、ベンチに座らせてあげようって思って。そうしたら、そこのオジサンが寝てたから……。だから、ブザーで私が起こしちゃったの」


「お婆さんは?」


「どこかに行っちゃった。オジサンにも迷惑をかけちゃったから、謝ったの。そうしたら、偉いねって」


「……そう」


 女性の方はすっと立ち上がると、今度は彼に向かい合い思いっきり頭を下げた。


「大変、申し訳ございませんでした! 私の勘違いで、二重に不快な思いを……。妹のことも含めて、お詫び申し上げます」


「そんなに畏まられると、返って悪い気になるよ……。私のことは気にしないで欲しい。むしろ、もっと彼女のことを褒めてやってください。しっかりした、とても良い子ですね」


「そう言っていただけて、私としても気持ちが楽になりました。確かに怪しいですけど、親切な怪しいオジサンですね」


「褒め言葉として受け取っておくよ……」


 あまり素直に喜べないと思う反面、自分の過ちを認めて正せる辺りは姉とよく似たのだろうと感じさせられた。寝起きから微笑ましい気分にさせられお腹いっぱい……になるわけもなく。


 ぐぐぐぐぐ~~~~……。


「あは、あはは……。すみません、この三日、四日ほど何も食べてなくて……。水とかはちょくちょく飲んでたんですけどね。そろそろ、行かないと」


 その時、きゅるるるという可愛らしい音色が鳴り響く。それは、どうやらその体格に見合った小さな悲鳴らしかった。


「お姉ちゃん、お腹空いた」


「そうよね。もうすぐ晩御飯になるものね」


「晩御飯?」


 彼は言われて、ようやく空の色が茜色に染まっていることを確認した。今日見た最初の天井が少女の顔だったせいで、すっかり時間の概念というのを失念していた。


「じゃあ、私はこれで……」


「ねえ、オジサン。オジサンもお腹空いてるんでしょ? なら、一緒に食べようよ」


「一緒に?」


「こら、由美。我儘言ったら迷惑でしょ?」


「でも、私はもっとオジサンとお話したい」


「お話、したい? あの由美が?」


 何やら、姉妹の間で彼を置き去りにして勝手に話が進行しているらしい。そんな彼の気も知らないセーラー服の彼女は、彼に対して神妙な顔つきで質問する。


「あの、この子と何かありましたか?」


「何か、とは?」


「由美は、その……。私以外の人に中々心を開かないんです。由美からもっと話したいなんて、そんなこと言われたことなくて」


「思い当たる節が、なくはないですけど……。たぶん、似てるからじゃないですかね?」


「似ている?」


「上手く説明はできないんですけどね……。何となく、子供の頃の私にね」


 彼が由美の行動から読み取ったものが、彼女の人生の裏側を覗かせたとき……。彼の人生と共通する部分が何となく伝わって、それが由美の心にも何かを感じ取らせたのかもしれない。


「えっと、その……。ご迷惑でなければ、私たちの家に来ませんか? 由美は不思議と人を見る目がありますから、きっと悪い人じゃないと思うんです」


「いや、でも私のような人間が厄介になるのは……」


「オジサン……。ダメ?」


「うっ……」


 由美が姉の下から離れ、彼の手を取りつぶらな瞳でおねだりしてくる。あまりに純真無垢な瞳ゆえ、断りたくても断ることに対する罪悪感を抱かされてしまう。


(何だろうか、こういう自然な動作ができることも才能って昔お師匠に言われたことがある気がする……)


 何だか思い出したくない嫌な顔が脳裏を過った気がするが、今はそれを振り払って目の前のことに集中する。


「因みに、献立とかは?」


「ああ……。今日はカレーにしようかと。木曜日は、決まってカレーの日なんです」


 本当は断るべきだと頭では分かっていたが、まさか相手の心を読んだのかと思わせるくらいドンピシャな食べ物を出してきたので抗うこともできなかった。


「せっかく招待されたなら、ご飯だけでも……。いいかな?」


「ええ、勿論。私たちが誘ったのですから」


「やった。オジサン、いっぱいお話しようね」


「ああ、うん」


 忘れる前に荷物を回収すると早々由美の可愛らしい小さな手に捕まり、彼女のはやる気持ちを表すようにグイグイと手を引かれる。されるまま引っ張られていると、後ろからセーラー服の女性が「あの」と声をかけてきたので由美に「ちょっと良いかな?」と伝えて振り返る。


「どうしたのかな?」


「お名前、聞いてなかったなって。私、天空橋矢恵(てんくうばしやえ)って言います。あなたは?」


「僕は……。名前自体が無いんだ」


「えっと……?」


「ああ、つまりだね。生まれと育ちが特殊でね。一応、この国では柳田玄弥(やなぎたげんや)って名乗ってるけど……。まあ、オジサンで良いよ。その方が呼びやすいだろう」


「じゃあ、取り敢えずオジサンということで」


「ああ。世話になるよ」


「任せてください! 私、料理の腕には自信あるんで!」


「お姉ちゃんばっかりオジサンと喋っててズルいよ。私も」


「オジサンは逃げないから、ゆっくり話をしようか」


「うん!」


 そんなこんなで、見知らぬ謎の男自称「オジサン」は女子高生の八恵と小学生の由美にお世話になることになったのだった。

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