因習的ジョハリの窓とプギーマン

佐藤風助

りすたーと

「……いったあ……!」


 ごすん! と派手で鈍い音が鳴り、頭に鈍痛が走って、ようやく僕の意識が覚醒した。

 アア、ココはどこなのだろう? とまだ本調子ではない頭で考える。そもそもなんで僕は無様にすっ転びベットの角に頭をぶつけるなんてマヌケな状態になっているんだろうか。いや、待てよ。今日は何月何日? 今は朝なのか昼なのか夜なのか? 

 ベットにヘンな体制でもたれかかる僕の頭に、次々と疑問が湧き出てくる。どうにもおかしい。相変わらず頭は痛む。

 なんで僕はココにいるんだっけ。コレだけ大きい音がしたのだから誰か来てもおかしくないけど、僕の他にヒトはいるのだろうか。アレ? そういえば──


 ……僕ってダレだっけ?


 わからない。わからない。名前も住所も立場も所属する集団も人間関係も全部。およそ個人を識別するであろう全ての情報を、僕は持っていない。


 僕は僕という人間を知らない……!


 驚きのあまり立ちあがろうとして、マントの裾を踏み、転んだ。いたい。ひっくり返った芋虫みたいにうぞうぞと動きながら悶える。

 落ち着け。そもそもココはどういった場所だ。うつ伏せのまま今いる部屋を見渡す。

 端的に言ってしまえばよくわからない部屋だった。

 フツウ個人の部屋といえば少なからず主人の性格や個性が反映されるはずだ。たとえば僕が読書家ならばこの部屋は本で溢れかえっているはずだし、片付けが苦手なら脱いだ服やら日用雑貨やらが散らばっているはずである。この部屋はそれがない。老若男女、古今東西、性格性別、趣味嗜好。どれをとったって一切合切わからぬ妙ちくりんな部屋だった。

 歴史感じる水墨画の隣にアイドルのポスターが飾ってあるし、英語で書かれた数学書の隣には中国語の文字が踊るマンガが乱雑に並べてある。僕が寄りかかっていたベットはお姫様が使うような天蓋付きのモノ。床にカラフルなジョイントマットが敷いてあると思ったら、途中で虎の毛皮になっていた。アンティークというのだろうか。高級感漂うデスクの上には、小学校一年生用の国語の教科書と漢字のワークが広げて置いてあるのに、筆記用具は万年筆である。しかも達筆。

 アンバランスで、ごちゃごちゃしたこの部屋。主人の様相が一切分からない。そんな部屋。一通り見回して立ち上がった。前を見据える。

 僕の目の前には大きな姿見があった。右上から左下にかけて黄土色の泥がこびりついているが、なんとか全体の雰囲気はつかむことができる。困惑したような表情を浮かべる、レトロな学ランを身にまとった少年が写っている。頭をかこうとして右腕をあげたら鏡の少年も右腕をあげたので、ようやく写っているのが僕だと分かった。

 ……ココがもし僕の自室なら、僕は水墨画とアイドルが好きで数学が得意で英語と中国語が読めて日本語を勉強している学生になってしまう。だいぶ変人だ。あまり信じたくない。

 ソレ以外の情報はないだろうかと、とりあえず部屋の中を漁ってみた。数学書を開いて一瞬で閉じ、マンガを分からないなりに読み進め、天蓋付きベットの毛布をひっぺがし、水墨画とアイドルのポスターを剥がす。デスクの上の教科書とワークをどかすと、大量の写真が目に飛び込んできた。写真は白黒でしわくちゃなモノもあれば、プリクラで撮ったようなラクガキ入りのカラー写真もある。節操なしだ。

 一枚適当に取ってつかむ。

 古い写真だった。用紙は黄ばんでいる。中央にはイスに座った笑顔の少女が写っていた。写真館で撮ったモノだろうか。なんとなしに裏面を見てみると、『1968年死去 享年十一歳』と乱暴な字で書いてあった。

 じわりと嫌な気分になって、写真をデスクに放る。適当に別の人の写真を掴んでまた裏面を覗けば、また『死亡』だとか『享年』とかの物騒な字が並べられていた。

 ……もしかして、全部死人の写真?

 信じたくないし確認したくもない。しかし事実だ。なんのために前の僕(仮定)は故人の写真を大量にコレクションしていたのだろう。そんなにシュミが悪いヤツだったのか。

 なんとなく見るのが嫌になってデスクから離れた。

 その拍子になにかを踏んづけたので足元に視線をやると、学生帽が落ちていた。拾ってかぶってみる。そのまま姿見で確認してみたけれど、やはりしっくりこなかった。

 ……本格的に手詰まりである。

 少なくともこの部屋でできる事はなさそうだ。するともう外に出るしかない。観念してドアの前に立ち、ドアノブに手をかけようとして──


「おキャク様〜! なんだか大きい音がしたようだけど大丈夫かしら〜!?」


 勢いよくドアが開け放たれた。

 内開きのドアだったもんだから、ギャグマンガみたいに壁に挟まれそうになって、なんとか回避する。風でデスク上の写真が舞った。


「……アラ? もう大丈夫になったの? ソレはよかった! アンマリにも顔が真っ青だったからさすがに心配してたのよ。ホントよ? ウソはつかない主義だわ!」


 立て板に水でペラペラと聞かれていない事まで話す彼女のことを、僕は信じられなかった。

 ツギハギだらけのワンピースを着た、十二歳程度の少女だった。

 ただ、ゆるく波打つ彼女の茶髪にはこぶし大のネジがぶっ刺さっているし、可愛らしい顔の左半分は紫色になっている。彼女が身振り手振りを追加するたびギイギイ軋んでいる。それだけ。

 ──明らかにニンゲンではない、ナニカ。

 悲鳴をあげようとして、上手くいかずに喉に詰まって消えた。その代わりなのか奥歯がガチガチと痙攣し始める。ふらりと倒れ込みたくなるのを気合いで押し留めた。クラクラする。


「まだ顔色が悪いようだけど大丈夫かしら? 大丈夫じゃないわよね! どうしましょう! マスターに相談してみましょうか!」


「あ、あのっ!」


「ハァイ! なあに?」


「どちら様で、しょうか……?」


 キョトンとした顔で一瞬だけ止まって、またかとでも言いたそうな冷たい表情をして、すぐにケラケラ笑いだした。


「ホント! アナタって忘れっぽいのねえ! いいわ! もーいっかいご挨拶してあげる!」


 お手本のようなカーテシーをしながら。


「──ワタシは偉大なる吸血鬼、ミフネア・ツェペシュ様により造られた人造人間、メアリー・フランケンシュタイン」


 変色した顔を歪めて笑って。


「どーせ短い付き合いになるだろうけど、これからどうぞヨロシクね?」



 ……



「さ! マスターのとこまで案内したげる! ついてきて!」


 腕をつかまれ乱暴に、ほとんど引きずられるような格好で部屋の外に連れ出された。落ちそうになった学生帽を掴み直し、慌てふためいて足を動かす。

 ……広い屋敷だった。

 西洋の貴族が住むような、豪奢な建物。ただ、ありとあらゆる窓は分厚いカーテンで完全に遮断されていて、時間帯は分からなかった。だだっ広い廊下で、シミ一つない真っ赤な絨毯を踏みながらグングン前に進んでいく。


「あのっ! ココってどこですか……?」


「マスターのお屋敷よ! とっても広いの!」


「マスターって、あの、ミフネアとかいう……」


「そう! あのクソッタレ吸血鬼! さっさと日に焼けちゃえばいいのに」


 ……先ほどと言っている事が違う。

 通り過ぎた部屋の数が十三になったとき、廊下の奥からひょっこりと現れた人影があった。跳ねるような動きで僕たちに近づいてくる。


「……アラ! 欣怡シンイーじゃない! ご機嫌いかが?」


 簡単に言ってしまえば、キョンシーだった。

 漢服を身にまとい、おでこにお札を貼り付けた十歳程度の少女。肌は血が通ってないんじゃないかってぐらい真っ白で、長い黒髪を三つ編みにしていた。腕を前に突き出してピョンピョン飛び跳ねている。


「……えと、メリー?」


「惜しい! ワタシはメアリー。メアリー・フランケンシュタイン」


「そうだった。で、ええと?」


「アナタはシンイーよ! キョンシーのシンイー!」


「思い出した。シンイーはシンイー」


 中身があるんだかないんだか分からない会話をしながら、漢服の少女──シンイーはメアリーと並んで歩き始める。進むたび床が軋んだ。


「そうそう! フランシスカを見かけなかった?」


「……フランスパン?」


「それは食べ物。マスターの妹さんよ!」


「シンイーはフランスパンよりニンゲンのほうが好き」


 ぐるり、と首を僕の方に回しながら。


「おまえは食べてもいいニンゲン?」


 首が回り出したあたりで過剰に働き始めた心臓が、うってかわって止まりそうになった。

 失いそうになる意識を叱咤して、相変わらず掴まれたままの腕を振り解こうとする。ビクともしなかった。この場合、僕の力が弱いのか、メアリーの力が強いのか分からないなと、妙に冷静な僕が考えた。


「食べちゃダメよ! 動かなくなっちゃうでしょう?」


「でも、お腹空いた」


「珍しい生き物を食べるとマスターに叱られちゃうわ!」


「それはいや。我慢する」


 案外あっさりシンイーは引き下がった。変な笑いが込み上げる。


「そんなにお腹が空いているのなら──」


「なら?」


「キッチンに夕食のあまりがあるから、それ食べちゃいなさい」


 普遍的な会話であるはずなのに、先ほどの会話で想像力は嫌な方向にしか働かず。脳内がスプラッターな光景で埋め尽くされて、いっそのこと気を失ってしまいたいと思った。



 ……



 メアリーに連れて来られたのは、だだっ広い広間だった。

 かっこよさよりも不便さに目がいってしまうような重厚な扉をなんともない顔で開けて、堂々と侵入する。


「マスター! 新しいお客様よー!」


 真っ白いテーブルクロスが敷かれた長い長いテーブルには二人ほど先客がいた。

 一人は、十五歳程度の少年。キラキラ光る銀髪に、宝石みたいな真っ赤な瞳が特徴的だった。不貞腐れたような、ぼんやりしているような。とにかくそんな顔をしてお誕生日席──いわゆる上座に座っている。

 もう一人は、隣に座る少年と同い年であろう少女だった。少年とお揃いの銀髪に赤の瞳。制服だろう。可愛らしいブレザーと校則違反だと一目で分かるぐらい短いスカート。堂々と足を机に乗せていてなんだかいっそ清々しい。コチラを気にすることなくスマホをいじっていて、顔をあげようともしない。

 少年が乱入者に気づき、口を開く。


「……今日入れて何日だ」


 一拍おいて、少女がスマホから目を離さずに答える。


「七日ー。賭けはウチの勝ちだね、ミフネア兄様」


「九日はちと長すぎたかな……。いくらだったか。シェケル銀貨三十枚でどうだ?」


「昔貯金してたヤツが使えなくなったからって押し付けないでよ。換金すんのめんどい」


「あいにくオマエが使っているアメリカドルと日本円は持ち合わせがない」


「じゃあ兄様がこっそり買った天然物のAB型Rh−パックでいいよ」


「……私がよくないんだが?」


「ウチだって秘蔵のヴィンテージワインだしたもん。おあいこでしょ」


 苦虫を五百匹ぐらい噛み潰したような表情でため息を吐く。勢いよく突っ伏して机に頭をぶつけていた。いたそう。


「メアリー、私の部屋の左の引き出しだ。持ってこい」


「ワタシ、アナタの召使いになった覚えはないわ! ご自分でどーぞ!」


「……メアリー」


「……ハイハイ。とってくるわね! 出不精さん!」


 頑張ってねとでも言いたげに僕に目配せして、メアリーは長ったらしい廊下に戻っていく。

 ……取り残されてしまった!

 なす術も度胸もない僕は扉の前でうろうろするしかない。正直いたたまれない。


「──そこな客人」


「は、はいっ!」


 先ほどまで死人のようになっていた少年が、妖しい笑みを浮かべながらコチラを見ていた。


「コチラにどうぞ。ちょうど話し相手が欲しかったんだ」


 少年が少女の真正面の席を指差したので、恐る恐る近づき、座った。案外座り心地はよかった。


「あ、あの、すみませんが……お名前をお聞きしても……?」


「ミフネア・ツェペシュだ。そしてコッチは──」


「フランシスカ・ツェペシュちゃんでーす。以後ヨロー」


 少年が──ミフネアが慇懃無礼に答えて、フランシスカと名乗った少女がスマホから目を離さずに言った。


「さて、君はどこまで覚えている?」


「ど、どこまでって……というか、なんでソレを」


「昨夜まで談笑していた友人がオドオドした顔で名前を聞いてきたんだ。ある程度察するだろ」


 そう言ってミフネアはケラケラ笑った。鋭く尖った犬歯が見え隠れして、やっぱりこのヒトも人間じゃあないのかもなと苦笑いを浮かべながら思った。メアリーが最初の自己紹介で色々言っていたし。


「……最初の質問に戻るが、君はどこまで忘れ、覚えている」


「……全部です。自分の名前とかも、全部」


「そりゃ一大事だな。いわゆるとこの記憶喪失か。面白い」


 同情を見せるどころか面白いとまで言いのけたミフネアに、フランシスカが冷たい視線を送る。


「面白がってる場合じゃないでしょ、兄様。ちゃんと説明してあげなよ」


「すまんすまん。……さて、我が友よ。君は何から聞きたい?」


「──僕は、誰なんですか」


「ああ、ソレは答えられないな」


 意を決して絞り出した質問は、いとも容易くあしらわれた。予期せぬ答えに動揺する僕をよそ目にミフネアは続ける。


「……そうだな、たとえば私が『君の正体は仁本に住んでいる学生だ』と言ったとしよう」


「はあ。見てくれまんまですね」


「記憶がすっぽ抜けた君は馬鹿正直にそう思い込む。ソレがいけない。君はその情報がニセモノかどうか確かめる術がないからだ。この場合、本当の君は異国の王子様かもしれないし、世界的に指名手配されている大怪盗かもしれない。血も涙もない殺人鬼という可能性だってある。それが、私の言葉一つで笑っちゃうぐらい簡単にひっくり返る。本来思い出されるはずだった記憶は本当の意味で忘れられる」


「んな極端な……。じゃあ実際の僕は王子様だったりするんですか?」


「そんなワケないだろ。常識でモノを言いたまえ」


「あなたが言い出した事じゃ? ……大体、僕にウソをつくメリットがないでしょう。一文の徳にもなりゃしない」


「なに、そんな大々的なウソじゃあなくてもいいんだ。なんなら悪意がない方がタチが悪い」


「……どういうことですか」


「私が『仁本に住む学生である君』しか知らなかった場合だよ」


「はあ。……何か問題でも? ソレが真実ってだけでしょう」


「いいや、違う。ソレは私から見た君であり、本物の君ではない。本物の君は王子様かもしれないし、大怪盗かもしれないし、殺人鬼かもしれない。あくまで『学生である君』は私が勝手に思い込んでいる肩書きに過ぎないのだよ」


「……よく分からない、です」


「言われてるよ兄様。長ったらしく説明するクセ、やめなよ」


 いいかげん頭がこんがらがってきた僕に、フランシスカが助け舟を出してくれる。

 では簡潔に、とミフネアが口を開いた。


「……つまり、だ。他人のことを全て──名前職業種族年齢趣味嗜好倫理その他もろもろ、網羅しているヤツはおらん。私だってそうだ。他人の主観で作られた穴だらけの人物像なんぞ信憑性はゼロに等しい。ついでに言ってしまえば、経歴ってのは偽装が簡単だ。君の正体が王子様だろうが大怪盗だろうが殺人鬼だろうが、君が一言『学生です』と言ってしまえば私は『そうですか』と信じるしかないのだよ。堂々と君の正体を説明できない理由は、主にコレだ」


「……はあ」


 分かったような、分からないような。結局自分のことは自分が一番理解していて嘘もつける。他人はソレを完璧に理解出来ないし、嘘を見破ることは出来ない。だから説明できない、ということだろうか。


「──まあ、そうだな。記憶喪失になった生き物が、どんな行動をとるのかは、気になるとこだな」


「性格悪いなあ。だからメアリーに愛想尽かされちゃうんだよ」


「失礼な。メアリーは初期からあんな感じだ」


 聞き捨てならない言葉が聞こえた気がするが、追求する元気もなかった。どうせ聞いたところで適当にはぐらかされ煙に巻かれるだけだろう。この短時間で、僕はミフネア・ツェペシュという少年のことを(上辺だけかもしれないけど)理解してしまった。


「ハイハーイ! 運動不足マスター! お望み通り持ってきたわよー!」


 バァン! と勢いよく扉が開かれて、ちょうど話題に上がっているメアリーが入ってきた。なぜか小脇にぐうぐう眠っているシンイーを抱えている。


「おっかえり愛しの血液パックちゃーん!」


「残念! 私はメアリーよ! 血液パックは持ってきたけど!」


 スマホを放り出して顔をあげたフランシスカに、メアリーがナニカ赤いモノを渡した。

 ──まあ、お察しの通り輸血パックだった。本来ならばイルリガードル台に吊るされているはずのソレを、フランシスカはクリスマスプレゼントを貰った子供のように見つめる。


「いいもん買ったねえ兄様! マジありがと!」


「……私の晩酌用なんだが……」


「へへっ。飲んでいい? いいよね? 飲むよ? 我慢できない!」


 異様にテンションが高いフランシスカ。ミフネアが呆れたように「好きにしろ」と言い放つ。


「いっただっきまーす!」


 かぶりついた。

 ビニールをいとも容易く食い破って、溢れ出した血液を舐めとる。吸い取りきれなかった分がテーブルに落ちて赤い染みと水たまりを作った。あたりに錆のような、鉄のような、不快な匂いが充満して──


「平気かね、友人」


「平気、じゃ、ないです……!」


 目の前で人間の血液を美味しそうに飲む生き物を見て、涼しい顔ができるヤツがいるかよ。少なくとも僕はできない。どうやら僕という人間はスプラッターが苦手であるらしい。記憶喪失回復の一歩だやったねチクショウ。こんなカタチで知りたくなかったが後の祭り。貧血でクラクラする。


「まあ落ち着きたまえ。今のフランシスカは稀血に酔っているだけだ。マタタビを舐めた猫だと思えばいい」


 昔から弱いんだ、アイツはと付け足して、ミフネアは物欲しそうに溢れた液体を見つめる。そういう問題じゃない。なんも分かっちゃいない。


「……いい匂いする」


「起きたのねシンイー! いい夢見れた?」


「お腹空いた」


 いつの間にか目を覚ましたシンイーが、メアリーの小脇で暴れて落ちる。顔から着地していたが大丈夫なのだろうか。

 ゴキン! ゴキン! と盛大に首を回しながらピョンピョン跳ねてフランシスカに近づく。


「フランスパン、いいモノ飲んでる」


「フランシスカだよお! あとコレはあげない」


「……ケチ」


「ケチで結構。欲しいなら兄様から奪ってね」


「これ以上はやめてくれ……」


 不貞腐れたシンイーは机の水たまりをすくって舐めとる。ピチャピチャと水音がして、同時にシンイーの目線が突き刺さった。


「……お腹空いた」


「わかる。たまにはパックじゃなくて生き血飲みたいよねー。こう……頸動脈にがぶっと!」


 血を啜る二人はなにやら恐ろしい方向に会話を進めている。聞きたくない。聞きたくないが、僕の耳は都合よく役割を放棄したりしない。頭がふらつくのはきっと貧血のせいだけじゃない。


「シンイーは生き血よりクビの方が好き」


「残念ながらフランシスカちゃんは肉が食えないのです。でもいいよねえ。薬剤臭い点滴用の血液よりもよっぽど新鮮だし。どくどく脈打ってて気持ち悪いんだけどね」


「おいおい、オマエが飲んでいるのを見てから言ってくれよ。私がやりきれないじゃないか」


 変な笑いが込み上げてきた。景色が歪む。距離感がつかめない。座っているはずなのに、体がフワフワ浮いているような感覚。

 そんな状態で、イヤな方向にしか働かない頭で、ふと、思いついた。思いついてしまった。

 ──もしかしたら、僕はコイツらのための食材なんじゃないか?

 ありえない。ありえないことは分かっている。百も承知だ、そんなこと。本当だったら僕はヘンテコな自室で目覚めないし、レトロな学生服なんぞ身につけているワケがない。そもそも、メアリーに見つかった時点で僕はまな板の上で鯉のモノマネをするしかなくなっているだろう。でも、そうじゃない。記憶喪失だという僕の話を聞いてくれたし、食う素振りは見せるけど実際に齧られたワケじゃない。したがって、僕は(与えられた情報を馬鹿正直に信じるのなら)ただの客人である。

 しかし、僕はその考えを脳みそから追っ払うことができない。だって、美味しそうに血液を飲む吸血鬼がいる。お腹が空いたと僕を見つめるキョンシーがいる。いやに親しげな人造人間がいて、妖しげに笑って僕を冷たく見つめる吸血鬼がいる。ぐるぐる思考が回る。回って、回って、さらに悪いモノになっていって──


「……マスター? おキャク様の顔色が悪くなってきてるわよー」


「やっぱそこらへんの人間を襲う方がランダム性あって楽しいじゃん。ソシャゲのガチャみたいで」


「分かってないなフランシスカ。自身の手で管理した人間の方が確実にうまい。犯罪にもならないしな。それに、今どき人目を盗んで吸血するのは無理があるだろう」


「やだな兄様。今更人間の法を守ろうっての? 天下の吸血鬼サマが聞いて呆れるね」


「それで自由奔放に喰いまくって吸血鬼狩りヴァンパイアハンターに目ェ付けられたのはどこのどいつだよ。腹が減って死にそうだと泣きついてきたじゃないか」


「兄様だってたぶらかしたヒトが取引相手の貴族の令嬢で慌てふためいてたじゃん。見境なしの女たらし!」


 いつの間にか兄妹ゲンカが始まって、毒々しい舌戦の中、シンイーはグウグウ寝ている。つまみ食いである程度腹が満たされたのか。度胸だけは一丁前である。

 メアリーは客人に目を向ける。死人のような顔でぶつぶつナニカ呟いていた。こりゃ重症。客人の頭の中がどうなっているのかは知らないが、きっと予想外の連続でオーバーヒートしているのだろう。お気の毒様。


「マスター? おーい!」


「ハッ! 稀血とワインの違いも分からぬヤツがなにを言う。寝言は寝て言え阿呆」


「いまだに炭酸ジュースが飲めないヒトに言われたくない!」


「なんだと!」


「事実じゃない!」


「……聞いちゃいないわね!」


 二人はとうとう立ち上がって掴みかかる。夫婦喧嘩は犬も食わないらしいが、兄妹ゲンカだとどうなるのだろうと、くだらない疑問が一瞬だけ腐った脳みそに浮かんで、消えた。それよりも二人を止めねばならない。ツェペシュ兄妹のケンカはタダじゃすまないのだ。フランシスカはいつもの斧をブンブン振り回しているし、ミフネアはどこから調達したのか、空のワインボトルを逆手に持っている。ラベルから考えるにフランシスカから奪ったというヴィンテージワインだろう。


「おキャク様ー? 立てるかしら? 多分ここは今から血みどろになっちゃうから逃げた方がいいと思うわ!」


 ……近いような、遠いような。曖昧な距離感でメアリーの声が聞こえた。

 思考のリソースを少しだけソッチに割きたかったけど、思うように聞こえない。いや、聞こえないというより理解できないのだ。頭がグラグラして、視界がぼやけて、うまく考えられない。嫌な想像もソレが原因で消えたのでソレだけはよかったが、聞かれたことすら答えられないのはいやだなと思った。

 ふと、頭に生ぬるい感覚があった。

 なんとか腕をあげて帽子をとって、触れて見る。

 ──ベッタリと、ドス黒い血が手のひらについていた。


「どうしたのかしら……って、ひどいケガじゃない! どうしたの!」


 貧血の原因はオーバーヒートじゃなくこれか、と呑気に考える。そういやぶつけた頭の処置をしていなかった。自分を忘れていたり人造人間があいさつしてきたりキョンシーが首根っこを狙ってきたり吸血鬼の兄妹がケンカをし始めたりして頭からすっぽ抜けていたのだ。かなりの時間ほっといたので出血量はかなりのモノだろう。そりゃあ貧血にもなるワケだ。


「あ、やば」


「……ちょっとマズかったかな?」


「美味しそう」


「各々の感想はいいから! マスター! どうにかしてちょうだい! ニンゲンってちょっとでも血がなくなると死ぬんでしょう?!」


 声が聞こえる。

 視界がぼやけて、暗くなっていく。


 バケモノだらけのこの館で、とうとう僕は気を失った。


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因習的ジョハリの窓とプギーマン 佐藤風助 @fuusukesatou

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